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2013.03.20

友人Tさんの御夫君のご冥福を祈ります

 3月20日(水)
 17日、大事な友人のひとりであるTさんの御夫君がお亡くなりになった。61歳、まだまだこれからという年齢であった。
 先月20日に勤務先のエレベーターの中で、突然の心筋梗塞に襲われて倒れられたが、周囲の方々の御協力ですぐに病院に搬送。なんとか一時は命をとりとめられた。しかし、病院に運ばれるまでのわずかな時間差の中で脳に酸素が送られていない時間があるというダメージを受けたようで、それからは昏睡状態が続いておられた。私も、知らせを受けて、いてもたってもいられなくなったが、何もできることがない。せめてものことを、と思って、病気平癒に霊験があるという「釘抜き地蔵・石像寺<しゃくぞうじ>」に飛んでいって、病気平癒のお札をもらってきて、まだICU(集中治療室)に入っておられた御夫君のもとに届けていただくよう、看護師さんに託した。なんとか奇跡がおこらないものか、そればかりを念じていた。
 それから約一ヶ月。意識は戻らないものの症状は安定しているように見え、もしかするとこのままで行くのではないかと思われた。それが予想外のことに、急な肺炎をおこされ、容体が急変して亡くなられたのだという。たまたま、Tさんと3人のお子さんが病室に揃っておられる時であったという。3人のお子さんはすべて独立しておられるので、通常であれば病室に詰めるのは交代々々になっていたというから、家族全員が揃った場を見計らったように旅立たれたというのは、何か不思議なものを感じさせる。
 今日の葬儀では、最後に、喪主としてTさんが御挨拶をされた。前日にも何の前兆もなく、普段通り食事をして、他愛ない会話をして、床について、翌朝起床して、車で送っていって、車内でこれも他愛ない会話をして、そして駅で別れた。その僅かな後に、会社から、御夫君が倒れられたという連絡がはいった。こうして数十年の夫婦の絆が突然に断ち切られたことについての悔恨を、涙ながらに語っておられた。今年には会社から勇退する予定で、その後の「第2の人生」の送り方についていろいろと夫婦で話しをしていた矢先の出来事だったというから、なんともやり切れない。葬儀の場には、Tさん夫婦と子供さんたち、さらには昨年産まれたばかりのお孫さんとの幸せそうな家族の写真が飾られていた。それがこんな急な終わり方をせざるをえなかったというのは、運命の非情さを恨まざるをえない(涙)。
 私の場合とは病気の質は違うが、それでも急な心臓病というのは共通している。私の場合も、病状の急変がおこったのがたまたま病院の待合室でのことであったので、なんとか命をとりとめた。しかし、その私にしても、最初の発作の時であるとか手術の時などには、脳に酸素が送られていない時間はかなりあったようで、それが脳にダメージを与えていないかどうか懸念されていた。つまり、ちょっとの差で意識が戻らなかったり、または身体に障害が残ったり、さもなくばそのままあの世に行ってしまっていた可能性は大いにあったのである。その意味では、私にとってもこれはまったく他人事<ひとごと>とは思えなかったできごとだったのである。
 御夫君のご冥福を祈ります。そして、Tさん始め、残されたご家族がどうぞ身体を大切にしていただけますように、心から願わざるをえない。


2013.03.17

2020年東京オリンピック招致に反対、の巻

20130317_131747←さいたま市議会 吉田一郎議員の演説。Youtubeより)

 今回は、ちょっと毛色の変わった記事を書き込むことにする。私はもともとスポーツには関心がないので、どこでオリンピックをやろうと、私にとっては別にどうでもいいことである。だから、2020年東京オリンピック招致についても、別にどうでもいい。しかし、やはり言っておきたいことはあるのである。

 私は2020年東京オリンピックには明確に反対したい。こんなことをいうと、また非国民とか罵倒されるかもしれないのであるが、私は2020年東京オリンピックを推進する人々こそ、(以下、自主規制)○○○○だと思っている。
 たとえば、現在の東京都知事で東京オリンピックの推進役の猪瀬直樹さん、ノンフィクション作家時代にはいいものを書いておられる人だと思うのだが、政治家になってからはどうもおかしいみたいだ。昨年には、当時副知事だった猪瀬さんは、自分のTwiterに東京五輪がいやならどうぞ、引きこもっていてください。復興への使命感がある人、世界のアスリートから生きる意味を学びたい人、日本の選手の活躍を眼の前で見つめたい人、やりたい人でやりますから」というのを書き込み、非難囂々の炎上状態になったのだという。これはちょっと信じがたい暴言だし、だいたい品がない。猪瀬さん、そういうことを権力の側に立つ人間が言ってはいかんでしょ。東京オリンピック反対論者を震災復興の邪魔者と決めつけて「引きこもり」とのレッテルをはる論理も姑息そのものである。そこまでいうならば、東京オリンピックへの国民の支持率なんて気にしてはいけない。調査に来たIOC(国際オリンピック委員会)の委員の前でも堂々と、国民の支持はあてにはしていませんが、俺たちがやりたいのだからどうかオリンピックをやらせてください、と言わねばならないでしょ。しかし、そもそも東日本大震災の復興を東京オリンピック招致のダシに使うな!とはいっておきたい。それならばオリンピックは仙台とか福島でやるべきなのである。

 私の感覚では、オリンピックが真に人類の平和の象徴というのであれば、その開催はできうるかぎり世界各地に平等に散らばらせるべきだと思う。おそらく、ひとつの都市で複数回のオリンピック開催の資格がある都市というのは、発祥の地であるギリシアのアテネだけであろう。日本で次の夏季オリンピックをやるならば、仙台や福島、または広島や長崎、さもなくば那覇というならば、それは結構である。しかし、なぜまた東京なのか? 戦後日本をダメにした大きな要因のひとつは明らかに、東京一極集中を推し進めた政策と、それにともなう地方衰退の看過である。なお、その意味では、ロンドンで何回もオリンピックがおこなわれることも、おかしい。イギリス(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)でやるのならば、第2の都市であるバーミンガムとか、スコットランドの首都であるエジンバラとか、ウェールズの首都であるカーディフとか、北アイルランドの首都であるベルファストが選ばれるべきであった。

 そういうと、東京オリンピック推進派はいうだろう。「日本では東京以外にオリンピックを開く力を持つ都市はない」。確かに、仙台や広島で夏季オリンピックというのは非現実的なのかもしれない。しかし、だから東京で、ということになるのではなく、オリンピックすら東京以外の地域では開催できないような歪んだ国づくりをしてきた日本そのものがおかしいのだ、というふうに考えるべきなのである。

 それでは次の夏季オリンピックはどこでやるのが望ましいのか? 答えは決まっている。トルコのイスタンブルである。いうまでもなくかつての大ローマ帝国の首都であったコンスタンティノポリス、イスタンブルとよばれるようになったオスマン帝国時代にも永く世界帝国の首都。「すべての都市の中の女王」と讃えられてきた栄えある都市である。

 このあたりのこと、さいたま市議会で吉田一郎議員が演説しているので、ぜひ見て欲しい(オリンピックの話題は6分37秒頃より)。この吉田さんという人、どこにでもいるような風貌の日本人(失礼!)にもかかわらず、実は凄い人なんだよね。書いたものを読んだり演説を聞いただけでも、ほかの政治家とは頭の中身が桁違いに上だということがすぐわかる。なにせこの人、若い時には、「世界に最後に残された魔窟」「一度足を踏み入れると二度と出てこれない」「どこの国の法律も適用されない無法地帯」「最大の犯罪の巣窟」などと称せられて恐れられていた香港の九龍城砦で数年間生活し、その実状をルポルタージュしたというのだから、そのシャープな国際感覚と批判精神はハンパではない。この人のウェブサイト「世界飛び地領土研究会」なんて、世界現代史を学ぶ上では必読であり、しかも興味津々の名サイトである。さいたま市議会議員になったのも、浦和市と大宮市と与野市が合併してさいたま市になった(その後、岩槻市とも合併)ことが、事実上は、浦和市による大宮と与野の併合であるとして反発し、ウェブ上に「大宮市亡命市役所」をたちあげて「大宮市再独立運動」をくりひろげてきた結果だというのだから素晴らしい。個人的には、こういう人こそ国政に打って出て日本国家の指導者になってほしいと思っているのだが、おそらく御本人はそんなことには興味も関心もないだろうな。
 その吉田氏が重要なことを指摘している。もしイスタンブルで夏季オリンピックをやることになったら、それは西欧キリスト教世界とイスラーム教世界の和解と融和につながるし、また、永年対立してきたギリシアとトルコの和解にもつながり、世界の平和と安定に貢献する可能性が大であるということである。たしかに、これまでの夏季オリンピックが、東京とソウルと北京を除くとすべてキリスト教世界においておこなわれているというのはあまりにも偏りすぎている。そろそろ、全世界で十数億の信徒をもつというイスラーム教世界で夏季オリンピックはおこなわれるべきであろうし、それは、キリスト教世界とイスラーム教世界の和解と融和という現代的意義をもつことになる。かといって、政情不安や財政破綻の国でオリンピックをやるわけにはいかないだろうから、イスラーム世界でオリンピックが開催できる国といえば、まずトルコということにならざるをえない。

 それに、よく知られていることであるが、トルコはきわめて親日的な国であり、トルコ人は私たち日本人にすばらしく親近感を持っていただいている(トルコとロシアが対立することが多く、そのロシアを日本が日露戦争で打ち破ったということに起因しているのだといわれる)。イスタンブルで夏季オリンピックが開かれたならば、地元のトルコの人々は、まずトルコ人選手を応援することは当然であろうが、それに次いでは日本選手の活躍に拍手を送ってくれることであろう。外国でおこなわれるオリンピックで、日本人選手が地元の人々から熱狂的な大喝采を受けている様子であるならば、スポーツ嫌いの私ですら、ぜひ見てみたいと思うのである。


2013.03.11

山田コレクションの紹介〜『康平記』『坊槐記』、の巻

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 私も病気持ちなのではあるが、この頃、私の身近な人やその周囲の方々の中に、健康上の問題が相継ぐ。見舞いに駆けつけたりはするが、それぞれの年齢のことや、ご家族のお気持ちなどを考えると、どうにも気分が沈んでしまう。

 3月9日には、京都府宇治市でおこなわれた、伝・松殿跡の現地説明会にでかける。平安時代末期の関白藤原基房の別業だという伝承のある遺跡である。もちろん所在は知っており、周囲に土塁が巡っているというので一度実見したいと思ってはいたのだが、お茶の団体(財団法人松殿山荘茶道会)の施設になっていて公開が限定されているので、今まで立ち入ったことはなかった。この機会は逃せないので、なんとか出かけていく。遺構の年代や、基房別業という伝承の検討は必要であるが、本格的な遺跡の調査と保存にむけたとりくみが始まったことは悦ばしい。大正期の見事な数寄屋建築である松殿山荘を至近で眺めることができたのも、収穫。


 さて、コレクションの紹介を続けよう。

 写真上は、『坊槐記(嘉応三年正月三日〜七日条)』である。平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族であり、内大臣にまで昇進した藤原(西園寺)実宗(坊城とも号す)の日記である。本文のほとんどは散逸してしまったが、嘉応三年(承安元年、1171)正月の高倉天皇の元服の記事だけが抄出されて残存しており、『高倉院御元服記』の名称でも知られている。刊本は『続群書類従』11上 公事部に所収。いうまでもなく高倉天皇は、私がこだわっている建春門院平滋子サマの皇子であるから、それにかかわる史料が手元にあるというのは、なんとなく、嬉しい(^o^)。

 写真下は、『康平記(天喜六年〜康平五年)』。記主は平安時代中期の貴族で桓武平氏高棟流の平定家であり、これは 『平定家朝臣記』 の別名でも呼ばれている。残存の条は少ないが、後冷泉天皇の時代を知る上での根本史料のひとつだとされている。刊本は『群書類従』25 雑部に所収。増淵勝一氏の詳しい研究「翻刻標注・書陵部蔵『平定家朝臣記』(天喜元年〜同五年条)」(『研究紀要 (女子短期大学部)』第15集掲載、立正女子大学短期大学部、1971年) があり、それで勉強させてもらった。それによると、平定家は摂関家の家司を永くつとめていたのだが、この縁戚の人々は日記をこまめにつけており、その一族は「日記の家」として知られていたという。この論文で改めて確認できたのは、定家の伯父が平範国であり、その曾孫が兵部権大輔平時信だということ。平時信、早くに亡くなったので官位は低いままだったが、その娘さんがすなわち後白河天皇女御・平滋子サマ。つまり、時信は建春門院サマのお父様であって高倉天皇の外祖父なのであり、同天皇即位にともなって左大臣の位を追贈されている。平定家と建春門院に直接の繋がりはないであろうが、こういうことを考えていくのも、やっぱり、嬉しい(^o^)。
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 お知らせ その1:財団法人古代学協会2013年度 古代学講座(前期)」のラインナップが発表されました。考古学と文献史学の両分野にまたがり、弥生時代から平安時代、さらには古代エジプトまでの幅広い分野が揃っています。会場の関係で人数に限りがありますので、御希望される方はお申し込みをお早めに。特に、古代学講座初登場の寺澤薫さんの「纒向遺跡論」なんて、興味津々の内容ですのですぐに満席になりそうな予感・・・・ お申し込みは古代学協会「古代学講座」担当まで。


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 お知らせ その2:財団法人古代学協会では、朝日カルチャーセンター京都との共催講座もやっています。3月3月23日はかつて古代学協会研究員をつとめられた経歴をお持ちの白石太一郎先生の「古墳から見た秦氏(はたうじ)—太秦古墳群の再検討—」。古墳時代研究の第一人者だけに、これもすばらしい内容になるのではと思っています。こちらのお申し込みは朝日カルチャーセンター京都まで。

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 お知らせ その3:3月18日15時30分〜にwowowライヴで、「工藤静香25th Anniversary Live」の再々放送があります。昨年11月に東京と大阪で2晩4回だけおこなわれた貴重なライヴ、その東京版を完全収録したものです。これを逃すともう見ることができないかもしれませんので、ご興味のある方はぜひwowowにチャンネルを合わせてくださいませ。


2013.03.08

山田コレクションの紹介〜『玉海』、の巻

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 以前から、興味をもった史料があれば、少しづつではあるが手元に集めていくことにしている。もちろん私の乏しい財布では、大したものは購入できない。それでも、長いこと続けていると、数だけはかなりなものになってくる。ただ、何でもかんでも入手しているとそれこそ財政破綻するので、京都都市史関係、天皇陵関係、考古学史関係、といったところに分野は限定している(天皇陵関係のものや考古学史関係のものは、時々は史料紹介することもある〈山田邦和「『天皇陵史料コレクション』について」(『歴史検証 天皇陵』所収、東京、新人物往来社、2001年7月)。山田邦和「寛政『古圖』所載の考古資料―美濃国野口村発見の古墳遺物など―」(京都文化博物館(仮称)研究紀要『朱雀』第1集所収、京都、京都文化財団、1988年3月)など)。
 最近、新しいデジカメを手に入れたのを機会に、こうしたものの写真をきちんと撮って、まとまった形でリストアップして、他の方々のお役にたつようにもしたい、と思うようになった。写真のための背景台を手作りしたりしていると、結構手間がかかったのであるが、なんとか写真を撮れるようになった。このブログでも、すこしづつ、こうしたものを紹介していきたいと思う。

 ここに示したのは最近手に入れたもので、『玉海』の写本である。『玉海』は、現在では『玉葉』と呼ぶ方が通りが良いと思う。平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した関白太政大臣・藤原(九条)兼実の日記である。いうにおよばぬ、この時代を研究するための根本史料である。治承4年(1180)の条ということで、入手する時には、いわゆる「福原遷都」の条が含まれているならばとっても嬉しいな、と思ったのであるが、残念ながらそうではなかった。同年4月22日の安徳天皇即位礼の記事である。まあ、そこまで話はうまくないだろうな。

 この写本は文化14年(1817)11月7日に書かれたもの。書写者の花押が記してあるが、これが誰かは未だ調べていない。ちょっと興味深いのは、書写された文化14年には、3月22日に仁孝天皇が践祚、9月21日に同天皇の即位礼がおこなわれている。つまり、この写本は仁孝天皇即位礼の約一ヶ月後に書写されたものだということになる。たぶん、即位礼に列した貴族のひとりが、それを機に天皇即位の先例を学び直そうとして、この写本を作ったのであろう。江戸時代の写本ではあるが、そういう点では面白いといってよいだろう。

【書いたもの】
■山田邦和「誉田山古墳(応神天皇陵古墳)内堤の立ち入り調査報告」(『歴史読本』第58巻第4号〈4月号〉掲載、2013年4月1日、東京、新人物往来社)、144〜151頁。


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