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2013.04.23

京都文化博物館「インカ帝国展」の巻

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 4月20日
 京都文化博物館で開催中の「インカ帝国展—マチュピチュ『発見』100年—」を見学する。けっこう楽しみにしていた。

 私がインカ帝国に興味を持ったのは、高校生時代に泉靖一氏の『インカ帝国—砂漠と高山の文明—』(岩波新書)を読んだ時だった。今思い出してみても新鮮な名著で、アンデス文明についての知識を日本で普及させるきっかけとなった本のはずだ。「それは社会主義帝国であった〈ルイ・ボーダン〉」「太陽の社会主義」といった名文句がわけもわからずカッコ良くて、それにのめり込んだ。インカ帝国の本名が「タワンティン・スウユ(タワンティン・スーユ)」(むりやりに日本語訳するならば、「四州帝国」)であることを知ったのもこの時で、妙にエキゾティクなこの国名の語感にも引きつけられた。さらに、増田義郎氏の『インカ帝国探検記—ある文化の滅亡の歴史—』(中公文庫)を読み、スペイン人ピサロによるインカ帝国の征服に手に汗握り、征服後もアンデスの山中でスペインの植民地支配に抵抗した亡命政権「新インカ帝国(ビルカバンバ帝国)」の存在に目を見張り、さらにはインカの高貴な伝統を双肩に担ったまま刑場の露と消えた新インカ帝国最後の皇帝トゥパック・アマルーの悲劇に涙したのである。

 いつかペルーに旅して、インカ帝国を始めとするアンデス文明の遺跡を訪ね歩きたいというのが私の念願であったが、身体がこうなってしまったからには、それも見果てぬ夢に終わるかもしれない、と観念している。しかし、やはりアメリカ古代文明の勉強はしていきたいし、せめて身近でこういう展覧会がある時は見逃したくないのである。

 今回の展覧会、なかなかのものである。日本でおこなわれるこの種の展覧会は、「マヤ、アステカ、インカ展」などといってアメリカ大陸の古代文明が総花的にあつかわれていることも多い。また、「インカ展」と銘打っていても、実際の展示品にはインカ以前のアンデス文明のものが多く含まれていて、これがすべてインカの文化財だと思われると困るな、というようなものもある。ところが、今回の「インカ帝国展」はそのあたりをきちんと分けており、展示品の過半はインカ文明の産物であるし、それ以前のものを扱う場合にもきちんと「インカによる征服」ということで扱っている。なかなかの見識といわねばなるまい。それから、ややもすると軽視されがちな、スペインによる植民地支配時代と、それからの独立運動にも展示スペースを割いているところもすばらしい。さらに、大スクリーンによるマチュ・ピチュ遺跡の三次元立体映像の上映もなかなかの迫力である。

 写真は、展覧会のショップで買ってきたもの。中央の陽気なオジさん人形は、ボリビアからペルーにかけて暮らしているアイマラ族・ケチュア族の間で信仰される福の神エケコ人形である。アイマラはインカ帝国に征服されたがその中でも大民族として存続していたし、ケチュアはそれこそインカ帝国の支配民族である。エケコ人形も、アンデス文明の伝統的な民俗信仰を受け継いでいると見られている。前から欲しかったのだが、やっと手に入れた。ところが、インターネットの情報を見ると、どこかのテレビ番組で紹介されて以来、日本でもマスコット的にブームを呼んでいるようで、巷で売っているエケコ人形には中国製や日本製の偽物(?)もかなり入っているから気をつけよ、と言われていた。あわてて調べてみたら、この展覧会で売っていたものは正真正銘のMade in Peruであり、純粋の信仰用とはいえないかもしれないが一応は「ホンモノ」の部類に入れてもいいであろう。
 なお、背後に写っているのは、モチェ文化の鐙形土器の形象品の模作と、モチェ文化やシカン文化でよく使われた儀礼用の斧「トゥミ」をかたちどった記念品である。どちらももちろん模作品だが、なかなかよくできていると思う。こういうものを手元においておくと、また、大学の講義でアンデス文明に触れることができるだろう。

2013.04.20

緊急入院から1年、の巻

 4月20日(土)
 あの悪夢のような日から、ようやく1年が経過した。昨年のこの日のことを思い起こすにつれ、いかに恐ろしい経験をしたのか、という気持ちでいっぱいになる。
 緊急入院のことは、なんとか生命をとりとめた段階でメモしておいたのだが、あとで妻に確かめてみると、私の思い違いや記憶違いもかなりあったようであるので、整理し直しておく。

 昨年は、3月22日(木)〜31日(土)にイタリアを旅して、ローマ時代の遺跡を満喫することができた。かなりくたびれたのは事実であるが、この時にはまだ元気ではあった。帰国後の4月1日(日)には、早速に(財)古代学協会の「古代学談話会」の「祖先たちの食べたもの」がウチの大学の今出川キャンパスで開催されたので、それに出席する。4月2日(月)は入学式。私も役職者になっていたので、入学式では壇上に登らされる。時差ボケで居眠りしないように、かなり緊張する。3日(火)からは大学の役職者としての用務と、大学の学部の新入生オリエンテーションがたてこむ。5日(木)には森浩一先生の事務所へお邪魔し、先生といろいろ協議。7日(土)は東京行きで、日本考古学協会の選挙管理の仕事。8日(日)には京都仏教会のパーティに参加。

 続く4月9日の週は、大学の仕事と、授業開始と、そのほかもろもろの仕事が怒濤のように押し寄せていた。9日(月)は日本史研究会古代史部会で、今年度の大会の共同研究報告の関連検討会で、「古市晃『5・6世紀における王宮の存在形態―王名と叛逆伝承―』検討報告」を報告。古市さんの古墳時代王宮論を検討する。11日(水)には大学の評議会に初出席。報告事項の担当がある。14日(土)は古代学協会の評議員会に出席。これはかなりの時間がかかる。たしかに、こうして思い返したみただけでも、我ながらかなりなハードスケジュールであったな。

 しかし、その頃から、序々に体調不良が顕在化していたようである。日本史研究会古代史部会のあとにおこなわれた呑み会には参加せずに帰宅したことを覚えている。いつもならば呑み会には率先して参加していたのだから、この時の参加者の中には、何かおかしいな、と感じた人もいたようである。さらに、14日には友人の安藤栄里子さんの訃報に接し、大きな衝撃を受ける。それから、4月16日(月)に栄里子さんの御通夜にお詣り。このあと、朧谷寿先生、山中章さん、清水みきさんと共に、安藤さんの冥福を祈りながら、食事。しかし、思い出すと、この時にももう、かなり体調がおかしかった。それにもかかわらず、この週も、仕事が立て続け。18日(水)には新年度初の教授会。新任の役職者としての報告事項があるのだが、咳が止まないので、大きな大きなマスクをして出席し、できるだけ他の人には接触しないように心がけながら、なんとかこなす。教授会後には新任教職員歓迎のティー・パーティがあったのだが、それには参加するどころではなく、学長にお詫びを言って、早々に帰宅し、身体を休める。

 2012年4月20日(金)、運命の日である。あまりの不調に、薬の追加をもらうためにかかりつけのお医者さんにでかけたのだが、やはりこれはおかしい、ただの風邪ではない、ということで、レントゲンを撮ってもらう。そうすると、肺に小さな丸い影が映っているということが判明。驚天動地。肺炎をおこしていたのである。そこで、これは第2赤十字病院の専門医にかかるべきだということになり、すぐに紹介状を書いてもらって同病院に出向く。そこでもいくつかの検査を受けて薬をもらい、週明けの24日(火)に精密検査を受診するという段取りにして、いったん帰宅。とにかく、しんどくてたまらないので、すぐにフトンに入る。しかし、その間も咳が止まらない。
 朦朧としていたところに、19時頃に妻が帰宅。「すぐに御飯にするね」と妻は言ってくれたのだが、食欲どころではないし、身体を動かすことすらままならない。妻の証言によると、この時私は、咳をした時に血を吐いたという。ここから先は記憶が曖昧である。私は、この時に心臓発作をおこし、苦しみのあまり自分で「救命救急センターに行く」と言ったように思っていたのだが、妻によるとそうではないらしい。妻が判断してくれて、とにかく救命救急センターへということで、連れて行ってもらったのだという。

 病院では、這うようにして受付に入るが、待合室には患者が溢れており、「順番が来たら呼びますので待合室でお待ちを」ということで、待合室のソファーに横たわるしかない。しかしその間も刻々と悪化してくる。呼吸ができなくなってきたので、とりあえず酸素ボンベをもらったのだが、それを口にあてても、まったく楽にはならない。急性心不全という決定的な状態にいたったのは、実はこの時のことのようである(私は、自宅ですでに急性心不全をおこしていたように思っていたのだが、実はそうではなかったようだ)。激痛と呼吸困難で、もうこれはダメだ、これは死んでしまうと感じた私は、最後の力をふりしぼって、たまたま通りかかった医師の足元に身体を投げ出し、「助けてください!」と叫ぶととともにそのまま意識を失ったのである。
 そこからは、私はまったく記憶がないから、妻の証言である。この時に、私はまたまたかなりの血を吐いたらしい。医師の先生も、一見するだけでこれはおおごとだということを判断してくれて、すぐにストレッチャーを持ってきて、私を載せて治療室にはいった。この時に撮られたレントゲン写真では私の肺は真っ白になってしまっており(肺炎が急激に進行した。原因は不明)、それが心臓にも深刻なダメージをあたえ、私の肺と心臓は自力ではほとんど動かなくなってしまっていた。いわゆる心肺停止状態である。この時にすぐに死んでしまっていても、まったく不思議はない。
 妻によると、そこで医師から聞かされた私の病状は、恐るべきものだった。いわく、この人の心臓はもともと弱いところがあるから、こうした事態に対応できない。今は薬で無理矢理心臓を動かしているが、早晩、心臓がもたなくなるであろう。その時にはもはや助かることはないので、逝かせてあげる決断をせねばならない。もし助かったとしても、しばらくは人工心臓で延命しつつ、大阪の大病院に転院して、そこで心臓移植を待つしか手段はなくなる可能性が高いが、それは本人にもかなり辛いことになる。それに、日本では心臓移植はまだまだ一般的ではないから、二度と病院から出られないかもしれない・・・・。まさに、今、こう聞かされても、身の毛がよだつ思いがする。

 しかし、そんな絶望的な状態から、ほとんど奇跡的にも生還することができ、こうして、かなりの回復をみて1年をむかえることができた。まず何よりも不幸中の幸いだったのは、心臓発作をおこして心肺停止におちいった場所が病院の待合室であり、救命救急の専門の先生がすぐに蘇生処置をほどこしてくださったこと。これが大きいのだろう。そのあとも、先生方はほとんど見込みのないような状態の患者に対して奮闘していただき、こうして回復させてくださった。重ね重ねではあるが、本当に、感謝の一言しかない。

2013.04.15

山田コレクションの紹介〜『仁部記』、の巻

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 ここで示したのは、鎌倉時代中期の貴族の藤原(日野)資宣の日記である『仁部記』である。「にんぶき」と読れることが多い(「じんぶき」と読む場合もあるらしい)。記主の名前から『資宣卿記』と呼ばれることもある。自筆本は現存せず、寛元4年(1246)から弘安2年(1279)までの間の写本が、しかも断続的に残されているという。善本とされているものは宮内庁書陵部本らしいが、私は見ていない。後嵯峨・亀山両院政期の重要史料であるはずだが、活字本が公刊されていないのはどうしたわけだろう? 文献史の研究者の方、ぜひ、どなたか翻刻をしてくださいませ。

 これまで私が使わせてもらってきたのは、京都府立総合資料館蔵の江戸時代中期の写本だった。これ、最近では京都府立総合資料館貴重書データベースで画像が閲覧できるようになったから、ホントに便利になった。

 私にとってこの『仁部記』が重要なのは、 文永11年(1274)に桓武天皇柏原山陵が盗掘されるという事件がおこり、その記事がこの日記の文永12年2月17日・21日両条に出ているのである。つまり、この日記は桓武天皇陵を考える最重要史料のひとつであるということになる。このあたりのことは、今までいろんな論文で書いた(註1)(註2)。

 だから、古書店で『仁部記』の写本を見つけた時も、まっさきに購入を決めた。例の桓武天皇陵盗掘記事にあたればいいのにな、と思って、ドキドキしながら荷を開いたのであるが、残念ながらその年のものではなかった。私蔵となったこの写本は弘長2年(1262)2月のものである。まあ、そうはいっても稀覯書のひとつであることはまちがいないし、後嵯峨・亀山両法皇の院御所であった亀山殿(註3)についての記事もでているから、これはこれで何かの役にたつだろうなと思う。

(註1) 山田邦和「桓武天皇柏原陵考」(『文化学年報』第48輯所収、京都、同志社大学文化学会、1999年3月)、同「桓武天皇陵」(別冊歴史読本『歴史検証 天皇陵』所収、東京、新人物往来社、2001年7月)。また、同「平安時代の天皇陵」(高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』所収、京都、思文閣出版、2010年10月)でも少し触れている。

(註2) 私はこれらの論文の中で、桓武天皇陵の推定地として、後に伏見城の二ノ丸が築かれた桃山丘陵の最頂部がもっともふさわしい、と論じた。ただこれについては、もっと北方の深草の丘陵地帯のほうがふさわしいとする来村多加史、山中章、渡里恒信各氏の異説があり(ことに、渡里氏は山田の説を詳細に批判しつつ、自らの説を展開している)、これらにも充分に理があることは確か(ただ、仁明天皇陵に関しては私説にまだまだ分があるな)。
 来村多加史『風水と天皇陵』(講談社現代新書、東京、講談社、2004年)
 山中章「日本古代宮都の周辺」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第134集所収、佐倉、国立歴史民俗博物館、2007年)
 渡里恒信「桓武天皇陵と仁明天皇陵の所在地—両陵の位置関係から—」(『続日本紀研究』第398号掲載、続日本紀研究会、2012年)

(註3)亀山殿については、山田邦和「中世都市嵯峨の変遷」(同『日本中世の首都と王権都市—京都・嵯峨・福原—』所収、京都、文理閣、2012年)、参照。

2013.04.14

ちょっと贅沢、の巻

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 4月13日(土)
 友人のNさん、Kさんの御夫妻と、ウチの夫婦で、食事会。私が倒れた時、御夫妻は私の回復を祈ってくださり、そのあかつきには必ず食事会をして祝おう、ということをウチの奥様と密約していた、らしい。ようやくそれが実現するところまできた。もちろん、いつもは食事も摂生しているのだが、本日だけはそのあたりの縛りを緩めて、ちょっと贅沢をさせてもらうことにする(たまにはいいよね(^o^))。ワインも、これまでのように次から次へとグイグイと空けることはせず、ワンランク上の品を、ゆっくりところがすようにしながらいただくことにする。おかげで、ふだんならば手が出ない格の赤ワインを注文してしまったぞ。ウチの奥様も大満足。さらに、サプライズで、デザートのケーキに、私の「復活」の祝辞をイタリア語で銘記してくださった。
 Nさん、Kさん、どうもありがとうございました。今後ともどうかよろしく。

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 本日4月14日は、工藤静香さんの43回目のお誕生日です。おめでとうございますm(_ _)m。昨年はソロ・デビュー25周年ということでいろんなイベントがおこなわれ、テレビでお顔を拝見する機会もしばしばあったので嬉しく思っていました。今後もどうか御活躍あらんことを願っています。
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【書いたもの】
■山田邦和(講師)、同志社女子大学史料室(編集)『京都の近代化と同志社』(同志社女子大学史料室講演会記録 4、京都、同志社女子大学、2013年3月5日)、全26頁。
■山田邦和・天野太郎「『京都学』を学ぶための文献ガイド」(『現代社会フォーラム』第9号掲載、京田辺、同志社女子大学現代社会学会、2013年3月31日)、60〜73頁(山田執筆:60〜67頁、天野執筆:67〜73頁、山田・天野共同執筆:60・73頁)。
【しゃべったこと】
□山田邦和(講演)「豊臣秀吉の聚楽政権―将軍任官挫折から武家関白政権樹立へ―」(西陣歴史の町協議会〈京都百人一首・かるた研究会、じゅらくだい倶楽部、特定非営利活動法人NPO平安京、紫式部通り会〉・特定非営利活動法人京都歴史地理同考会〈主催〉「聚楽城(聚楽第)はなぜ大事か」を考える連続講演会、於聚楽会館、2013年3月30日)。

2013.04.07

山背・伽和羅の桜、の巻

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 新年度を迎え、ウチの大学にもたくさんの新入生が入ってきた。さあ、私も気を持ち直しながら、少しでも前進しなくては。

 京都は桜の名所として知られる場所が数多い。そうしたところは、春には観光客で満杯になる。しかし、もちろん、桜の綺麗なところは有名寺社ばかりではない。
 写真で示したのは、京都府京田辺市の馬坂川。近鉄新田辺駅から東へ徒歩五分くらいのところで、私はいつも大学への通勤ルートとして通っている場所である。ふだんはなんの変哲もない小川なのだが、春のこの季節だけは桜が満開となって美しい。

 写真中央に石碑と説明板が見えるが、これは「伽和羅<かわら>古戦場」の顕彰碑。『日本書紀』崇神天皇十年九月九日条に、「武埴安彦の乱」が登場する。崇神天皇に対して反乱をおこして山背(京都府南部)から大和に攻め入ろうとした武埴安彦であったが、倭迹迹日百襲媛命(いうまでもなく、箸墓伝説の主人公)の超人的能力によって反乱が見破られており、崇神天皇の軍に迎撃を受ける。武埴安彦は「輪韓河」(木津川)の戦いに敗れて戦死、総大将を失った武埴安彦軍は総崩れとなり、兵たちは甲冑を脱ぎ捨てて逃走した。その、「甲」を脱いだところが「伽和羅」と呼ばれるようになり、これが現在の京田辺市河原にあたるのだというので、この碑が建てられている。
 京都市の範囲には、やはり平安時代以降の史跡が大多数で、『日本書紀』の時代のものは数少なく、どうしても馴染みがなくなってしまう。それに対して、南山城にはちょこちょこと『書紀』史跡があり、そうしたものに出会うのも、なかなか楽しいものである。

 なお、武埴安彦の乱については、以前、ちょっとだけ触れたことがある(山田邦和「『京都学』と『山城学』」〈森浩一編『地域学から歴史を読む』所収、東京、大巧社、2004年11月〉)。あんまり注意されていないように思うのだが、この主人公である武埴安彦は、孝元天皇と河内の豪族の娘との間に生まれた皇子であるとされていることが重要である。つまり、伝承の中では武埴安彦はれっきとした王族のひとりであり、血統的には皇位をねらえる立場にあった人物であったことが示唆されている。つまり、武埴安彦命は河内の豪族の力をバックとしながら山背を押さえているという、大和への玄関口二方を掌握する人物として描かれている。また、一方で崇神天皇の命を受けてこの乱を鎮圧したのが大彦命<おおびこのみこと>と彦国葺<ひこくにふく>であるが、これは大和を本拠地として北陸方面を伺う勢力という位置づけがなされている。
 もちろん武埴安彦伝承はそのまま事実ではないであろうが、その中には連合政権としての初期ヤマト政権に内在した政治的な矛盾や葛藤が反映している可能性が高いと思う。わが大学のある京都府南部の地は、奈良盆地東南部のような初期ヤマト政権の本拠ではなかった。しかし、『書紀』ではこのように、初期ヤマト政権にとって重要な地域として描かれているのである。

2013.04.03

聚楽第近くで秀吉を語る、の巻

130403(←クリックで拡大。京都国立博物館「狩野山楽・山雪」展の開会式。左端に女優の藤原紀香さんがおられる)

 4月2日、新年度の入学式。小雨で、春爛漫とはいかなかったが、今年もたくさんの新入生をむかえる。

 3月26日。同志社大学の同志社社史資料センターの展示施設である「Neesima Room(ニイシマルーム)」で「第42回Neesima Room企画展 会津と八重―八重を育てた故郷― 」の開会式。わが同志社女子大学の「史料室」の「第18回企画展 『新島八重と同志社女学校』」と併せて、たくさんの方にみていただきたいものである。

 3月27日。病院の定期検診。1月に精密検査をした結果を聞かせていただく。先生のパソコンの画面に、私の心臓のコンピューター・グラフィックスによる三次元映像が映し出されて、びっくり。手術の後経過についても、良い状態で固定しているようで、安堵する。心配していたのは、将来的に、大動脈破断といった生命にかかわる異変がおこる可能性。これについても聞いてみたが、その可能性はもちろんあるものの、それについては定期的な精密検査によって病変の進行状況を観察することによって対応を考えることができる、と言っていただき、気持ちが軽くなる。なんとか、一病息災、といった形にもっていきたいものである。
 東京から、友人のT橋S一郎さんがおいでになるので、食事。闘病の時にも温かいお見舞いの言葉をいただいたので、再会できたことがこの上なく嬉しい。嬉しさで、ちょっとハメをはずしてしまったかな?

 3月28日。花園大学で勤務した時の「教え子」の1人であるO田K司君が訪ねてくれる。考古学を志し、大学院を修了以来、これまでいくつかの教育委員会や埋蔵文化財センターで有期の嘱託として仕事を続けてきた。安定しない職ばかりで本人も不安はあっただろうが、今回、T県教育委員会の文化財担当の専門職として正式の採用が決まったので、その挨拶に来てくれた。こうして頑張っている姿を見せてくれることは、何より嬉しい。

 3月29日。京都国立博物館「狩野山楽・山雪」展の開会式。同博物館の「広報特使」をつとめることになられた女優の藤原紀香さんの御姿も見え、ウチの奥さんなんかは大興奮している。展示は圧巻。山楽・山雪の凄さはもちろん、これを企画した京都国立博物館の底力はさすがである。

 3月30日。聚楽第石垣保存運動の一環で、「《聚楽城(聚楽第)はなぜ大事か》を考える連続講演会」。地元の西陣歴史の町協議(京都百人一首・かるた研究会、じゅらくだい倶楽部、特定非営利活動法人NPO平安京、紫式部通り会)と特定非営利活動法人京都歴史地理同考会の主催する催しである。ということで、「豊臣秀吉の聚楽政権―将軍任官挫折から武家関白政権樹立へ―」を話す。私にとっては、病気以来、授業を除くと人前で話す始めての機会になるので不安もあったが、聚楽第保存・顕彰運動の一環でもあるので、これはどうしても協力しなくてはならない、ということで、思い切って引き受けた。講演の「カン」が戻っているかな?と自分でもちょっと懸念だったが、さすがに聴衆の皆さんの反応がものすごく良く、それに呼応した形でなんとか最後まで講演をこなすことができた。内容は「秀吉はなぜ将軍にならなかったか?」という問い。中日新聞の連載でそのさわりは触れたことがある(山田邦和「秀吉はなぜ将軍にならなかったのか(1)〜(6)」(『中日新聞』2012年1月28日号〜3月3日号)が、私は、最近の通説にいささか反抗し、「秀吉は足利義昭の猶子となって将軍になることを目指したが、義昭に断られたためにそれを断念した」という考えに回帰している。今回これを話したのは、そのことが秀吉の聚楽第築城に直接に関連すると考えたからである。久しぶりに聴衆のみなさんの熱気が渦巻くような場に出させていただき、感謝。終了後は、N村T生さんはじめ主催者の皆さんと歓談。つい遅くなってしまう。

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