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2013.07.28

紀伊田辺、の巻

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(↑クリックで拡大。左:田辺城の水門、右:会津川より望む田辺城水門開口部)

 7月27日(土)
 1617会(いちろく・いちなな・かい)の第56回「和歌山・田辺例会」。関西を中心とした中近世の都市をテーマとするこの会も、もう56回を数えるんだな。すばらしい研究会を組織してこられた発起人の大澤研一さん(大阪歴史博物館)、仁木宏さん(大阪市立大学)、松尾信裕さん(大阪城天守閣)、山上雅弘さん(兵庫県立考古博物館)のご努力に敬意を表するとともに、感謝。
 とはいうものの、実はギリギリまで参加をためらっていた。和歌山県田辺市の城下町見学というのは非常に魅力的なのだが、京都からはやっぱり遠い。10時の集合時間に間に合わせようとすると、朝の6時過ぎには自宅を出発していなくてはならない計算となる。こんなことを言っては多数の皆さんに怒られてしまうだろうが、私は実に朝が弱いので、起床できるかどうかまったく自信がないのである。えい、ままよ、出たとこ勝負で、起きられたならば行こう!と横着な考えになる。すると、なんということか、スムースに起きられた。眠いのは眠いのだが、JRの特急の車内で爆睡して睡眠を補うことになる。

 紀伊田辺、今まで関心はあったが、足を運ぶことはできなかった。なかなかに活気がある街で、ちょっと嬉しくなる。どうでもいいが、私の本務地である京都府京田辺市は、もともとは京都府綴喜郡田辺町で、市制施行の際には京都府田辺市にしたかったのだが、それでは早くに市になっていた和歌山県田辺市とバッティングするので、やむなく「京」をつけた、という経緯がある。私は、博物学者南方熊楠の居住地であるということくらいしか知識がない。ウチの奥さんにそれを漏らすと、即座に「紀伊田辺っていえば、弁慶の誕生の伝説地でしょ!」と返される。そうそう、そういえばそうだ。『平家物語』にも、熊野別当の湛増のゆかりの地として出てくるな。

 10時、田辺市教育委員会の堀さんに御案内にいただいて、巡見開始。かつては「新熊野十二所権現」と呼ばれていた闘鶏神社は田辺のひとつの中心。なかなかに立派な社殿である。境内には湛増と弁慶の銅像も鎮座している。その後、くねくねとした城下町を見学。ただ、町の中心である田辺城跡のほとんどが住宅地となっているのはいささか残念である。僅かに残された水門(写真左)で城の構造をしのぶ。町の真ん中にはけったいな塔が見える。なんじゃいな、と思っていたら、修復中のNTTの電波塔だった(写真右)。私には、港によくある常夜灯の石灯籠に見えてしまったぞ。

 上野山城という中世の城跡にも登ることになっていたが、かなりの坂道だというのでそれに恐れをなして、私だけはリタイア。それなら、ということで、不世出の学者である南方熊楠旧邸と顕彰館を見学する。熊楠の交友関係について述べているパネルの中に、先日このブログでも言及した白井光太郎の姿が含まれていることに、ちょっと感激。

 午後はシンポジウム。会場に併設された歴史民俗資料館も見学。小さいがなかなかに充実した展示である。磯間岩陰遺跡の出土品も展示されている。そうか、この遺跡もなかなかに有名なのだが、田辺にあったんだな。興味を引かれるのはあちこちの古墳から出土した須恵器。なかなかに在地色が豊かなものが含まれている。もしかして南紀にもこの時期の須恵器窯があるのだろうか。

 シンポジウムでじっくりと勉強した後、いつもながらの懇親会にくりこみ、さらに実の深い議論。19時41分、帰りの特急に乗り込み、そこでも議論。京都着は22時近くになり、かなりくたびれはしたが、良い1日でした。


2013.07.26

斎藤忠先生のご冥福を祈る(附:白井光太郎書簡)、の巻

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(↑クリックで拡大)
〔上左:白井光太郎ハガキ(山田蔵)、上右:山田宛の斎藤先生ハガキ、
下:白井光太郎書簡(斎藤先生蔵、拠『日本考古学史資料集成』)〕

 7月24日の新聞で、大正大学名誉教授の斎藤忠先生が21日に逝去されていたことが報じられた。104歳になっておられたから、まさに「考古学界最長老」という形容がふさわしい。その前日の20日にやった研究会の後の懇親会で、私が死にかけた話から発展して、やっぱり研究者は長生きしなくちゃ損だな、という話題で盛り上がっていた。その時、どこそこの学界ではだれそれが百何歳まで存命だった、ということに話の花が咲き、私は「考古学界ではなんといっても斎藤忠先生」ということを述べていたばかりであった。

 ただ、私は京都在住ということもあって、斎藤先生とは僅かな接点しか持つことはできなかった。しかしそれでも、斎藤先生とは不思議な縁<えにし>を感じていることは事実である。それは、日本考古学の黎明期を飾った学者・白井光太郎(1863〜1932)にかかわる出来事である。白井光太郎は植物病理学者として東京帝国大学理科大学教授となった人物であるが、若い頃には考古学・人類学に傾倒し、親友の坪井正五郎(東京帝国大学文科大学教授となる)と手を携えながら研究を進めて華々しい業績を挙げた。特に、坪井との間に「日本先住民族起源論争(アイヌ・コロボックル論争)」を繰り広げたことは、考古学のどんな教科書にも載っている学史的論争であった。

 学生時代、いつものように古本屋さんの店頭をあさっていた時、私は古ぼけた1枚のハガキに目を止めた。これが白井光太郎の自筆のものであった。値段を見ると、私でも購入可能な範囲である。当時の私としてはこんなものが手に入るとは思ってもみなかったので、狂喜乱舞したことを覚えている。これが、上左に掲載した写真のものである。

  「先日御送り致したるものはとりけし
   旧友坪井正五郎ぬしの身まかられしを悼み侍りて
                            白井光太郎
     もろともに 探りし跡は 有りながら 君を再び 見るよしのなき
     同し窓 一ツ机に いそしみし 学の道の あはれはらから
     あはれ君 同し学の 友垣に せめぎし事も 昔なりけり
     道の為 遠き境に 使して やがてかへらぬ 君ぞかなしき
   右雑誌餘白も候ハバ御掲載御依頼申上候」

 坪井正五郎は大正2年(1913)にロシアで客死したのであるが、白井のこのハガキは、親友の坪井の逝去を悼み、坪井が主宰していた『人類学雑誌』に掲載する追悼文のためにしたためられたものである。ここに記されている白井の和歌には、亡き友への白井の想いが溢れ出ているように感じる。ここで注目されるのは、このハガキに「先日御送り致したるものはとりけし」との文言が記されていることである。つまり、これには第1通目の書簡が存在していたのであるが、白井自身が修正版としてしたためたのがこのハガキなのである。

 これをきっかけとして白井光太郎について調べ始めた私は、斎藤先生の著書のひとつである大冊『日本考古学史資料集成』(吉川弘文館、1979年)を紐解いて、まさに目を見開いた。そこには斎藤先生所蔵の白井の書簡(写真下)が掲載されていたのである。内容からして、これが私蔵ハガキに先行してしたためられた「第1通目」であったことはまちがいない。そこには、下記の三首の和歌が記されている。
   「同じ窓 一ツ机にいそしみし 学の道の あはれはからか
    携へて 探りし跡はありながら 君を再び 見んよしもなし
    あはれきみ 学の道の友垣に 迫めぎし事も 昔なりけり
この両通の和歌を比較すると、私蔵のものでは一首が追加されているし、もう一首の歌も推敲がなされたことが明白である。つまり、白井は坪井の死去を悼んで和歌を詠んで第1通目書簡を送ったのであるが、必ずしもそのできばえに満足できず、「先日御送り致したるものはとりけ」すために第2通目をしたためたということになるのである。

 白井のこの2通の書簡はその後に相互に別れて市場に流れてしまったのであるが、70年ほどの時を経て、いかなる運命の導きか、1通が考古学界の泰斗である斎藤先生の元に、そしてもう1通がはからずも私の手元に招き寄せられたのである。これで「縁」の不思議さを感じないというほうが無理であろう。

 私は、こうした経緯もふくめながら白井光太郎の生涯と業績を振り返り、それを「やがて帰らぬ君ぞ悲しき―白井光太郎博士の一書状―」(『古代文化』第38巻第12号掲載、京都、古代学協会、1986年)という論文にまとめた。今読み返すと若さによる気負いが目立って恥ずかしいのであるが、それでもこの論文は私にとって、大事な大事な作品のひとつである。論文ができあがってきてから、何をさておいてもと思い、面識のなかった斎藤先生のもとにお送りした。そうすると、間髪いれずに礼状をいただくことができた(写真右上)。駆け出しの研究者であった私にとって、これ以上の励ましはない。斎藤先生のこのハガキは、今も私の宝物のひとつとして大事に持ち続けている。

 その後、私は学位論文として『須恵器生産の研究』(東京、学生社、1998年)を刊行した。学術書の出版にこぎつけたということだけでも嬉しかったのであるが、その翌年、突然に坂詰秀一先生(当時・立正大学教授)からお電話をいただき、「あなたの『須恵器生産の研究』が第8回雄山閣考古学特別賞に選ばれたのだが、受諾してくれますか?」と言われた。これはまさに望外のことで、私に異存があるはずがない。本当にありがたかった。この賞は考古学書の出版に定評のある雄山閣が創立75周年を記念して制定したもので、賞の少ない考古学界としてはなかなかに権威あるものとして認められていたからである(※註)。そして、この賞の選考委員会は坂詰先生はじめ7人の学界の重鎮から構成されていたのだが、その委員長をつとめておられたのが斎藤先生だったのである。
 同年6月19日、私は妻を同道して東京にでかけ、この賞を拝受した。式の席上、斎藤先生に初めてお目にかかることができた。白井光太郎のことを申し述べると、私の論文のことはよく覚えていただいていた。斎藤先生は自ら筆をとって、この第8回雄山閣考古学賞選考経過を明らかにされている(『季刊考古学』第68号)。斎藤先生はここで
「山田氏の『須恵器生産の研究』、森(郁夫)氏の『日本古代寺院造営の研究』の両書は、ともにすばらしい内容である。私自身これらの本を拝読して、多くの資料を駆使しての充実した内容に感銘を覚えるものがあった。そして、日本考古学の健全な発達を垣間見るようで喜んだのであった。さて、この一冊を特別賞として選ぶことはきわめて困難であり、会議の席上でもさまざまな意見があった。ただ、山田氏は少壮学者であり、21世紀へ向けてさらに躍進しようとする前途有望の研究者であり、その激励への意味をも含めて、ここに特別賞の候補とすることに委員一同の意見の一致を見た」
と書いていただいている。内容からすると森郁夫先生の御著書が勝るのは当然だと思うのだが、「激励への意味をこめて」、あえて拙著を選んでいただいたというのである。森郁夫先生(帝塚山大学名誉教授。森先生にもいろんな機会に親切にしていただいてたのであるが、今年の5月30日に75歳でお亡くなりになった。ご冥福をお祈りします)には大変申し訳ない結果となったのであるが、私にとってはこの受賞は名誉このうえないことであった。

 斎藤先生で驚くのは、その最晩年にいたるまで著作を発表し続けられたということである。『中国天台山諸寺院の研究 —日本僧侶の足跡を訪ねて』(1998)、『中国五台山竹林寺の研究—円仁(慈覚大師)の足跡を訪ねて』(1998)、『古代遺跡の考古学者』(2000)、『郷土の好古家・考古学者たち 』東日本編・西日本編(2000)、『日本考古学の百年』(2001)、『仏塔の研究—アジア仏教文化の系譜をたどる』(2002)、『考古学とともに七十五年—斎藤忠自伝』(2002)、『日本考古学用語小辞典』(2003)、『幢竿支柱の研究』(2003)、『六地蔵幢の研究』(2004)、『日本考古学人物事典』(2006)、『古都扶余と百済文化』(2006)、『中国・韓国・北朝鮮の古跡への回想—漢詩の情感に触れつつ』(2007)、『古都慶州と新羅文化』(2007)、『古都開城と高麗文化』(2007)。ここに挙げたものは、なんとすべて90歳を超えてからの本であり、しかもその中には400頁とか500頁とかいう大冊がいくつも含まれているのだから、これは驚愕を通り越して、奇跡を見ているというしかない。

 考古学界の碩学、斎藤忠先生のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

(※註)
雄山閣考古学賞は、「雄山閣考古学賞」(本賞)と、「雄山閣考古学特別賞」(特別賞)のふたつから構成されていた。私がいただいたのは後者。ちなみに、この時に本賞を受賞されたのは福島大学教授の工藤雅樹先生の蝦夷論3部作「古代蝦夷の考古学」「蝦夷と東北古代史」「東北考古学・古代史学史」であった。工藤先生も2010年1月29日に72歳でお亡くなりになった。ご冥福をお祈りいたします。また、雄山閣考古学賞は私の時の第8回の後、少し間をおいて平成14年度に第9回が授与されたのを機に、休止となった。


2013.07.19

角田文衞先生のイス、の巻

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 自宅の私の書斎、原稿を書いたりするのはほとんどすべてここでやっているから、私にとっては本拠ともいうべき場所である。ここで以前使っていたイスは座り心地が良く、都合10年ほどはお世話になったのだが、これがさすがに寿命となった。そこで奮発して、けっこう高価なイスに替えたのだが、これがどうも具合が悪い。短時間だとどうってことはないのだが、長時間になると腰のあたりに違和感を覚えるようになる。そこで、泣く泣くこのイスは引退させ(廃棄ではなく、ウチの奥さんに譲った。彼女はたいへん具合良く使っているというから、やはりイスと人との相性はあるのだろう)、もう安いのでいいや、というので、家具量販店で安価なものを買ってきた。ところがまたまたこれが具合悪い。やはり安価というのはそれなりの理由があるのか、クッションの部分がすぐに凹んできて、座布団を敷いたりしてなんとかごまかしてきた。要は、私はどうもイス運が悪いようなのである。

 そこに入ってきたのが耳寄りな話。古代学協会で角田文衞先生が使ってこられたイスがある。同協会の理事長室に鎮座していた堂々たるもので、角田先生はいつもここに腰かけて執務しておられた。ただ、同協会理事長室を改装することになり、このイスもそろそろお役御免となるという。しかし、完全に廃棄してしまうにはあまりにもったいない。渡りに舟、というのはこのことで、ありがたく頂戴し、自宅で使わせてもらうことにした。さすがに、なかなかの座り心地である。これで私も、角田先生のようにバリバリと研究成果を挙げていけるようになるといいな、と妄想してしまう。


2013.07.15

「八重の桜」展、開会、の巻

Yae_a4(←下段は開会式のテープカット。右から5人目が同志社女子大学々長加賀裕郎先生)

 7月13日(土)
 京都文化博物館で特別展「八重の桜のオープニング・セレモニーがある。いうまでもなく、本年度のNHK大河ドラマの関連企画である。東京会場(江戸東京博物館)、福島会場(会津若松市の福島県立博物館)を経て、京都にやってきた。わが同志社女子大学も、「特別協賛」という形で加わっている。
 内容は結構充実している。もちろん主人公は新島八重なのであるが、彼女だけに焦点をあてたものではなく、その前史から社会背景までにも心が配られている。まあ、いうなれば、「幕末・明治期の会津・京都、そしてそこにおける新島八重」展、とでもいうべきかな。とにかく、八重夫人について知ってもらうことはわが大学にとっても意義のあることだから、たくさんの人に見ていただきたいものである。また、これを御覧になってから、もしお時間に余裕があるならば、同志社女子大学今出川キャンパスに足を運んでいただき、同志社女子大学史料室第18回企画展 『新島八重と同志社女学校も見ていただけるとありがたい(小さな展示ですが・・・)。

 博物館近くの「京都八百一本館」のレストランで食事をしてから、私は大阪へ。「博物館実習」の授業の学外見学として、国立民族学博物館を訪ねる。授業の一環だと、あらかじめ申請をだすことによって入館料免除の特典を受けることができるのがありがたい。大阪モノレールの公園東口で学生を集合させ、民博へ。私は1年半あまり来る事ができなかったから、ホント、久しぶりである。展示内容もかなり替わっており、新しい展示物を見ることができてありがたい。もちろん大きな博物館だから駆け足で一周するだけでかなりくたびれるが、学生諸君も堪能してくれたと思う。
 ただ、退館しようとすると、突然の豪雨。とてもとても外に出られたものではない。仕方ないので、しばらく館内で待機。まあ、歩いている最中に雨に見舞われるよりはマシというものだな。半時間ほどしてようやく脱出可能となる。

 7月14日(日)
 2016年に、世界考古学会議(WAC)の四年ごとの本会議が京都で開催されることになっている。その準備会と、受け皿となる「WAC Japan」の設立総会があるので、それに出席。まだだいぶ先のこととはいえ、かなりの大事業である。これの進展については、またいずれ・・・


2013.07.08

研究会いろいろ(附:はじめてのお泊まり)、の巻

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 すこしづつ、研究会にも出席を増やしている。

 6月22日(土)。この日はどういうわけか、あちこちで研究会やら講演会がバッティングしている。そのどれにも親しい研究者の方々がかかわっておられるというので、あちら立てればこちら立たず、という苦境とあいなる。しかし、いずれにしても身体が複数あるわけではないのでは、これはしかたない。やはり優先順位としては、どうしても私の前任地である花園大学考古学研究室の大会に出席しなくてはなるまい(記念写真はこちら)。今回はいわば「古墳特集」。滋賀、京都、奈良から、最新の調査成果の報告がある。特に興味深かったのは、推古天皇の初葬陵(大野岡上陵)と推定される奈良県橿原市の植山古墳の調査。ようやく全体の調査が一段落したようで、報告書の刊行が待たれる。
 特筆されるのは、今年の花園大学考古学研究室には、新入生が13人はいってきてくれたということ。花園大学の考古学コースの母体となっている文化遺産学科は定員60人だから、これは驚嘆すべき数なのである。
 最近の学生の中には、せっかく大学に入学しても、自分がどのような道に進んで行ったらよいのかわからず、右往左往しているうちに数年がたち、そう言っているうちに就職活動やら卒論やらに突入してしまい、結局大学で何を学んだのかが不明なままに社会に旅立って行く、ということがよくある。大学の指導層の教授の中にもこうした現状を憂うどころか積極的に追認する人々がいる。彼らによると、大学の学部では専門バカにならないように広い教養を身につけさせるべきである、専門的な学問は大学院に進んでからやったらいいのだ、というのであるが、これはまったくのおマヌケな話である。「教養」とは、単なる無脈絡な知識の集積であっていいはずがない。やはり、学生はひとつの学問をきちんと段階を踏んで学んでくれなくてはならないし、そうしたひとつの学問へのこだわりがないことには、結局は「教養」も身につかないのである。それに、学部でろくろく学問的訓練を受けていない学生が、数年だけ大学院で学んだとしても、それできちんとした研究ができるはずがないのである。
 私は、入学当時はまことに頼りなく幼かった学生が、ひとつの学問を一生懸命学んでいくことによって、卒業の時には見違えるように成長した姿をたくさん見てきたのである。その点では、考古学というのが面白そうだ、これに挑戦してみようという学生が、花園大学ではこれだけ集まってくれたというのはまことに頼もしい。彼ら彼女らの行く先に幸あらんかれ!

 6月29日(土)。前近代都市論研究会。これは内輪のグループである。今回は大阪・梅田。残念ながらいつもの常連のYMさんだけが仕事の都合でご欠席だったが、そのほかのフルメンバーが集まることができる。報告は、N良大学のK内M芳さんによる近江国今津の問屋について。K内さんらしい、いつもながらの手堅いお仕事である。研究会終了後は、改築なったばかりのフェルティバルホールにでかけて、その上層階のレストランでフレンチ。ワインをたくさんあけて、みんな満足である。

 7月6日(土)・7日(日)。山梨県笛吹市の帝京大学文化財研究所で恒例の「考古学と中世史シンポジウム」。今回は「金属の中世-資源と流通-」がテーマとなる。この会、毎年楽しみにしているのだが、もちろん昨年は行くどころではなかった。みなさん、私のことを覚えていてくれているかな、と心配したのだが、それは杞憂だった。私の病状のことも知っていて、声をかけてくださる方々も多い。ありがたいことである。そして、私にとっては今回が、病気以来はじめての、「お泊まり」をする旅行の機会ということになった。正直いって京都から山梨は遠いのであるが、逆にいうと、私もやっと、それを乗り切るまでに回復できたということになる。
 驚いたのは、中世考古学の重鎮として知られるOさんも何年か前に同じ病気を患い、大手術を受けられたとのこと。たちまち、同病相哀れむ状態で話が弾む。それにしても、Oさんは今はまったくお元気になられ、以前と変わらずバリバリと活躍しておられる。そのお姿は、私にも大変励みになる。
 研究会の夜には、もちろん懇親会。一次会と二次会まであり、夜がふけるまで存分に語り合うことができる。今年は特に、少しづつではあるが若い人の姿が増えてきたことも頼もしい。ひとりの若い女性など、O市教育委員会の文化財担当として職を得たために日本中世に取り組みつつあるのだが、もともとの専門はイスラエルの考古学なのだという。こういう若い人々が日本中世考古学に参入してくれることは、必ずや将来の希望となっていくに違いない。


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