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2013.09.30

橋下政党「維新」壊滅か?、の巻

 9月29日(日)
 この数週間ほど、選挙のことでハラハラドキドキしていた。大阪府堺市の市長選挙と市議会議員補欠選挙である。とはいっても堺市民でない私には選挙権はないから、投票という形で主張を表明するわけにはいかない。言いたいことは一杯あったのだが、市民でもない人間が、といわれてしまいそうなので、意見表明も差し控えざるをえなかったのである。ともあれ、堺市長選挙は現職の竹山修身氏が当選。対立候補で大阪維新の会の西林克敏氏は敗北した。ダブルスコアまではいかなかったが、竹山氏が西林氏に1.5倍近い大差をつけたことで、大勝の部類にいれることができるであろう。まことにめでたいことで、まずは堺市民の良識ある選択に敬意を表したい。(とはいうものの、市議会議員補欠選挙の3議席はまことに接戦であったようで、しかもそのうちの1議席は「維新」の候補者の手に落ちた。まだまだ油断はならないということだな)。

 「維新」の顔である橋下徹大阪市長。政治家として急にでてきた時から、この人とその一派が勢力を持つとエラくマズいことになるという予感はしていた。泡沫候補で終わるのではという淡い期待も持っていたのだがそれは希望的観測に終わり、御承知の通り、その後にこの一派は急成長し、メディアの中には橋下氏を将来の首相候補ともちあげるものまで現れる始末で、私は戦慄をおぼえていたのである。

 橋下徹という人の問題は何なのか。私にいわせると、彼が、人間として一番大事な要素をどこかで擦り切れさせてしまっていることである。生まれつきそれを持っていないはずはない(そんな怖ろしいことは考えたくない)のであるが、おそらく彼は、今までの人生の中でそうした要素を意識的に「封印」してして世の中を渡り、結果的には世間的に「成功」と見られるような立場に身を置くことができた。その自負は、「封印」は正しかったのだという自信につながったのではなかろうか。彼の異常なまでの攻撃性や自己主張は、そうでも考えなければ説明がつかない。

 橋下氏の問題点は数え上げたらきりがないが、私にかかわる分野だけでいうと、彼が「文化」を敵視しているとしか考えられない行動をとることである。彼は府知事に就任した直後、「大阪府には図書館以外の文化施設は不要だ」と公言し、その結果として博物館や図書館などいくつもの文化施設が閉鎖されてしまった。芸術活動団体などにも、橋下氏の指示で公的補助金を削減または廃止され、青息吐息の状態に追い込まれたところがいくつもある。かつて、大阪は「ゲスの町」だと陰口を叩かれていた。金儲けばかりに熱心で文化にはまったく関心をもたないというのである。しかし、20世紀後半の大阪は、行政も企業も今までのやりかたではダメだということにようやく気づき、文化振興をはかることによって自らの町の「都市格」をあげることを高らかに掲げていった。それは一定の成功をおさめ、ようやく大阪は全国から尊敬を集める町になっていったのである。しかし、それを一撃のもとに破壊したのが橋下氏だったのである。

 そもそも、橋下氏とその一派が声高に主張するのは、やれ大阪にカジノを造れば儲かるぞとか、道頓堀をプールにしたら客が集まるぞとか、仁徳陵(私たちのいう大山古墳)を電飾で輝かせたら観光客にウケるぞとか仁徳陵(私たちのいう大山古墳)を世界遺産にするためにはそれをイルミネーションで輝かせたらいいとか、特別史跡大阪城でモトクロス大会をやった(これは実現した)ら大阪が元気になるぞとか、そういうことばかりなのである。史跡・文化財を活用すること自体が悪いこととは言わない。それでたくさんの人が見に来てくれて、その史跡・文化財に対する関心が高まることは結構なことである。しかし、ここで言っておきたいのは、そうした「活用」の際には、その史跡や文化財が内包している価値への「敬意」が不可欠だということである。橋下氏一派の主張には、そうした敬意が欠損しているところが一番マズイのだと思う。

 今回の堺市長選の結果は、橋下氏一派の目に余る振る舞いへの大きなNO!であるといってよい。一派の中には単に橋本氏の人気に便乗してきただけの連中もいるようだから、そうした日和見主義者が「維新」からどんどんと逃亡する可能性も高く、そうなると「維新」自体が空中分解するという期待も持てる。今までは他党も橋下氏の勢いに怖れをなして「維新」に迎合してきたが、これからは是々非々で事におよび、「維新」は孤立を深めるであろう。ただ、そうした予想はつくのであるが、橋下氏自身はなかなかにしぶとい人物であるから、リベンジを期しているかもしれず、楽観視は禁物なのであろう。

 さらに、橋下氏の野望は「大阪都」の延長として、近畿圏全体におよぶ「関西州」を実現するところにあると想定される。事実、橋下氏は自らが大阪府第2庁舎とした「咲島庁舎」(旧WTCビル)を将来の関西州の州政府庁舎に予定しているという発言をしている。しかし、私としては、「橋下氏が牽引する関西州」に京都が呑み込まれるような悪夢は絶対にみたくない。今年春の兵庫県での市長選挙の時に、「維新」の幹部のひとりが「大阪都ができた暁には、兵庫県の南東部から神戸市までも大阪都に併合し、その特別区に加えてやる」と大風呂敷を広げて兵庫県民の大反発をくらい、それが一因となって「維新」は大敗北を喫した。その時、兵庫県の一市民が言った言葉をもう一度思い出したい。「維新よ、バカは大阪だけでやってくれ!」。

〈追記1〉
上に、橋下氏一派の構想として「仁徳陵を電飾で輝かせれば観光客が集まる」というのがあると書いてしまいましたが、これはちょっと正確ではなかったので、その部分を修正します。正しくは、「維新」幹事長である松井一郎大阪府知事が「梅田、中之島、阿倍野、天王寺と、世界一のイルミネーションをドカンとつくって、世界中からお客さんにきてもらうことを考えている。今、イルミネーションの話しがでたが、仁徳天皇陵を世界遺産にするためには、単に国に要望するだけでは無理だ。仁徳陵をイルミネーションで飾るとか中を見学させるとかいった知恵をだして魅力を高めてこそ、世界遺産になっていくことができる」と述べている、ということでした。まあ、世界遺産というものの意義を全然わかっていないことを自ら暴露している点で、よりヒドい発言だとは思いますがね・・・

〈追記2〉
上記、「仁徳陵にイルミネーションを」発言が伝わるや、ネットユーザーのなかには早速、「こんな感じにでもするつもりなのか?」と、画像までつくって皮肉る人が登場しました(この画像には、さすがに私も笑ってしまいました)。それに対して、「維新」支持者の中には「松井知事が言っているのは石舞台古墳などでもやっているようなライトアップのこと。イルミネーションと言ったのは単に言い間違っただけ。それをアンチ維新がことさらにとりあげて攻撃材料にしている」と松井知事を擁護する人もいたようです。しかし、松井知事は大学は工学部電気工学科卒業ですし、その後は関西電力グループの電気設備工事会社に就職、さらに電気工事、電気通信工事の専門会社に転じてそこの代表取締役までも務めた(なお、同社の現社長は松井知事の弟さんだということです)という経歴の持ち主であり、電気工事にかけてはプロ中のプロです。その人がライトアップとイルミネーションの区別がついていないはずはない。これは本気だと見なくては整合性がとれませんね。

2013.09.27

織田信長を語る、の巻

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 昨年の入院の際には、お引き受けしていた講演や講座がすべてキャンセルとなってしまい、関係者の皆さんにはたいへんなご迷惑をかけてしまった。退院以降も、まずは身体のことが第一ということで、外の仕事はできるだけお断りせざるをえない時間が続いていた。しかし、ありがたいことに、体調もかなり回復している。そこで、来年度には本務の授業も、もとどおりの時間数に戻すことにした。また、外での仕事にもできるだけお役にたつようにして、お世話になった皆さんにご恩返しをしたいと思う。

 その第一段ということでもないが、去る13日には東京で講演をさせていただいてきた。JR東海生涯学習財団が主催している「講座 歴史の歩き方」のシリーズ。思い起こせば、このシリーズがはじまってまもなくの1998年、第2回「『京都の考古学』から見えてくる本当の古代史」というテーマで講座がくまれて、森浩一先生が講師として招聘された。その時、森先生の御指名で、私が「コーディネイター」ということになり、壇上で森先生と対談をさせてもらった。あれからもう15年もたつんだな。さらに、これをきっかけにしてJR東海と御縁ができて、さまざまな仕事を一緒にさせていただくことになる。

 今回、これの第64回として「信長の京都—『天下布武』の野望と本能寺の変—」が実施されたのである。この時代の権威者である静岡大学名誉教授小和田哲男先生とのペアということなので、光栄のいたりである。私は「織田信長と京都」を題名とさせてもらい、京都における信長の足跡をできるだけ具体的な史跡・遺跡に即してお話しする。
 会場は有楽町のよみうりホール。1000人以上はいるという大きな会場である。しかし、参加募集をかけると、これまでの常連さんなんかも多くて、すぐに申し込みがいっぱいになり、抽選ということになったらしい。このへんはさすがは東京だな。それに、満場の聴衆の皆さんが食い入るように聞き入ってくれる。ありがたい限りである。こちらもついつい熱がはいるというものである。主催者は私の体調を気にしていただいて椅子席を用意してくださっていたのだが、結局はそれをはねのけて、立ったままでの講演となった。終演後にも、聴衆のみなさんから口々に「面白かったですよ!」と声をかけていただいたので、おそらく喜んでいただけたのであろう。ありがたいことである。

 その翌日には、ちょうどはじまったばかりの江戸東京博物館の「明治のこころ—モースが見た庶民のくらし—」展を見学。モース先生が日本によせてくださった愛情に、感激。

【書いたもの】
■山田邦和「『敗者の古代史』著・森浩一—歴史を考える際の道しるべ」(『京都民報』第2605号掲載、京都、京都民報社、2013年9月22日)、6頁。
【しゃべったこと】
■山田邦和「織田信長と京都」(公益財団法人JR東海生涯学習財団〈主催〉、ジェイアール東海エージェンシー〈企画・運営〉「講座 歴史の歩き方」第64回「信長の京都—『天下布武』の野望と本能寺の変—」、於よみうりホール〈東京都千代田区〉、2013年9月13日)

2013.09.17

森浩一先生のお別れの会

130917(森先生の奥様の森淑子同志社女子大学名誉教授の御挨拶)
 9月15日(日)
 森浩一先生がお亡くなりになって、一ヶ月がたった。先生へのお別れの会が、京都タワーホテルでおこなわれる。私は実行部隊の一員として、前半は受付、後半は司会の松藤和人同志社大学教授の補助を担当。どちらも気が抜けない。杖をつきながらの立ちっぱなしは、いささか苦行。
 実行部隊の面々が心配していたのは、どれくらいの参列者がおこしになるのかわからないということ。もちろん多数の方に来ていただいて森先生を偲んでいただくのはありがたいのだが、会場のキャパを大幅にこえてしまうと大混乱をきたす可能性がある。しかし、これは誰にも予想がつかないのである。しかし、蓋をあけてみると、まるで測ったように、ほぼ会場が満席で収まる。参加者は400人くらいであろう。

 特に先生と親交の深かった何人かの方々にスピーチをお願いしている。しかし、台風の影響で東海道新幹線がストップしているということで、女優の宮崎美子さんが到着できない。やむをえないこととはいえ、関係者には焦燥の色が浮かぶ。ところが、スピーチ時間の終了間際に宮崎さんが息せき切って駆け込んでこられる。ありがたい! 到着早々で宮崎さんには申し訳ないが、さっそくにスピーチをいただく。宮崎さんのスピーチは感涙せまるもの。天上の森先生も満足されていることであろう。

 最後に、私なりに森先生の遺影に深々と礼をさせていただき、いままでの学恩に対して、感謝の祈りを捧げる。私は微力にして菲才の身ではありますが、自分なりに自らの学問を磨き上げていきたいと決意しておりますので、どうか見守っていただけますよう、お願い申し上げます。先生、これまで本当に、本当にありがとうございました。

2013.09.16

台風18号による混乱

130917(←15時頃、京都駅中央改札口での運休情報の掲示。「運転見合わせ中」の表示が連続している)
 9月16日(月)
 台風18号が日本列島を直撃。京都は、昨晩は大雨。ただ、朝になって雨が止んだので安心していたら、ニュースに接して、現在進行形で被害が広がっていることに驚愕。
 嵐山・嵯峨の大堰川(桂川)。渡月橋が水をかぶり、周囲の住宅地が浸水とのこと。こちらにも情報が。もうちょっと下流の羽束師橋のあたりも怖ろしい状況になっていたし、下鳥羽では氾濫だという。
 八幡市・城陽市間の木津川にかかる、上津屋の「流れ橋」。どうなるか心配していたのだが、やはり流失してしまったとのこと。リンク先の映像では、川の流の中に「流れ橋」の橋板がただよっている様子が写し出されている。
 鴨川。河川敷全体が水没。橋桁ぎりぎりまで水がきていたという。ただ、市街地への浸水は免れたらしい。鹿苑寺(金閣寺)の庭園の様子にも驚く。
京都と大津をつなぐ国道一号線(京津街道)の惨状にも言葉を失う。崖崩れがあったらしく、京阪電車京津線も止まってしまっているようである。京都から滋賀県に向かうためのメイン・ストリートであるために、これは大問題である。復旧にはどれくらいの時間がかかるのだろうか。
 地下鉄東西線も、御陵駅が浸水したために東西が分断されてしまったとのこと。

 私の今日の行動範囲は洛中の範囲の中に限られていたため、直撃の被害は免れた。しかし、15時頃に京都駅まで来て仰天。JRの在来線は、大阪方面の東海道本線(JR京都線)を除き、全てが停止している。中央改札口の外側は、不安そうな人々でいっぱいである。皆、なすすべもなくたたずんでいる。地べたにへたりこんでいる人も見受けられる。

2013.09.11

中世都市研究会2013鎌倉大会と和賀江島、の巻

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(↑和賀江島。海中から島の中央部が顔を出している)

 9月6日(金)〜8日(日)
 ひさしぶりの鎌倉行き。中世都市研究会2013鎌倉大会。「鎌倉研究の未来」という壮大なテーマを掲げての研究会だから、どうしても参加するべきなのである。ひとりで行くつもりだったのだが、鎌倉大好きのウチの奥さんに話すと、「アタシも一緒に行ってあげねば!」と宣う。しかし、彼女は研究会に参加するつもりではなく、鎌倉で美味しい食べ物と、綺麗なお寺廻りをするというのが目的であることはミエミエ。しかし、ウチは夫婦ふたりで泊まりがけとなると、留守番の犬たちをどうするかという問題が発生する。高齢犬の仲間入りをしているマックは私の母の家に預かってもらい、下の2匹はペットホテルということで、準備が大騒動。
 前泊するということで、金曜日に出発。鎌倉着はお昼。どうしても行きたかったのは、ひさしぶりの和賀江島。いうまでもなく、鎌倉幕府の後援のもとで貞永元年(1232)に築造された港湾遺跡である。

 かつて、平清盛が造りだした摂津国の福原京の復元研究をやった時に、一番頭を悩ませたのが、福原近郊の港湾である大輪田泊をどのような形状にするか、ということであった。清盛は「経の島」という人工島を築いて、そこを中心として大輪田泊を造っている。つまり、大輪田泊は経の島とセットで考えねばならないのである。ところが、この経の島、今のところでは実態がまったく不明。
 つまり、大輪田泊と一番近い年代の参考資料としては鎌倉の和賀江島しかないのである。そこで、国立歴史民俗博物館や神奈川県立博物館にある中世鎌倉復元模型なども参考にしながら、ああでもないこうでもないと作図をくりかえして、なんとか大輪田泊と経の島も不自然でない形におちつかせることができたのである。注意深い方はお気付きになったかもしれないが、私の福原京の復元図も、初稿(山田「『福原京』の都市構造」〈『古代文化』第57巻第4号掲載、京都、古代学協会、2005年4月〉)と改訂稿(山田『日本中世の首都と王権都市―京都・嵯峨・福原―』京都、文理閣、2012年3月)では、経の島の形が少し変わっている。これは試行錯誤のあとなのである。
 なお、和賀江島は「島」という名称で誤解されている向きがあるが、決して独立した島なのではない。半島状の、いわば「埠頭」なのである。一作年の神戸でも、私と高橋昌明先生がかかわつた「平清盛ドラマ館」では、大輪田泊の経の島は私案のとおり半島にした。これは鎌倉の和賀江島を参考として想定した姿である。しかし、同時開催された「平清盛歴史館」で展示されていた図面では、経の島はまったく独立した島とされていた。ちょっと考えればわかることなのだが、「歴史館」の展示のような復元ではそもそも港の機能を果たすことはできないであろう。しかし私は「歴史館」にはまったく関係していなかったから、同館での復元図は私の責任ではない。

 ただ、現在の和賀江島は満潮の時にはかなりの部分が海面下に沈み、干潮の際に形があらわれる。私はこの島をこれまで何度も見ているのだが、いつも時間帯がうまくいかず、島の主要部まで足を運んだことはなかった。今回はどうかな、と思っていたのであるが、島の主要部はよく見えたものの、陸地とはつながっていなかった。いつかはそちらまで渡ってみたいものである。ただ、島の横に船が3艘停泊していたのは、中世の姿を連想させるようで、ちょっと嬉しくなる。

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(↑永福寺跡)

 7日には、研究会の巡見として、復元工事中の永福寺跡の見学。かつて来た時にはまだ原っぱだった。これを見るのを楽しみにしていたのであるが、期待は裏切られない。見事な木製基壇が復元中である。これだけの立派な遺跡を保存し、復元できるというのは、まったく羨ましい限りである。

 7日午後から8日にかけては、シンポジウム。最新の鎌倉研究の現状に触れることができ、また、ひさしぶりにお会いできた研究者の皆さんもいて、大変楽しい時間をすごすことができた。

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