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2014.02.28

古墳形クッション、の巻

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 ご要望にお応えして(?)、ウチの奥さんがどこからともなく手に入れてきた、古墳形のクッション。例の「古墳形ゼリー」は箸墓古墳をモデルとしていたようだが、こちらのクッションは前方部が短い割に堂々としていて、近いのは誉田山古墳(治定応神天皇陵)かな。でも、クッションとしてはかなり硬め。私の好みとしては、もうちょっと柔らかい方がいいぞ。

 と、ここまで書いて、ちょっと調べてみたら、実はこの仲間がこんなにいることが判明。「なにこれかわいい:古墳なのにフッカフカ! 「旅する古墳クッション展」1月31日から開催」。びっくり。

2014.02.22

野口王墓古墳立ち入り調査、の巻

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(↑ 野口王墓古墳の全景。威風堂々とした立地である。)

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(← 私蔵の「大和国山陵図」に描かれた野口王墓古墳。平面形が描かれているのは、江戸時代の天皇陵絵図としては珍しい)

 2月21日(金)
 毎年おこなわれている、陵墓関係15学・協会(大阪歴史学会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学協会、古代学研究会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、日本考古学協会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会、歴史科学協議会、歴史学研究会、歴史教育者協議会)による「陵墓立入調査」。今回は、奈良県明日香村に所在する野口王墓古墳(宮内庁治定の、天武天皇・持統天皇檜隈大内陵)が対象となった。昨年は凍えるほどの寒さで閉口したが、今年はまだマシ。雨や雪にもたたられず、まずまずであった。

2014.02.17

連続ドラマW「地の塩」放映開始、の巻

 2月17日
 やはり商売柄か、考古学に題材をとったテレビドラマとか映画とかがあると、ついつい関心を持ってしまう。十年ほど前には、山村美紗サスペンス 新京都祇園芸妓シリーズ2 京都百人一首殺人事件というテレビドラマが製作され、大学の考古学研究室が舞台となるということで頼まれて、ロケに協力したことがある。牧瀬里穂さんと船越英一郎さんが探偵役をやるミステリーだった。牧瀬さんが演じる主人公が、本職は祗園の芸妓さんで、趣味で探偵業にいそしんでいるという設定だったが、そんな酔狂な芸妓さん、たぶん祗園のどこを探してもいないだろうな(笑)。また、大学の考古学研究室で、被害者となる教授、容疑者となる助教授と講師がいずれも揃って百人一首の愛好家だという設定だが、まったくケッタイな考古学研究室だな(笑)(なぜ国文学研究室ではなく考古学研究室が舞台になったのかは、知らない)。ともあれ、このドラマの中で牧瀬さんと船越さんが乗り込んでこられる研究室、当時私が主宰していた花園大学考古学研究室でロケがおこなわれています。容疑者らしい助教授と講師が整理をしていた遺物は、京都市伏見区遠山の黄金塚2号墳の埴輪群。被害者の教授の席となっていたのは、私がいつも座っていたところであり、その机の上には殺された教授の遺影が飾ってありました。ただ、それはもちろん私の写真ではありません。

 閑話休題。WOWWOWで、連続ドラマW「地の塩」の放送が開始された。実際におこった有名な「前期旧石器捏造事件」をモチーフにしつつ、そこに凶悪な未解決殺人事件がからまってくるというストーリーである。なかなか前評判も高いし、陰のある美女を演じさせては天下一品の松雪泰子さんも準主役で登場されるので、楽しみに見せてもらうことにしたいと思う。

140217(←人骨発見のシーン〈番組公式HPのプロモーション映像より引用〉)
 ただ、第1話を見て、ひとつ、のけぞってしまったことがある。大泉洋さん演ずる主人公の考古学者が旧石器時代の遺跡の発掘調査をおこなっている現場で、人骨を発見する。それが実は十数年前の女子学生殺害事件の被害者のものだった、ということから話が広がっていくのである。しかし、ちょっと待ってよ、といいたくなるのは、この人骨の発見のしかたは、考古学的にみるとあり得ない。十数年前に人間の遺体を埋めたとすると、必ずそこには、当時の地表面から掘り込まれていった穴が生ずる。どんなに綺麗に埋め戻したつもりでも、穴の内部の土とその外側の土は質が違ってしまい、完全に隠すことは不可能である。十数年の後にたまたまそこが遺跡の発掘現場になったとしたら、表土を剥いだ段階でこの穴の輪郭が見えてくるはずである。引用写真に示したようなシーンまで掘り下げたならば、穴の埋土の範囲が遺構面にクッキリと現れているであろう。しかも、見落とす可能性があるような小さなものではなく、人間ひとりが丸ごと入るという大きさである。十数年前にすぎないこんな大きな穴を、旧石器時代の赤土の地層まで掘り下げるまでまったく気づかなかったとすると、これはとうてい見落としなどというレヴェルではなく、その考古学者の目はまったくの節穴である。このドラマの製作者の方、あんまり考古学には詳しくないのかもしれないし、細かいところにイチャモンをつけるようでまことに申し訳ないが、せっかく力を入れたドラマなんだから、こういうところをキチンと考証しておいてくださることをお願いしたい。

【しゃべったこと】
□山田邦和「平安京をひもとく」(中京優良申告法人会「第2回研修会」、於京都銀行協会、2014年1月29日)
【書いたもの】
■山田邦和(監修)事前学習に役立つ みんなの修学旅行』1巻「京都」(東京、小峰書店、2014年2月7日)、全44頁。
 〜 山田邦和「修学旅行に行かれるみなさんへ」(同書表紙カバー折り返し)
■山田邦和(監修)事前学習に役立つ みんなの修学旅行』2巻「奈良・大阪」(東京、小峰書店、2014年2月7日)、全44頁。
 〜 山田邦和「修学旅行に行かれるみなさんへ」(同書表紙カバー折り返し)

2014.02.14

森浩一先生と旧・同志社大学考古学資料室、の巻

 前にも書いたが、昨年のNHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」、とにかく大ヒットの名作であって、私も毎朝かじりつくように見ていた。ワキを固めている俳優さんたちがとにかく曲者ぞろいですばらしいのであるが、中でも主人公の母親の天野春子役をやった小泉今日子さんにすっかり魅入られてしまったのである。
 見所満載のこのドラマの中で、時々、胸を衝かれるようなセリフがあった。たとえば、震災と津波で舞台となる東北の北三陸市が大打撃を受け、かつて主人公天野アキが創った「アマカフェ(海女カフェ)」も壊滅。しかしそこに人気スターの鈴鹿ひろみ(演:薬師丸ひろ子)が来演するということで、アキちゃん始め地元の皆んなが協力してアマカフェの再建に乗り出す。資金も無いなかで、いかにも素人の手作りといった形で内装と舞台をなんとか造り上げる。そこに、今をときめく敏腕芸能プロデューサー「太巻」こと荒巻太一(古田新太さん、快演・怪演!)が現れ、いかにも貧相なアマカフェの内装を一瞥する。さぞ不満なのだろうと緊張する皆の前で、太巻氏が言い放ったのは意外な一言。
「雑なのに、愛がある。ぼくが上野で劇場を創ろうとした時に目指したのがコレだ。これでいい。これがいい。お金かけたらチャンとしちゃう。この絶妙なバランスが崩れちゃう。プロでもない、シロウトでもない。アマチュアがなせるワザ。まさに『アマカフェ』だ」。
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(← 旧・同志社大学考古学資料室〈1980年頃〉)

 と、ここで話題は急に転換。森浩一先生は同志社大学において考古学研究室を主宰されてきたが、その中でずっと語り続けられてきたのが、考古学研究室が収蔵してきた資料を中核とする大学博物館を創りたいという夢だった。それはなかなか実現しなかったのであるが、森先生が退職される直前に「同志社大学歴史資料館」が創設され、先生にとっての夢が果たせたのである。

 しかし、同志社大学歴史資料館は一朝一夕で実現したのではない。そこにいたるまでには、いくつかの流れがあった。その中のひとつが、考古学研究室と森先生の資料を展示するための「同志社大学考古学資料室」である。私がここを初めて訪れたのは、たしか1975年頃だったと記憶する。同志社大学新町校舎の南西の隅っこで、考古学実習室に隣接する小さなプレハブの2階に展示室があった。今から思うと、おそらくそれは大学の物置であったものを森先生が大学と交渉して展示室に模様替えしたものだったろう。

 1977年に私が同志社大学に入学した時には考古学資料室は、旧資料室のさらに横にあった平屋のプレハブに移転していた。元のプレハブに比べると少し広い目ではあったが、建物自体はいかにも簡易建築にすぎなかった。その南半分が遺物収蔵庫、北半分が資料室となっていて資料が展示されていた。考古学資料室は授業期間の平日の午後の数時間だけ開室していたと記憶する。しかし、これも今から思うと、展示室を運営する費用が公式に大学から支出されていたはずはない。金も人員も無い中で、森先生がさまざまな工夫をしながら運営してきたのである。おそらく先生は、時々は自分のポケットマネーをつぎこむこともあったのではなかろうか。

 私の手元には、この時の考古学資料室の写真は一枚だけ残っているだけである。それを見ながら思い出していくと、まさにこれは手作りの資料室であった。展示ケースは、これも森先生がさまざまな機会に手に入れてこられたものの寄せ集め。はなはだしきは、折りたたみ式の机にラシャを貼付けてその上に遺物を並べた部分もある。園部垣内古墳の粘土槨の模型があったが、これなど実は先生がNHKの番組に出演した時に作ってもらい、それを放送終了後にもらってきたものである。

 なお、中央にえらく立派な木製のケースがあるが、これは京都国立博物館が改装する時に、八賀晋先生(当時は京都国立博物館考古室長、後、三重大学教授)の御厚意で寄附してもらったものである。逆にこれは戦前の国立博物館の様相を伝える貴重な資料となった。

 しかし、学生時代の私にとってはここはまさにパラダイスであった。私は機会ある限りこの部屋に入り浸りながら考古学資料と触れ合い、考古学の遺物の見方を会得し、さらにはそこに込められた調査の「物語」を吸収していったのである。たとえば、ここには和歌山県井辺八幡山古墳出土の装飾付須恵器が陳列してあった。私はこの部屋で、ごくごく日常的にこの遺物を眺めていたのである。そのことが「とっかかり」となって私は、後に装飾付須恵器の研究に熱中することになる。そして、多少の自負を込めていうと、私の装飾付須恵器の論文は、今もこの分野についての基本的な文献になっているはずである。

 いつも、なんでも豪快に笑い飛ばす森先生であるが、一度だけ私はこっぴどく叱られたことがある。私は軽い気持ちで、勝手に展示ケースを開けて遺物を取り出し、観察と実測をしていたのである。しかし何かの用事があって、その遺物を机の上に放置したまま長時間出かけてしまい、それを先生に見つかってしまったのである。その時に森先生は、ここにある資料はすべて、研究室の先学たちが苦心に苦心を重ねながら収集してきたものである。資料を活用しての勉強は大いにすればよい。しかし、先学の労苦に思いを馳せることなく、それを単なる「モノ」としてしてしか見ないのならば、ここの資料に触れる資格はない、といったことをこんこんと諭されたのである。その時の私は、まさに顔から火がでるほどに恥ずかしかった。同時に私は、森先生がひとつひとつの資料に込めていた「愛」の凄まじさに感じ入ったのであった。

 予算も何もない当時の考古学資料室だったから、特別展示などはできようはずがない。しかし、おそらくただ一回だけの例外として、昭和56年(1981)12月に3日間だけ、同志社大学での文化史学会の大会に併せる形で、「男山丘陵の須恵器生産」というミニ特別展があり、私は森先生の命令によって資料借用に走り回った。先生がどういうわけでこのミニ展示をやろうと思われたのか、真意は知らない。ただ、その時に私は、文化史学会大会で、はじめての学会発表(「山城国の須恵器生産についての一考察」文化史学会1981年度大会、1981年12月5日)をやらせてもらった。私の拙い研究発表ではあったが、それと呼応したこのミニ展示があったことによって、いわば「つっかえ棒」をしてもらったように思っている。

 この時の同志社大学考古学資料室は、確かに金はなかった。展示も、近年の洗練された各地の博物館に比べると「雑」そのものに見えるかもしれない。しかし、「あまちゃん」の太巻氏の言葉を借りると、これでいい、これが良かったのである。森先生は自分の身銭を切って研究を積み重ねる市民の人々を「町人学者」と呼び、彼等を本当に大事にしていた。森先生自身はもちろんアマチュアではないのであるが、「町人学者」の精神と矜持は持ち続けておられた。そうした意味でいうと、先生が造り上げてきた考古学資料室は、まさに、すばらしき「アマ博物館」だったのだと思っている。

 私はその後に京都文化博物館の学芸員となるが、残念ながらこの博物館は、そうした「アマ博物館」とは縁遠い存在であった。花園大学に移籍してから、私は花園大学歴史博物館の創設に携わり、その運営の一角を担った。私にとって花園大学の博物館は、私自身の夢の一部の実現であった。今の私の切なる願望のひとつは、こうした「アマ博物館」の夢を、どこかでもう一度花開かせたい、ということなのである。

2014.02.07

伝・菅原道真古筆、の巻

Img_0247_3(← 家蔵の伝「菅原道真讃岐断簡」)
 私の誕生日の2月3日(月)の京都新聞に「重文級含む史料数万点」の見出しが踊った。油小路の万寿寺下ルにある本草漢学塾「山本読書室」(平安読書室、亡羊読書室ともいう)の跡の土蔵から、松田清京都外国語大学教授の手によって大量の古文書が確認されたというのである。私は近世思想史に疎いので、今までは山本読書室跡の前を通ってはいても、あんまり関心を持つことはなかったのであるが、こんな凄いものが出てきたというのは慶賀の至りである。
 ここでは岩倉具視関係史料をはじめとする幕末・維新期の史料が重要なようだ。ただ、記事中で私的にアララッと思ったのは、この史料の中に「菅原道真直筆の可能性が指摘される9世紀の写経もあり」と記されていたことである。伝菅原道真筆という古筆断簡はいくつも実例があるが、その中で真筆であると確言できるものはないはずである。たとえば、京都国立博物館蔵の古筆集である国宝「手鑑 藻塩草」にも伝・道真筆の写経が含まれているが、これも確実な証明があるわけではない。古筆は中世・近世に観賞用として珍重され、バラバラに切断され、さらには「古筆家」という鑑定家によって鑑定書が濫発され、真偽のほどがまったくわからなくなってしまっているものが多いからである。山本読書室で確認されたものも、おそらくこうした古筆断簡のひとつではないかと推測するが、これについては記事にも詳しく述べられていないので、きっちりとしたことは私にはわからない。

 どうしてこんなことが気になるかというと、私の手元の史料の中にも「菅原道真讃岐断簡」と銘打った一筆があるからである。私の所蔵史料の大半は私がいろんな形で集めてきたものであるが、これだけは例外である。これは、私がまだ中学生だった頃に私の父から贈られたものなのである。2月3日の誕生日のプレゼントだったようにも思うが、そこまではっきりとした記憶はない。父からすると、菅原道真は天神さんであり学問の神様だから、私が学校の勉強によく励むようにというような願いをこめた、軽い気持ちだったようである。
 
 家蔵の伝「菅原道真讃岐断簡」は、5行200字の写経である。「金光明最勝王経」序品第一の一部らしい。寛文2年(1662)の「北野寺務二品親王」(誰かは未だ調べていない)の極書の写しや、明治の北野社宮司などの箱書がいっぱい付いており、なかなかにモノモノしい。これが本当に菅公の真筆であるならば私はとっても嬉しいのであるが、もちろん、極書や箱書があることが、必ずしもその信憑性を保証するものではない。ただ、近世・近代の北野社の関係者の間で、この品が菅公の真跡だと信じられていたということまでは言ってもよいのではないかと思う。

 ただし、この史料が道真の真筆か、それとも伝承古筆にとどまるかは、私にとってはあくまで二の次の価値しか持っていない。私にとってはこの品は、今は亡き父を偲ぶための、大事な「よすが」の品のひとつなのである。後年、私と父は、私の進路をめぐってかなり対立した。学問を続けたいという希望を顕わにした私に対して、父は学問の途の困難さに思いを巡らし、そんな「極道」ではなく、世間並みの堅実な進路へと方向転換させようとしたのである。父の最晩年の数年間は、父の病気(心臓病!)の悪化と私の将来の問題がからまって、私の生涯の中でも最も苦しい時期のひとつであった。ただ、それは決して父のわがままなのではなく、父が息子のことを真から思っていたからなのだと思う。その意味で私は今も時々、亡き父が遺してくれたこの断簡を眺めてみながら、父への鎮魂の祈りを捧げたくなるのである。

 (こうして書いてみて、初めて気がついた。中学生の時の誕生日に平安時代の貴族の古筆をプレゼントされたなんていう人は、果たしてどのくらいいるのだろう? 我ながら思うのだが、世間的な常識から見るとかなり異例なことなんだろうな(^-^;)

【2月14日追記】
 13日の新聞に「『菅原道真の直筆』は時代違い 京都、漢学塾の新史料」の記事が踊った。後々のために全文引用しておくと、
 「京都国立博物館の赤尾栄慶上席研究員(古写経)は13日、京都の本草漢学塾「山本読書室」跡で見つかった、9世紀の菅原道真直筆の可能性が指摘されていた写経について「平安時代後期の12世紀とみられる。時代が異なり、直筆とは考えにくい」との見解を明らかにした。
 「写経の画像を見た赤尾研究員は「写経は、紺色の紙に金字で書かれた『金光明最勝王経』だ。紺紙金字の写経は、平安時代後期に盛んになったものであり、文字の形もほぼ12世紀のものとみられる」としている。
 「この写経は、山本家の子孫で、京都、奈良両帝室博物館に勤め、正倉院や東洋美術を調査・鑑定した山本規矩三が所蔵していたもの。写経を入れた箱のふたに「天満宮菅公真筆」などと書いた説明書きが貼ってあった。」[「スポニチアネックス」2014年2月13日 17:36]
というのである。

 新たなこの記事からすると、山本読書室発見のものが古筆切(断簡)であるという私の推測はまちがってなかったのであろう。

 しかし、この記事の題名のつけかたには問題がある。この記事の上っ面だけをたどると、読者は、道真の直筆が見つかったというのは大誤報で、実はそれは真っ赤なニセモノであり、こんなものにはまったく価値はないのだ、という印象を受けかねないように思う。そもそも、もともとの山本読書室史料発見の記事では「菅原道真直筆の可能性が指摘される」とだけあって、道真真筆と断定して世間を欺いたわけではない。また、たとえ真筆ではなかったとしても、古筆切という存在そのものに価値がなくなるということはありえない。古筆切を集大成した手鑑の「藻塩草」、「月台」、「大手鑑」、「翰墨城」はいずれも国宝に指定されているくらいなのである。難癖をつけるようで申し訳ないが、この記事を書いた記者には、古筆切というものについての知識が不足していたのではないかと思えてしまう。

2014.02.03

55歳誕生日、の巻

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(↑ 吉田神社の節分詣でいただいてきた、方相氏の土鈴。四つの目を持つコワい顔なので鬼と間違えている人がいるが、実は邪を祓う「正義の味方」である。)

 2014年2月3日(月)
 節分。私の誕生日である。満55歳。
 通例だとこの日はたいてい雪が降るのだが、本日はえらい暖かい。寒さに弱い私としてはありがたいのだが、一方では、異常気象の現れではないかと心配になる。
 昨晩には吉田神社の節分詣にでかける。この日の吉田神社は久しぶりである。東一条の交差点から京大正門前、さらには神社まで屋台の露店が立ち並び、賑やかなことこの上ない。それに増してすごいのは、どこからこれだけの人数が集まってくるのだろうというくらいの人の波。ほとんど押しくら饅頭状態である。本当は疫鬼たちを方相氏が追い払う「追儺式」を見たかったのだが、超満員でそこまでたどりつけず、声だけの観戦となったのは残念。その代わりといってはなんだが、方相氏の土鈴のお守りを賜る。あとは、山上での年越し蕎麦。大晦日ではなく節分に年越し蕎麦を食べるという伝統に従うということで、まあ、縁起物。

 私の誕生日へのプレゼントというわけではないのだろうが、ウチの奥さんの友人のZUZUさんから、「桂飴本家 養老亭」の桂飴をいただいた。昨年末に閉店してしまい、私も駆けつけたものの既に売り切れてしまっていてもはや入手を諦めていた。桂飴のことは故・森浩一先生も、古代中国から日本に伝わった神仙思想との関係から注目されており、『京都の歴史を足元から探る』や『日本民俗文化大系』でも大きくとりあげられているから、いただけたことがとっても嬉しい。

(↓ 桂飴。ZUZUさん、ありがとうございましたm(_ _)m )
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