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2014.02.14

森浩一先生と旧・同志社大学考古学資料室、の巻

 前にも書いたが、昨年のNHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」、とにかく大ヒットの名作であって、私も毎朝かじりつくように見ていた。ワキを固めている俳優さんたちがとにかく曲者ぞろいですばらしいのであるが、中でも主人公の母親の天野春子役をやった小泉今日子さんにすっかり魅入られてしまったのである。
 見所満載のこのドラマの中で、時々、胸を衝かれるようなセリフがあった。たとえば、震災と津波で舞台となる東北の北三陸市が大打撃を受け、かつて主人公天野アキが創った「アマカフェ(海女カフェ)」も壊滅。しかしそこに人気スターの鈴鹿ひろみ(演:薬師丸ひろ子)が来演するということで、アキちゃん始め地元の皆んなが協力してアマカフェの再建に乗り出す。資金も無いなかで、いかにも素人の手作りといった形で内装と舞台をなんとか造り上げる。そこに、今をときめく敏腕芸能プロデューサー「太巻」こと荒巻太一(古田新太さん、快演・怪演!)が現れ、いかにも貧相なアマカフェの内装を一瞥する。さぞ不満なのだろうと緊張する皆の前で、太巻氏が言い放ったのは意外な一言。
「雑なのに、愛がある。ぼくが上野で劇場を創ろうとした時に目指したのがコレだ。これでいい。これがいい。お金かけたらチャンとしちゃう。この絶妙なバランスが崩れちゃう。プロでもない、シロウトでもない。アマチュアがなせるワザ。まさに『アマカフェ』だ」。
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(← 旧・同志社大学考古学資料室〈1980年頃〉)

 と、ここで話題は急に転換。森浩一先生は同志社大学において考古学研究室を主宰されてきたが、その中でずっと語り続けられてきたのが、考古学研究室が収蔵してきた資料を中核とする大学博物館を創りたいという夢だった。それはなかなか実現しなかったのであるが、森先生が退職される直前に「同志社大学歴史資料館」が創設され、先生にとっての夢が果たせたのである。

 しかし、同志社大学歴史資料館は一朝一夕で実現したのではない。そこにいたるまでには、いくつかの流れがあった。その中のひとつが、考古学研究室と森先生の資料を展示するための「同志社大学考古学資料室」である。私がここを初めて訪れたのは、たしか1975年頃だったと記憶する。同志社大学新町校舎の南西の隅っこで、考古学実習室に隣接する小さなプレハブの2階に展示室があった。今から思うと、おそらくそれは大学の物置であったものを森先生が大学と交渉して展示室に模様替えしたものだったろう。

 1977年に私が同志社大学に入学した時には考古学資料室は、旧資料室のさらに横にあった平屋のプレハブに移転していた。元のプレハブに比べると少し広い目ではあったが、建物自体はいかにも簡易建築にすぎなかった。その南半分が遺物収蔵庫、北半分が資料室となっていて資料が展示されていた。考古学資料室は授業期間の平日の午後の数時間だけ開室していたと記憶する。しかし、これも今から思うと、展示室を運営する費用が公式に大学から支出されていたはずはない。金も人員も無い中で、森先生がさまざまな工夫をしながら運営してきたのである。おそらく先生は、時々は自分のポケットマネーをつぎこむこともあったのではなかろうか。

 私の手元には、この時の考古学資料室の写真は一枚だけ残っているだけである。それを見ながら思い出していくと、まさにこれは手作りの資料室であった。展示ケースは、これも森先生がさまざまな機会に手に入れてこられたものの寄せ集め。はなはだしきは、折りたたみ式の机にラシャを貼付けてその上に遺物を並べた部分もある。園部垣内古墳の粘土槨の模型があったが、これなど実は先生がNHKの番組に出演した時に作ってもらい、それを放送終了後にもらってきたものである。

 なお、中央にえらく立派な木製のケースがあるが、これは京都国立博物館が改装する時に、八賀晋先生(当時は京都国立博物館考古室長、後、三重大学教授)の御厚意で寄附してもらったものである。逆にこれは戦前の国立博物館の様相を伝える貴重な資料となった。

 しかし、学生時代の私にとってはここはまさにパラダイスであった。私は機会ある限りこの部屋に入り浸りながら考古学資料と触れ合い、考古学の遺物の見方を会得し、さらにはそこに込められた調査の「物語」を吸収していったのである。たとえば、ここには和歌山県井辺八幡山古墳出土の装飾付須恵器が陳列してあった。私はこの部屋で、ごくごく日常的にこの遺物を眺めていたのである。そのことが「とっかかり」となって私は、後に装飾付須恵器の研究に熱中することになる。そして、多少の自負を込めていうと、私の装飾付須恵器の論文は、今もこの分野についての基本的な文献になっているはずである。

 いつも、なんでも豪快に笑い飛ばす森先生であるが、一度だけ私はこっぴどく叱られたことがある。私は軽い気持ちで、勝手に展示ケースを開けて遺物を取り出し、観察と実測をしていたのである。しかし何かの用事があって、その遺物を机の上に放置したまま長時間出かけてしまい、それを先生に見つかってしまったのである。その時に森先生は、ここにある資料はすべて、研究室の先学たちが苦心に苦心を重ねながら収集してきたものである。資料を活用しての勉強は大いにすればよい。しかし、先学の労苦に思いを馳せることなく、それを単なる「モノ」としてしてしか見ないのならば、ここの資料に触れる資格はない、といったことをこんこんと諭されたのである。その時の私は、まさに顔から火がでるほどに恥ずかしかった。同時に私は、森先生がひとつひとつの資料に込めていた「愛」の凄まじさに感じ入ったのであった。

 予算も何もない当時の考古学資料室だったから、特別展示などはできようはずがない。しかし、おそらくただ一回だけの例外として、昭和56年(1981)12月に3日間だけ、同志社大学での文化史学会の大会に併せる形で、「男山丘陵の須恵器生産」というミニ特別展があり、私は森先生の命令によって資料借用に走り回った。先生がどういうわけでこのミニ展示をやろうと思われたのか、真意は知らない。ただ、その時に私は、文化史学会大会で、はじめての学会発表(「山城国の須恵器生産についての一考察」文化史学会1981年度大会、1981年12月5日)をやらせてもらった。私の拙い研究発表ではあったが、それと呼応したこのミニ展示があったことによって、いわば「つっかえ棒」をしてもらったように思っている。

 この時の同志社大学考古学資料室は、確かに金はなかった。展示も、近年の洗練された各地の博物館に比べると「雑」そのものに見えるかもしれない。しかし、「あまちゃん」の太巻氏の言葉を借りると、これでいい、これが良かったのである。森先生は自分の身銭を切って研究を積み重ねる市民の人々を「町人学者」と呼び、彼等を本当に大事にしていた。森先生自身はもちろんアマチュアではないのであるが、「町人学者」の精神と矜持は持ち続けておられた。そうした意味でいうと、先生が造り上げてきた考古学資料室は、まさに、すばらしき「アマ博物館」だったのだと思っている。

 私はその後に京都文化博物館の学芸員となるが、残念ながらこの博物館は、そうした「アマ博物館」とは縁遠い存在であった。花園大学に移籍してから、私は花園大学歴史博物館の創設に携わり、その運営の一角を担った。私にとって花園大学の博物館は、私自身の夢の一部の実現であった。今の私の切なる願望のひとつは、こうした「アマ博物館」の夢を、どこかでもう一度花開かせたい、ということなのである。

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