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2014.04.29

伊勢北畠氏城館跡、和泉府中、の巻

 中世都市めぐり、ふたつ。

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(↑ 北畠氏居館多芸御所跡の庭園)

 4月19日(土) 
 今年夏に開催予定の「守護所シンポジウム2 新清須会議」のプレ研究会として、三重県津市多気の北畠氏城館(多芸<たげ>御所)跡。以前から行ってみたい行ってみたいと思っていたのだが、駅からもかなり遠いところらしいので、腰が引けていた。ようやく念願がかなえられて、嬉しい。
 北畠氏城館の多芸御所跡は、現在は北畠親房や顕家を祀る北畠神社になっている。ここでは、なんといっても庭園が見事。もとの東山殿である慈照寺(銀閣寺)庭園を例外とするならば、現在残っている室町時代後半の邸宅庭園遺構としては最上級のものではないだろうか。福井県一乗谷朝倉氏館の庭園や、滋賀県高島市朽木の旧・秀隣寺(将軍足利義晴の仮御所)庭園を遥かに上回るすばらしいものである。
 北畠神社の裏山には、北畠氏の山城である霧山城跡がある。しかし、地図を見ると、かなり距離がある。その手前に霧山城の「詰城」の跡があるということで、そこには登ることになる。でもかなりの急斜面らしい。下で待っていようかな、と思ったのではあるが、この機会を逃すと次に来るのはいつのことになるかわからない。こんなこともあろうかと久々に杖も持参していた(「転ばぬ先の杖」!)ので、一大決心をして、私もついていくことにする。たしかにシンドかった。皆さんはスイスイとよじ登っていかれるのだが、私だけは杖にすがりながら、休み休みのヨタヨタぶりが情けない。他の方の足手まといになることを危惧していたが、なんとかそれは免れたのではなかろうか。しかし、詰城跡から多芸の小さな盆地を遠望することができ、満足。

 北畠氏、いうまでもなく、京都の公家が南北朝動乱の結果としてこの地に土着化したものである。なお、京都にいることの北畠家の邸宅は相国寺の南東側あたりだったと考えられており、わが同志社女子大学今出川キャンパスの一部がそこにかかっている可能性もある。北畠氏はこの伊勢に勢力を張り、戦国大名にまで成長していった。しかし、この氏族は出自の点では他の戦国大名とはかなり異なったところがある。最終的には織田信長との戦いに敗れ、信長の子である茶筅丸(つまり、織田信雄)を養子として迎え入れざるをえないところに追い込まれる。つまりは織田に乗っ取られたのである。
 ただ、ちょっと気になること。北畠氏は戦国大名としては伊勢の中の数郡を支配するのみであった。通説では、織田信長にとって、長男の信忠は織田家の家督相続予定者として別格扱いにしていたのに対して、次男の信雄と三男の信孝は冷遇しており、この両名は伊勢の小大名である北畠氏と神戸氏の乗っ取りのためにそれぞれに養子に出された、というように思われている。ただ、信孝が出された神戸氏はともかくとして、信雄がだされた北畠氏を単なる田舎大名として扱うのはどうであろうか。伊勢北畠氏はもともとは京都の貴族(村上源氏)であり、歴代の当主は権大納言とか権中納言などにまで昇る家格を備えていたのである。権大納言というと、足利氏の征夷大将軍に肩を並べることができる身分なのであり、現に室町幕府最後の将軍足利義昭も従三位権大納言であった。信長と信雄にとって、こうした北畠氏の家格は、使おうとすればかなり有効な「武器」となるはずだと思うのだが、実際はどうだったのだろうか。ちょっと気になる。


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(↑ 泉井上神社に残る「和泉清水」)
 4月26日(土)
 1617会の例会で、大阪府和泉市の和泉府中に行く。集合時間通りに着くように電車に乗り込んだのであるが、その安心感でJR阪和線の車内でウトウトとしてしまった。ポンポンと肩を叩かれたのでハッと目をさますと、そこに仁木宏さんが立っておられて「和泉府中に着きましたよ」とのこと。危なかった! 見つけてもらえなければ、そのまま電車を乗り過ごすところだった・・・
 和泉府中については、まったく始めて。ぜんぜん知識もないので、地元の研究者にご案内願えるのは大変にありがたい。
 無知を恥じたことがひとつ。それは、「和泉市」という市の名前。わが国のあちこちでは、旧の国名を現在の市名に採用していることがしばしばある。石川県の加賀市とか、静岡県の伊豆市とか、岐阜県の美濃市とか、大阪府の摂津市とか、兵庫県の丹波市とかがその事例である。ただしこれらは、広域にわたる旧国名を狭い範囲の市が独占してしまうということで、地名としてはあんまり望ましいものではなく、批判の意味をこめて「僭称地名」と呼ばれることもある。私は深い知識なく、大阪府和泉市もまた、国名としての「和泉国」の名称を勝手に名乗った僭称地名であると思い込んでいたのである。しかし、今回の巡見で、和泉府中の中心神社である泉井上神社につれていってもらって、驚いた。この境内に沸く「和泉清水」という泉、これこそは神功皇后が掘り当てたという伝承を持っており、「和泉国」の国名もここから来ているのだという。つまり、和泉市というのは僭称地名などではまったくなく、これこそが正統の和泉の地名の由来なのである!

【書いたもの】
■京都新聞出版センター編、池坊中央研究所・市川智也・井上由理子・太田垣實・黒田正子・高野澄・井堂恵子・徳丸貴尋・中村武生・西村彰朗・細田香織・前川佳代・町田香・山田邦和執筆『第10回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2014年4月25日)、本文255頁(分担頁不記載だが、山田執筆は8・21・38・68・79・85・111・112・116・136各頁)。


2014.04.20

入院から2年、そして心臓の左室緻密化障害のこと、の巻

 4月20日(日)
 2012年4月20日が、私の緊急入院(つまり、あやうく死にかけた)の日であるから、それから数えて丸2年をむかえることができた。ボチボチの状態でありながら、なんとか2年間を過ごすことができたのであるから、感謝にたえない。先日の定期検診でも、レントゲンではなにかモヤッとした影が映っていたらしくてちょっとヒヤリとしたのであるが、その後のCT検査では問題にはならなかったようで、また、心臓の状態も安定しているとのことで、ちょっと一安心である。

 今まで何度も書いてきたように、2年前の入院は、肺炎が急激に肺全体に広がって肺が機能しなくなり、それが心臓に直撃をくらわせて心臓がパニックをおこした、ということである。普通の心臓であればある程度のダメージには耐えるだけの「余裕」を持っているのだが、私の心臓は生まれつき弱いところがあるため、それに耐えられなかったということらしい。

 ここでいう私の心臓の生まれつきの異常というのは、実は「左室緻密化障害(または「左室心筋緻密化障害」)」と呼ばれる症状だという。これ、この左室緻密化障害、医学界でもこの十年くらいでやっと認識されてきた症状であり、お医者さんであっても心臓専門医以外ではほとんど知られていないくらい、知名度が低いのだという。
 左室緻密化障害については根治する治療方法も未だ確実なものは存在していない(iPS細胞などの「万能細胞」に期待はするが、心臓に臨床利用できるのはかなり未来の話だろうな・・・)。特に、幼児の時にこれが発症すると大変な問題となり、場合によっては心臓移植とかいう重い選択肢しかない場合もあるという。

 原因も諸説があるというが、もっとも有力とされているのはこのような説明。人間の心臓の筋肉は生まれたての時には隙間の多いスポンジのような状態であるが、成長するにつれてそれが緻密化していって強靭な心筋となっていく。しかし、緻密化障害の場合はこれが何らかの要因で阻害され、心筋の一部にスカスカの状態が残ってしまう。こうなると、当然のことながら心筋の動きは十全ではないことになる。これが悪化すると心臓肥大という症状におちいったり、また心臓の内部に滞留した血液が血栓をつくり、心筋梗塞や脳梗塞をひきおこす可能性もある、ということである。こうした、なかなか難儀な症状である。2年前の入院で心臓の精密検査の画像を見せていただいた時にも、確かに私の心臓の左心室の内面には、なにかベットリとこびりついているようなものが見えていた。ああ、これが私の心臓の障害なのか、と得心したことであった。

 ただ、私の場合にはとにもかくにもこれで50年以上生きてくることができているのであるから、この障害の中ではそんなに重症の部類ではないようである。不幸中の幸いだというべきであろう。とにかく、障害を抱えているとはいうものの、ありがたいことに日常生活に支障はないし、何より重要なことは、研究活動を少しづつ続けて行くことは充分に可能である、ということである。せっかく与えていただいた生命、大事に大事に使っていきたいものである。これを再確認することを、2周年の決意表明に替えたいと思う。


2014.04.17

近江三都物語展、ウルトラマン創世紀展、の巻

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 授業開始からちょうど一週間。この期間がいつも大変。とにかく、始めての授業で学生に対して授業の方向性を示し、「締め」るところは締めねばならないのである。しかし、いつも困るのは、最初の授業から欠席する学生がいること。そういう学生には、次回、もういちど授業の方針をキチンと伝えなければならないから二度手間になってしまうのである。こういうこと、なにか防止する方法はないのかな?

 4月6日(日)には、旧友のTさんを誘って(というか、Tさんの車を出してもらって)、滋賀県で博物館めぐり。県立安土城考古学博物館では「近江三都物語」展が最終日であるのに、ギリギリのすべりこみ。近江大津宮、甲賀宮(紫香楽宮、信楽宮)、保良宮についての最新情報が開陳されているのがありがたい。佐川美術館では「ウルトラマン創世紀展—ウルトラQ誕生からウルトラマン80へ—」がオープン直後。ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンで育ってきた私の世代としては、まさに血湧き肉踊るのである。会場入り口では、なつかしいカネゴン(ウルトラQの有名「怪獣」。ストーリーはコミカルタッチだが、実は大変コワい話。私は子供のころにこれを見て、身の毛がよだった)と握手のまねごと。


2014.04.03

神泉苑の池の底、の巻

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 4月2日
 入学式。桜もそろそろ満開。

 平安京に造られた桓武天皇の離宮である神泉苑。平安時代の庭園をしのぶことができる貴重な遺跡である。以前から、この池、どれくらいの深さがあるのかな?と思っていたのであるが、測るすべもなかった。それが、今、池を掃除するのか、池の水を抜いていると聞いた。まさに千載一遇のチャンスである。
 行ってみて、感動。想像していたよりも浅いな。池の中央部は分厚そうな泥がたまっている。これ、発掘してみたら平安時代の池底が出るんじゃないだろうか。池の北部には中島があるが、これも周囲が露呈しており、そのあたりでは砂利の面が出ている。平安時代の州浜がそのまま露出したわけではないだろうが、ある時代の神泉苑の池庭の遺構である可能性はあると思う。
 池にいた鯉たちは、隅っこに池水を残してあるところに避難させてもらっている。おなかが空いてそうに見えたので、寺務所の前に設置してある鯉のエサの自動販売機でエサを購入、ばらまいてやる。まあ、彼等にエサをやるのも、「放生」に類する功徳の一環かな。


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