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2014.09.12

中世都市研究会益田大会、の巻

Img_0135(島根県益田市「三宅御土居」遺跡の土塁)

 9月6日(土)・7日(日)
 2014年度中世都市研究会益田大会。島根県益田市での開催である。

 実は、石見国(島根県西部地域)に出かけるのは始めてである。失礼ながら、なんだかとっても僻遠の地のような気がしていて、これまでなかなか足が向かなかったのである。こういうところで研究会があると、背中を押してもらったようなもので、やっと腰をあげる気になる。

 しかし、朝一番に出発しても、どうしても到着は昼になる。それなら、ということで9月5日(金)に前泊することにした。益田の手前には津和野がある。津和野というと、祇園祭の「鷺舞」が京都で絶えた後にもずっと伝承されてきた土地として知られている。じゃあ、津和野に寄ってから益田にはいることにしよう。
 津和野は山間の盆地の小さな小さな町。駅について、どうやって見て回ろうかと案じていたところ、駅前のお土産物屋さんに大きく「貸し自転車」の表示。3時間500円という格安である。これはありがたい。綺麗に整備された津和野の城下町を突き抜けて、津和野城跡をめざす。
 津和野城は市街地を見下ろす山頂の山城である。これもありがたいことに、山腹から山頂近くまで上がるための観光リフトがある。そう、スキー場とかによくある、ひとり乗りのリフトである。私はこんなのが大好き。ついワクワクしてしまう。
 津和野城跡は、山頂の細い尾根筋に長細く横たわっている。中世の山城を近世初頭に大々的に改造して、石垣作りの立派なつくりにした。城跡からは津和野の城下町が、まるで箱庭のように広がっているのが見える。
 ただ、奇妙なのは「天守台」とされているものの位置。「本丸」にあたる「三十間長屋」という郭の背後の、一段低いところに立派な石垣が築かれ、ここに三層天守が存在したといわれているのである。でも、これは本当だろうか? こんなところに天守を建てても、城下町からは「三十間長屋」郭に阻まれてまったく遠望することはできないだろう。また、石垣が立派なのは良いとしても、三層天守にしては面積が広すぎる。ひとつの郭に匹敵する規模といわねばなるまい。このあたり、これが本当に天守台かどうか含めて、再検討の余地があるように思う。

 津和野ではまだまだ名残惜しかったが、JR山口線は本数が少なく、一本逃してしまうと1時間以上待たねばならないことになる。と、いうことで、津和野に別れを告げて益田に向かう。

 益田では、駅直結のホテルが満杯でとれなかったので、いろいろと探しまわって、駅から500mほどいったところの小さな旅館に宿をとることにした。親切な御主人と奥様のふたりでやっておられるアットホームな宿である。

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 6日、9時に集合して、益田の城下町の巡見に参加。マイクロバスを出していただけたのがありがたい。以前から行きたいと念願していたのは益田氏城館跡・三宅御土居遺跡。戦国期の益田氏の城館である。敷地の中にあったお寺は移転して、史跡公園化が進められている。墓地も移転しており、土塁の上にお墓の土台だけが連なっているのにびっくり。ただ、この遺跡を「三宅御土居跡」と呼んでいるのはいかがなものか。「三宅御土居遺跡(益田氏城館跡)」と呼ぶべきだと思う。
 中世益田の港湾遺跡である沖手遺跡、中須東原遺跡、今市遺跡を回らせてもらう。中須東原遺跡は、早々と国指定史跡となって土地の公有化が進められている。すばらしいことである。

 中須東原遺跡の東側、日本海を望む高台に、延喜式内社の「櫛代賀姫神社」がある。本殿は明和2(1765)年の再建で国登録有形文化財になっている。ここでびっくりしたのは、本殿の前に据えられているおおきな一対の石造花生。なんの気無しに見てみると、台座に「布哇馬哇嶋 広瀬伝吉 / 昭和十二年十二月」という銘(写真)が刻まれていたのである! 若い人にはここに見られる「布哇馬哇嶋」という文字が読めない方もいるかもしれず、そうした方にとってはこれはいったいなんのことなのかわからないかもしれないな。実はこれ、ハワイのマウイ島の漢字表記である。つまり、昭和12年にハワイ・マウイ島に在住していた日本人が寄贈されたということになる。推察するに、益田の出身者で、明治か大正頃にハワイに移民に行った人がいて、そこで成功したため、故郷の神社に報恩のための寄進をした、ということだと見てまちがいないだろう。
 なお、帰洛してから、たまたま奈良に行く用事があり、久しぶりに天理大学附属天理参考館を見学した。すると、展示の中に戦前の日本人移民コーナーがあって、そこに、昭和16年の太平洋戦争開戦とともに敵国人としてアメリカ本土の収容所送りになってしまった日本人ハワイ移民のことが紹介されていた。眺めていると、布哇(ハワイ)ワイルクの「広瀬幸助」という人物が混じっていて、びっくり。ワイルクはマウイ島の中心都市ですから、この「広瀬幸助」という人、益田の「広瀬伝吉」と関係のある人かもしれない。面白いな。課題はどんどん広がっていくぞ。

 土曜午後と日曜午前は、みっちりとシンポジウム。地元の皆さんのそれぞれの視点の報告は、私にとっては蒙を開かれることばかりである。それに、山村亜希さんの「中世石見益田の景観」が、いつもながらの快刀乱麻。小島道裕さんの「戦国・織豊期城下町研究から見た石見益田」もさすがの貫禄。土曜の夜には楽しい懇親会。大いに意見交換で盛りあがる。そのあとは、どういうわけか佐賀大学の宮武正登教授と山村さんと私の3人という珍しい組み合わせでの二次会、夜が更けるまでの談論風発が続く。

 益田の歴史については素人ながら、報告を聞いていてちょっと感じたこと。中世の益田の研究が益田氏だけに収斂しすぎているのではないだろうか。もちろん、益田氏が中世の益田の最大勢力であり、戦国期にはこの附近の覇者であったことにまちがいはない。ただ、かといって強力な一国全域の支配者が存在しなかった石見のような国で、最終的な勝利者の視点からだけ見るのはいかがなものかな、という気がするのである。なぜこんなことをいうかというと、私の前職場である花園大学が「俣賀家<またがけ>文書」というのを所蔵している。この俣賀家という家、鎌倉時代に遠江国からやってきて石見に土着した御家人で、南北朝・室町前期にいたるまで独立したひとつの地方豪族として勢力を保っていた。応仁の乱くらいから益田氏が台頭するにしたがってその勢力下にはいり、最終的には益田氏の被官になったようではあるが、逆にいうと、中世前期の石見西部地域を考えるには、益田氏だけでなく、こうした連中も考慮にいれておかねばならないと思う。

 シンポジウム終了後、すぐに帰るのは惜しいので、益田をもうちょっと見ることにする。宿の主人からの情報で、駅前の観光協会が貸し自転車をやっているという。行ってみると、さらに、電動アシスト自転車があるというありがたさである。身体のことを考えて、七尾城(益田氏の城)跡制覇をあきらめたのはちょっと残念だったが、時間の許す限り走り回る。無理かなと思ったのだが、思い切って、市の北郊のスクモ塚古墳まで足をのばすことができた。石見最大の前方後円墳という説と、大きな造り出し付き円墳と小さな方墳が並んでいるという説があるのだが、現状で見るかぎり、前方後円墳で良いと思う。

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