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2014.10.27

新潟県立歴史博物館と春日山城跡、の巻

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10月24日(金)〜26日(日)
 あわただしかったが、しかし充実した三日間。京都→名古屋→(東京経由)→新潟県長岡→新潟県上越→(北陸本戦・富山経由)→京都、と巡ったから、いわば、日本列島の太っ腹(?)をぐるりと一周したことになる。

 24日午前は、某放送局(NHK)の企画への協力を依頼され、京都市内某所(御土居)を案内。担当の方々がなかなか熱心で、好奇心旺盛にあちこちを見て回る。番組、うまくいくといいですね。

 いったん帰宅し、すぐに名古屋行きで、栄中日文化センターの「天皇陵古墳を考える」の講座。2年半前までは継続してやっていたのだが、私の突然の病気で中断してしまっていた。今回は満を持して(?)の再開である。「佐紀盾列の天皇陵古墳」を話す。最近、今尾文昭さんがこの古墳群についての要を得たすばらしい書物を公表されているし、それで学ばせてもらいながら今回再検討してみると、やっぱりいろいろ再発見がある。たとえば、佐紀陵山古墳(宮内庁治定の日葉酢媛命陵)の埋葬主体部の構造。よく知られているように、この古墳は大正時代に盗掘を受けて副葬品が顕わになった。この古墳の竪穴式石室については梅原末治氏の復元図がよく知られているのであるが、以前からこれはケッタイだな、と思っていた。石室の上に石棺の蓋そっくりの「屋根形石」というシロモノが載る、というのは、どう考えても納得がいかない。やはりこれは梅原先生の勇み足の可能性が高いと思う。

 それが終わって、すぐに東京回りで新潟県長岡市へ向かう。実は、私にとっては越後国というのはほとんど未知の世界だった。かなり以前、森浩一先生が主導されていた「糸魚川シンポジウム」というのに参加したことがあって、新潟県の糸魚川市には行ったことがある。しかし糸魚川は越後でも一番西端であるから、これだけではとてもとても越後を知っていると胸を張って言うわけにはいかなかった。それ以来、いつかはキチンと越後を旅してみたいと思っていたのであるが、機会を逃してばかりで今に至ったということなのである。

 今回の主目的は、新潟県立歴史博物館で開催されている「日本人類学の黎明-小金井良精資料を中心に-」(キャッチコピーは「ホネの学問 始まる」)を見せていただくことにある。日本近代の形質人類学の大物であった小金井良精博士(東京帝国大学教授)が越後国長岡の出身であることから、その遺品が長岡市に寄贈されている。それを中心として、明治・大正期の日本の人類学(考古学を含む)の歩みをたどってみようという展覧会である。
 そんなことがこの私になんの関係があるのか、と思われるかもしれないのであるが、実は、私はこの展覧会の協力者、もっと具体的にいうならば「出品者」なのである。私の所蔵資料の中に、東京帝国大学理科大学教授で植物学者の白井光太郎博士の自筆の葉書がある。白井博士は日本人類学の泰斗である坪井正五郎博士の親友であり、コロボックル論争を始めとする両者の丁々発止の名勝負は学史を飾っている。ところが、坪井博士がロシアで急逝したため、白井博士はそれを悼む和歌を詠んだ。これが記された葉書が私蔵のものなのである。これについては、だいぶ以前に史料紹介した(山田邦和「やがて帰らぬ君ぞ悲しき—白井光太郎博士の一書状—」〈『古代文化』第38巻第12号掲載、京都、古代学協会、1986年〉)。新潟県立歴史博物館の今回の展覧会の企画者の西田泰民学芸課長がこのことに注目してくださって、かたじけなくも博物館の展覧会の一角を飾るという光栄に浴することになったのである。
 25日(土)の朝、西田さんに長岡駅前のホテルまで迎えに来ていただいて、歴史博物館へと向かう。お忙しい西田さん、すぐに東京出張とのことで、寸暇を縫ってのお出迎えである。新潟県立歴史博物館は長岡市の郊外で、中心市街地からかなり離れたところにあるから、これは大変ありがたい。開館前であったが、特別のはからいで展示室の見学をさせてもらう。白井博士の葉書も、ケースの中にきちんと鎮座させてもらっている。西田さんのお心づかいに、感謝。
 それにしてもこの展覧会、すばらしい。はっきり言って展示品は手紙とかノートとかいった地味なものばかりである。正直なところ、普通のお客さんがこれを見たならば「???・・・」となるのではないだろうか。しかし、私のような者にとっては旱天の慈雨ともいうべきすばらしい内容である。一点一点の展示物が紡ぎ出す「物語」の凄さに、私は興奮を隠しきれなかった。近年の博物館は観客動員にばかりに目が行ってしまい、こういうマニアックな展覧会は敬遠される傾向にある。しかし、博物館たるもの、時にはこういう展覧会をやることも必要なのである! 偉い、偉いぞ、新潟県立歴史博物館! 

Img_0114(←春日山城本丸跡)

 新潟県立歴史博物館を見てからは、せっかく新潟まで来たのだから、もう一泊だけして、あちこちに寄ることにする。
 〔26日〕新潟県立歴史博物館→馬高遺跡・馬高縄文館→宝生寺(木喰観音が安置されているが、マンの悪いことにお寺の方がお留守で拝観はかなわなかった。残念!)—〈バス〉→長岡駅—〈バス〉→悠久山公園・蒼柴神社・長岡市立郷土史料館(お城ではないが、建物は城郭風建築)—〈バス〉→長岡駅—〈タクシー〉→長岡市立科学博物館—〈タクシー〉→長岡駅—〈鉄道〉→直江津駅、駅前のホテルで宿泊。
 〔26日〕ホテル→越後安国寺跡→御館跡(上杉景勝と景虎が謙信の跡目を争った「御館の乱」の舞台)—〈徒歩〉→直江津駅—〈バス〉→春日山の下→上越市立埋蔵文化財センター→春日山神社→春日山城跡→春日山神社宝物館→林泉寺→春日山城史跡広場(惣構土塁・監物堀)・春日山城跡ものがたり館—〈バス〉→高田市街、上越市立総合博物館→高田城跡(復元三重櫓)→高田市街地「SAKEまつり」→高田駅—〈鉄道〉→直江津駅→直江津市街地の「雁木」の町並み→直江津駅—〈JR信越本線・北陸本線・湖西線経由、富山駅乗り換え〉→京都。

 こうして見ると、我ながらよく頑張っていろんなところを歩いたと思う。わが国では、大都市圏以外では公共交通機関がどんどんと間引かれており、車がない者にとっては旅も一苦労である。とにかく歩き回ったので、すっかりと足が棒になってしまったぞ。

 この中でどうしても行きたかったところの筆頭は、上杉謙信・景勝の居城として知られる春日山城。1969年、NHKの大河ドラマで謙信を主人公とした「天と地と」が放送された。原作は海音寺潮五郎。謙信は石坂浩二、宿敵の武田信玄は高橋幸治で、どちらも迫真の名演技を見せていた。まだ小学生だった私はこのドラマを食い入るように見ていた。私の中世史への指向は、実はこの時に芽生えていたのかもしれない。その時から春日山城に行ってみたいと思っていたのであるが、今日までそのチャンスを逸していたのである。
 しかし、春日山城は比高150mの険しい山頂にある山城である。私の身体にとっては、坂を上がるのは大変に辛い。でも、またまたこの機会を逃してしまうならば、もう一生、春日山城に登ることはできないかもしれない。と、いうことで、私にとっては一大決心をして登ることを決めたのである。杖に頼りながらゆっくりゆっくりと登っていくのは他人様から見るといかにも危なっかしげに見えるだろうが、これはやむをえない。しかし、城跡自体はすばらしい。急峻な山肌に一直線に刻まれた竪堀の見事さなど、感動モノである。最高部の「天守閣跡」(「天守郭」と呼んだほうがいいかな)からの春日山城下、直江津、高田の市街地の遠望も見事そのものである。井戸郭には、こんな山の上なのに大きな素掘りの井戸。学生時代に参加した奈良市の多聞山城跡(松永久秀の居城)の発掘調査で、巨大な素掘り井戸を検出して驚愕したことを思い出す。

Img_0230(←高田城復元三重櫓)

 高田に移動して、巨大な堀が印象的な高田城跡。石垣を持たない土塁の城である。最近再建された天守代わりの三重櫓、あちこちによくある「怪しい城」の仲間なのかと思っていたら(失礼!)、そうではなくってきちんと考証された結果の復元なのだという。白と黒に塗られた壁と装飾性の豊かな屋根のコントラストが美しい。高田の町では、たまたま「SAKE祭り」というのにでくわす。商店街を歩行者天国にして、千円払えば地元のお酒のいろいろが試飲し放題というありがたい企画であり、ついつい参加してしまう。

 夕御飯は、富山の乗り換えで名産の「ます寿司」の駅弁。以前、富山に良く来ていたときには、毎度のようにこれを食べていたな。故・森浩一先生が「ます寿司こそは日本海文化の精髄の凝縮だな」といいながら舌鼓を打っておられた姿を思い出す。

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