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2015.01.29

乙訓周回と念仏行脚、の巻

Img_0007_4(←恵解山古墳)
1月24日(土)
 運転免許証の更新に行かねばならないので、朝早くに家を出る。どういうわけか、妻も同道。午前の入場時間に間に合うかな?と、ちょっとアセりながらクルマを走らせる。時間ギリギリに羽束師の運転免許試験場に到着したが、遠目に見てもなんだか雰囲気がおかしい。ありゃ、門が閉まっている! 試験場、土曜日が休みだなんて、ぜんぜん知らなかったぞ!
 ムダ足を踏んだ、とムクれる妻をなだめながら、しかし転んでもタダではおきない。せっかく来たのだから、いくつか見たいところがある。まずは、恵解山古墳(いげのやまこふん)。北山城では最大の前方後円墳である。以前はよく来ていたのだが、去年、長岡京市によって公園化の工事が完成し、ピカピカの、できたてホヤホヤの古墳となった。このように古墳を公園化する際、どこまで復元するのがいいのかというのはいささか難しい問題だと思っている。円筒埴輪の復元品が並べられているが、これは、よくあるプラスチック製ではなく、ちゃんとした焼物での復元品である。質感は良いのであるが、損壊した時にはどうするのかな?、と心配になってしまう。

 次は、恵解山古墳の近所にある長岡京市立中山修一記念館。いわずと知れた、長岡京研究の大先達である。生前の中山先生が書斎に使われていたという座敷に座り、しばし先学の偉業に想いを馳せる。

 それから、大山崎町歴史資料館。親しい研究仲間のひとりである福島克彦さんが館長を努めておられるのであるが、いきなりの訪問だったのでびっくりさせてしまった。

 そして、向日市文化資料館。ちょうど、企画展「長岡宮発掘」を開催しているのであるが、なかなか見にこれなかった。特に、長岡京研究の先駆者のひとりである小林清氏の業績にスポットをあてているのが興味深い。小林氏は向日町(当時)の町民で、もともとは研究とは無縁であったのであるが、たまたま長岡宮大極殿跡の近接地に土地を所有していたことから、中山修一先生の熱意にホダされる形で発掘調査に参加し、それから考古学の研究を始めたのである。それも、アマチュアの知ったかぶりなどでは全然なく、数々の先駆的な論文を公表していったのだから凄い。小林氏の研究は最後に『長岡京の新研究』という著書にまとめられて今も光を放っているのである。ただひとつ残念なのは、小林氏はこの本が刊行される直前にお亡くなりになってしまったということである。じっくりと展示を拝見したあと、館長の玉城玲子さんにご挨拶。
 

Img_0053_3(総本山光明寺での念仏行脚)
 買い物を済ませて帰宅してホッコリしていると、妻が突然、アタシはもう一度出かけてくる、と言い出す。浄土宗の諸宗派の共同の催しとして、念仏行脚があるのだという。浄土宗の宗祖である法然上人が遷化の後、上人の遺体は一旦は太秦に安置された。しかし、他宗派の強硬派の弾圧によって上人の遺体が損壊されることを恐れた信徒たちは、密かに上人の遺体を乙訓郡に運び、そこで荼毘に伏した。これが総本山光明寺(通称:粟生光明寺)の由来なのだという。この故事にちなみ、毎年この日の深夜、数百人の僧侶と信徒が太秦から光明寺までの15kmを四時間以上かけて念仏を唱えながら行脚する。実は、ウチのお墓のあるお寺は蹴上の安養寺といい、光明寺を総本山とする西山浄土宗に属している。つまり私にとっても、光明寺はウチの御本山だということになるから、縁はおおありであるのだが、今までは参加したことはなかった。これもいい機会だ。私もついて行くことにする。もっとも、寒空の深夜の15kmの行進は御遠慮申し上げて、ゴールの光明寺で待ち構えるだけである。
 光明寺の門前で1時間くらい待つと、どこからか鉦の音と、ひそかな念仏の合唱が聞こえてくる。来た!、というので飛び出る。光明寺の山門から境内の円光大師(法然上人)荼毘所までだけ、私たちも念仏に加わることになった。良い経験だった。

 1月25日(日)
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが、京田辺市の松井横穴群の発掘調査をおこなっている。現地説明会があるというので、でかける(現地説明会資料のダウンロードはこちら)。70基にもおよぶ大量の横穴(学界では「オウケツ」と発音されているのであるが、私としては、素直に「ヨコアナ」または「ヨコアナボ(横穴墓)」と発音した方が良いと思っている)は、少なくとも近畿地方では滅多にお目にかかれない壮観である。小さな土師質陶棺があることも興味深い。


2015.01.19

萩本勝先生をおくる、の巻

 1月10日(土)
 1月9日の夜、外で食事をして、遅くに帰宅。椅子に腰掛けて一服したとたん、電話が鳴った。こんな夜遅くに誰かな、と思ったら、山本雅和さん(京都市考古資料館)だった(あとで携帯電話を確かめると、何度も山本さんからの着信がはいっており、私を探しまわっておられたことがわかった。何度もお手間をかけてしまい、申し訳ないことだった)。山本さんがこんな遅い時間に私の自宅に電話してこられるというのは珍しいな、といぶかしんだのであるが、内容は萩本勝先生の訃報であった。

 萩本先生は1944年の生まれ。立命館大学で考古学と古代史を学ばれ、その後、平安高校の教諭を永く勤められて、数年前に定年退職された。特に、田辺昭三先生(平安高校教諭→奈良大学教授→京都市埋蔵文化財研究所調査部長・京都造形芸術大学教授)を助けて、多くの遺跡の発掘調査にとりくまれた。平安高校は野球で有名な学校なのだが、きょうびの高校としては珍しく、考古学の伝統がある。同高校で教鞭を採られた先生方として、田辺先生のほか、坪井清足、佐原真、原口正三といった名があがるのであるから凄いものである。私が高校生になった時、私の友人のひとりが平安高校に進んで考古学クラブに入部した。当時は田辺先生はもう転出されていたのであるが、その後を継がれて考古学クラブの指導にあたっておられたのが萩本先生だった。当時の私にとって、高校時代から考古学の発掘調査ができるという平安高校が、とてもまぶしく感じられた。

 大学に入学して、私も考古学を本格的に学び始めることになった。いろいろ研究テーマを放浪したあげくに「須恵器」を勉強することになったのであるが、図面も描けないし、須恵器の観察も我流そのもの。これではダメだ、と気付いた時にはすでに大学の3回生になってしまっていた。そこで私は逡巡したあげくに、高校時代から面識を得ていた萩本先生のところにでかけていき、平安高校に保管されている、陶邑窯址群(私は森浩一先生の流儀にしたがって「大阪府南部窯址群」と呼ぶのであるが・・・)の膨大な資料を勉強させてもらうことにしたのである。それからの私は、大学での授業が終わるとすぐに、平安高校にそそくさと駆けつけた。今から思うとこんな闖入者が連日のように襲ってくるというのはさぞ御迷惑だったと思うのであるが、萩本先生はいつも、何もいわずに笑顔で迎えてくださった。私は萩本先生に許していただいて、平安高校の考古学資料室や収蔵庫に出入りし、その遺物を観察し、図面を描いていくことができたのである。萩本先生はそんな私の好き勝手を、いつものニヤリとした笑いとともに大きく見守ってくださっていた。私がとにもかくにも須恵器の図面が描けるようになり、一応の須恵器の観察眼を身につけることができたのは、この時の萩本先生の御恩があってこそだったのである。

 なお、平安高校の社会科準備室(実質的には萩本先生の考古学研究室だった)に図面を描きに行くと、必ずといっていいほど、同世代の先客がいた。彼が大量の須恵器と向き合い、コツコツコツコツとそれを図化していっているのを見て、私はとうてい自分では及びもつかないという驚愕の念に襲われていた。実はこれが、若き日の山本雅和さんの勇姿であった。

 萩本先生の業績は、山陰地方の遺跡発掘調査、平安京東市外町(平安高校構内遺跡)の調査、須恵器研究など、いろいろあるのであるが、私の独断だけからいうと、その中でも出色のものは山陰地方の古墳時代須恵器の編年研究であろう。これは、『北山茂夫追悼日本史学論集 歴史における政治と民衆』(日本史論叢会、1986年)におさめられた「山陰東部古墳時代後期の須恵器」の論文や、佐古和枝さんとの共同研究である鳥取県米子市陰田横穴群の須恵器の分析である「須恵器について」(『陰田』所収、米子市教育委員会、1984年)などにまとめられている。萩本先生は須恵器生産の本場である陶邑窯址群の資料に精通しているという強みをもって、山陰地方の土器を見事に整理されたのである。

 1月10日の夜半、私は萩本先生の御通夜に参列し、先生の遺影の前で、永年にわたる御厚情を謝し、別れを告げさせていただいた。先生、どうもこれまでありがとうございました。


2015.01.04

久方ぶりの大雪(4)、の巻

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 雪にも耐えて、けなげに早咲き。平野神社の十月桜。


久方ぶりの大雪(3)、の巻

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 初詣の人波。雪の北野天満宮。


久方ぶりの大雪(2)、の巻

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 雪の土手となった御土居(平野鳥居前町)。


久方ぶりの大雪(1)、の巻

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1月3日(土)
 京都は、元旦から61年ぶりという大雪。1日は閉じこもり。2日は我が家の恒例のボタン鍋。3日はまたまた雪がつもったので、初詣を兼ねての雪見。雪の金閣は、やっぱりキレイ。

 


2015.01.01

2015年、謹賀新年、の巻

141231_2(← 大晦日の夜、神泉苑の歳徳神の恵方社を、僧侶たちが真言を唱えながら回転させていく)

 2015年1月1日(木)
 新しい年が訪れました。皆様、あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。今年もよろしくお願い申し上げます。


 大晦日は神泉苑で過ごした。いうまでもなく、平安京遷都とともに桓武天皇によって造営された離宮である。境内に歳徳神(さいとくじん)を祀る「恵方社」という祠がある。毎年の恵方の方角に合わせて、大晦日に祠を回転させるという行事がおこなわれるので、それを拝見させていただきに行ったのである。行事が終わると、境内の料亭「神泉苑平八」さんが振る舞ってくださる年越しソバを頂戴する。めっけものだったのは、普段は入れない、神泉苑の北端から東端にかけてが特別公開されたこと。神泉苑にはしばしば訪れるのだが、その部分は始めてだった。正保3年(1646)の梵鐘、神泉苑中興の祖である快我上人・京都所司代板倉勝重・茨木城主片桐東市正且元の供養塔を拝見することができた(といっても、暗闇の中なので細部の観察は無理)のは、思わぬ収穫。

 帰宅して、紅白歌合戦を録画で見る。途中は飛ばさせてもらって、12年ぶり2回目の登場となる、中島みゆきさん! おそらく、今回の紅白のクライマックスである。朝の連続テレビ小説「マッサン」の主題歌である「麦の歌」を、堂々と唄い上げるさまは圧巻。みゆきさんの歌声とともに、新しい年の幕があがる。


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