« 久方ぶりの大雪(4)、の巻 | トップページ | 乙訓周回と念仏行脚、の巻 »

2015.01.19

萩本勝先生をおくる、の巻

 1月10日(土)
 1月9日の夜、外で食事をして、遅くに帰宅。椅子に腰掛けて一服したとたん、電話が鳴った。こんな夜遅くに誰かな、と思ったら、山本雅和さん(京都市考古資料館)だった(あとで携帯電話を確かめると、何度も山本さんからの着信がはいっており、私を探しまわっておられたことがわかった。何度もお手間をかけてしまい、申し訳ないことだった)。山本さんがこんな遅い時間に私の自宅に電話してこられるというのは珍しいな、といぶかしんだのであるが、内容は萩本勝先生の訃報であった。

 萩本先生は1944年の生まれ。立命館大学で考古学と古代史を学ばれ、その後、平安高校の教諭を永く勤められて、数年前に定年退職された。特に、田辺昭三先生(平安高校教諭→奈良大学教授→京都市埋蔵文化財研究所調査部長・京都造形芸術大学教授)を助けて、多くの遺跡の発掘調査にとりくまれた。平安高校は野球で有名な学校なのだが、きょうびの高校としては珍しく、考古学の伝統がある。同高校で教鞭を採られた先生方として、田辺先生のほか、坪井清足、佐原真、原口正三といった名があがるのであるから凄いものである。私が高校生になった時、私の友人のひとりが平安高校に進んで考古学クラブに入部した。当時は田辺先生はもう転出されていたのであるが、その後を継がれて考古学クラブの指導にあたっておられたのが萩本先生だった。当時の私にとって、高校時代から考古学の発掘調査ができるという平安高校が、とてもまぶしく感じられた。

 大学に入学して、私も考古学を本格的に学び始めることになった。いろいろ研究テーマを放浪したあげくに「須恵器」を勉強することになったのであるが、図面も描けないし、須恵器の観察も我流そのもの。これではダメだ、と気付いた時にはすでに大学の3回生になってしまっていた。そこで私は逡巡したあげくに、高校時代から面識を得ていた萩本先生のところにでかけていき、平安高校に保管されている、陶邑窯址群(私は森浩一先生の流儀にしたがって「大阪府南部窯址群」と呼ぶのであるが・・・)の膨大な資料を勉強させてもらうことにしたのである。それからの私は、大学での授業が終わるとすぐに、平安高校にそそくさと駆けつけた。今から思うとこんな闖入者が連日のように襲ってくるというのはさぞ御迷惑だったと思うのであるが、萩本先生はいつも、何もいわずに笑顔で迎えてくださった。私は萩本先生に許していただいて、平安高校の考古学資料室や収蔵庫に出入りし、その遺物を観察し、図面を描いていくことができたのである。萩本先生はそんな私の好き勝手を、いつものニヤリとした笑いとともに大きく見守ってくださっていた。私がとにもかくにも須恵器の図面が描けるようになり、一応の須恵器の観察眼を身につけることができたのは、この時の萩本先生の御恩があってこそだったのである。

 なお、平安高校の社会科準備室(実質的には萩本先生の考古学研究室だった)に図面を描きに行くと、必ずといっていいほど、同世代の先客がいた。彼が大量の須恵器と向き合い、コツコツコツコツとそれを図化していっているのを見て、私はとうてい自分では及びもつかないという驚愕の念に襲われていた。実はこれが、若き日の山本雅和さんの勇姿であった。

 萩本先生の業績は、山陰地方の遺跡発掘調査、平安京東市外町(平安高校構内遺跡)の調査、須恵器研究など、いろいろあるのであるが、私の独断だけからいうと、その中でも出色のものは山陰地方の古墳時代須恵器の編年研究であろう。これは、『北山茂夫追悼日本史学論集 歴史における政治と民衆』(日本史論叢会、1986年)におさめられた「山陰東部古墳時代後期の須恵器」の論文や、佐古和枝さんとの共同研究である鳥取県米子市陰田横穴群の須恵器の分析である「須恵器について」(『陰田』所収、米子市教育委員会、1984年)などにまとめられている。萩本先生は須恵器生産の本場である陶邑窯址群の資料に精通しているという強みをもって、山陰地方の土器を見事に整理されたのである。

 1月10日の夜半、私は萩本先生の御通夜に参列し、先生の遺影の前で、永年にわたる御厚情を謝し、別れを告げさせていただいた。先生、どうもこれまでありがとうございました。


« 久方ぶりの大雪(4)、の巻 | トップページ | 乙訓周回と念仏行脚、の巻 »