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2015.03.30

荒木集成館を訪ねる、の巻

Img_0001(←荒木集成館)

 3月26日(木)
 京都府立文化芸術会館での文楽公演を見る。

 3月27日(金)
 栄中日文化センターの講座があるので、名古屋行き。そこで、ちょっと早く出立して、荒木集成館を訪れることにした。

 荒木集成館は、名古屋市天白区にある博物館である。創設者は名古屋で中学教員をしていた荒木実先生。教師といっても荒木先生は、もともと社会科や日本史を専門とされたのではない。名古屋薬学専門学校を卒業して、将来は薬剤師の道を進むはずだったのが、戦争で中断した。そして、名古屋の中学の教員募集に応じて、理科の先生になられた。中学校では理科のクラブ活動を率いて、鉱物研究などもされていたのだという。

 その荒木先生の生涯を変えるできごとがおきたのは、昭和27年(1952)12月18日。鉱物好きの生徒のひとりが、たまたま拾った小さな土器の破片を持ってきたのだという。その当時の荒木先生は考古学的な知識はまるでなかったのだが、生徒が土器片を採集した場所を訪ねると、同じような遺物がゴロゴロしている。それをきっかけに荒木先生は遺跡を探し歩き、独学で考古学の研究をはじめたのである。そして、荒木先生の主要なフィールドとなったのが、古墳時代から平安時代にかけて操業した須恵器・灰釉陶器・緑釉陶器の一大生産地「猿投山西南麓窯址群東山支群(東山窯址群)」なのである。

 ここまでならば、一昔前にはよくあった話なのであるが、荒木先生の凄いところは、こうした自分の研究を元として、私立の博物館の創設に邁進したことである。そして、コツコツと貯金して、昭和45年(1970)に自宅の庭のスペースを利用して「荒木集成館」を建ててしまったのである。この頃の集成館の建物は知らないのだが、残されている図面を見ると、展示室と事務室あわせて10坪(35㎡ほど)の小さな小さな博物館だったらしい。さらに昭和53年(1978)の末に、天白区に移転し、建物も大きくなった。組織も財団法人に改められた。そして、一昨年には公益財団法人に改められて現在にいたっている。

 私が荒木集成館を訪れたのは、確か大学の4回生の時だったと思う。私が4回生というと昭和55年(1980)だから、集成館が天白区に移転して拡張オープンして間もなくの時だったことになる。卒論の資料集めで、東山窯址群の須恵器や埴輪を調査するのに、同級生の服部伊久男氏(現・大和郡山市教育委員会)と同道して名古屋大学考古学研究室、名古屋市見晴台考古資料館と並んで訪れたのがこの博物館だった。荒木先生にお目にかかり、次から次へと先生の調査された窯址の出土須恵器を出していただき、夢中で図面を描き、写真を撮らせていただいた。卒論をもととした論文で、事実上の私の学界へのデビュー作となった「須恵器・その地域性」(同志社大学考古学シリーズI『考古学と古代史』所収、京都、同志社大学考古学シリーズ刊行会、1982年。後、山田邦和『須恵器生産の研究』〈東京、学生社、1998年〉に収載)は、この時の成果である。荒木先生に論文の抜刷を送ったところ、大変に喜んでいただいた返事を頂戴したことも嬉しかった。

 ただ、その後はずっとこの博物館にはご無沙汰になってしまった。その間、荒木先生も平成17年(2005)に死去されたということを風の便りに知った。たまたま、荒木先生の伝記である近藤雅英『土器は我が胸にささやく—小説・荒木集成館物語—』(春日井、羅針盤、2004年)を入手して読み、ありし日の先生の温顔を思い出すことになった。その思いを再確認するために、久々の再訪問となったのである。突然の訪問であったが、荒木正直理事長(荒木実先生の甥)と、淡河理事にお目にかかり、いろいろと話を聞くことができた。ありがたいことである。なお、荒木理事長、叔父の実先生の後を継いでこの博物館の運営にあたっておられるのであるが、聞いてみると、もともとはぜんぜん畑違いの仕事についておられたのであるが、とにかく叔父さんの熱意を伝えていきたいという思いでこの博物館を受け継いだのだという。
 なお、いまの荒木集成館の開館日は金・土・日の週3日になっている。確かめずに行ってしまったのであるが、この日がたまたま金曜日で良かった・・・
 荒木集成館、今の建物は鉄筋2階建て235㎡の本館に倉庫を附設している。当初の建物から比べると大幅な増床であるが、今時の大規模な博物館を見慣れた眼には小さな小さな博物館に見えることはまちがいない。しかし、私はやはりこの博物館に感動する。荒木実というひとりの個人の熱意と情念が、展示物のひとつひとつ、建物の隅々まで染み込んでいるような気がするのである。以前、このブログにも、"すばらしき「アマ博物館」"ともいうべき森浩一先生の旧・同志社大学考古学資料室のことを書いた。この荒木集成館についても、同じ賛辞が与えられるべきだと思う。

 私は、私の大学の「博物館概論」の授業の中で、こうした個人の「情念」の塊ともいうべき博物館をとりあげることにしている。そして、その実例として、必ず荒木集成館を紹介しているのである。

 【書いたもの】
■山田邦和「書評/著・上田正昭『「古代学」とは何か—展望と課題—』」(『京都民報』第2681号〈2015年3月29日号〉掲載、京都、京都民報社、2015年3月29日)、5頁。

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