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2016.02.28

熊野(1617会)、の巻

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(↑ 赤木城跡)

 2016年2月20日(土)・21日(日)
 1617会(いちろくいちななかい)の熊野研究集会「室町・戦国期の熊野を考える」に参加する。会場は和歌山県の新宮市。和歌山県は、和歌山市あたりまではよく行くのであるが、それより南にはなかなか足がのびないから、良い機会なのである。

 初日の20日は、現地見学会。ところが、残念なことに大雨と強い風となり、コースは一部変更を余儀なくされる。ただ、地元の方々の車に分乗させていただけるのはありがたい(乗せていただいた竹田憲治さん、ありがとうございましたm(_ _)m)。まずは、県境を越えて三重県の紀宝町にはいって(とはいっても、国でいうとここも紀伊国である)、京城跡(みやこじょう)。熊野地域では特に大規模な中世城郭だそうである。ただ、中腹の郭跡までは行けたのだが、この雨だとその上までは危ない、ということで断念。それでも、石垣の一部や大きな郭は観察できる。

 次は、熊野市紀和町の赤木城跡。和歌山県、三重県、奈良県の県境に近いような、かなりの山奥。とうてい、ひとりではこんなところまで来れないな。こちらは規模は小さいが石垣が見事な織豊系城郭。羽柴(豊臣)秀吉の熊野征服によって秀吉の弟の秀長が大和・紀伊の大名となり、その指示にしたがって城作り名人の藤堂高虎が築城した、とも言われている。

 そして、新宮の市内にもどって、熊野速玉大社の境内を通り過ぎて、この地域の戦国領主であった堀内氏の館跡の伝承地を訪ねる。

 失敗したのは、靴。防水靴を履いてこなかったので、靴下までぐっしょりと濡れてしまう。風も強いので、ズボンまでずぶ濡れである。まあ、熊野の大雨を体験するというのも悪くない、と自分を慰める。かつて、後白河法皇と共に熊野詣に行った建春門院平滋子サマ、熊野本宮で自ら舞を舞ったのであるが、折悪しく突然の大雨。しかしさすがにキモの座った建春門院サマである、ずぶ濡れになりながらも最後まで堂々と舞い、皆の賛嘆を集めたという故事もある。

 ホテルにかけこんで、あわてて靴を乾かし、楽しい懇親会へ。二日目は研究会。この日はカラッと晴れわたる(雨がもう6時間遅かったらよかったのに・・・・)。途中、徐福公園の「徐福墓」、阿須賀神社、徐福上陸記念碑、新宮城跡などを見学しながら会場に向かう。
 研究報告は伊藤裕偉さんの「中世後期の熊野の地域間交流」、藤岡英礼さんの「和歌山県内の城郭史—奥熊野の城館様相を中心に—」 、阪本敏行さんの「室町期~江戸期初頭の熊野地域史—戦国領主・堀内氏と那智山—」 の三本。そして仁木宏さんの司会のシンポジウム。熊野についてまったく無知なので、学ぶことばかりである。伊藤さんの報告は、いつもながらの快刀乱麻。熊野は、畿内からの瓦器文化圏と、東国からの灰釉陶器圏の接点にあたるという。もしかすると、そうした在地の土器圏の中で、京都の土師器の皿なんかが大量に出土する遺構が今後見つかるかもれしれない、それは後白河法皇や後鳥羽上皇の熊野御幸の痕跡になるだろう、などと夢想してしまう。
 藤岡さんと阪本さんの報告では、熊野の在地の領主の興亡とその城郭について学ぶ。ここで気になるのは昨日見学したふたつの城。京城は在地系なのに対して、赤木城は織豊系だという。ただし、赤木城は紀伊で唯一の織豊系城郭であるし、確かに大和からの街道筋という交通の要衝にあたるのであるが、規模は大きくないし、防備も堅固とはいえない。さらに、城下町を建設するスペースはまったくない。これ、豊臣の熊野支配の拠点というよりも、中央の最新式の城郭のサンプルを在地の連中に見せつけて驚かせ、それによって新しい支配者の権威を示すための「宣伝のための城」なのではないだろうか?という妄想が頭をよぎる。

 【しゃべったこと】
□山田邦和(講座)「(1)古市古墳群の後期前方後円墳―清寧・仁賢天皇陵、白鳥陵」 (栄中日文化センター「天皇陵古墳を考える」〈2016年1~3月期〉、於栄中日文化センター、2016年1月22日)
□山田邦和(講師)「三条通を俯瞰する―三条通の歴史をひもとく―」(京都文化博物館地域共働事業実行委員会・京の三条まちづくり協議会〈主催〉「第30回 京の三条 まちカフェ」、於京都文化博物館別館講義室、2016年2月14日)

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