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2016.04.28

鎌田久美子(山本久美子)さんを悼む

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(← 花園大学考古学研究室の合宿旅行、福岡県前原市(現・糸島市)曽根遺跡群狐塚古墳にて〈2005年11月7日〉。右から二人目が鎌田久美子さん)

 4月23日22時、私にとっては「教え子」のひとりであるとともに、大事な友人であり協力者でもあった山本久美子さん(旧名:鎌田久美子。平安京・京都研究集会世話人、関西大学大学院生)がこの世を去られた。御夫君の山本眞司さんからの知らせによってある程度の覚悟はしていたのであるが、いざその時が来てしまうと、悲嘆は筆舌につくしがたい。

 鎌田さんは滋賀県大津市坂本で生まれ育たれた。役所で保健行政の幹部として勤務されていた御父君の「自立できるための『手に職を』」という方針もあって看護士・保健師の資格を取得し、その専門職の公務員として永年にわたって勤められていた。そのままでいくならば、仕事熱心なひとりの女性として、いわば「ごくフツーの人生」が待っていたと思う。しかし、齢を重ねていくにつれ、「本当の自分」が何かという思いが日に日に大きくなっていくことを押さえられなかった。彼女は真剣に考えた結果、「本当に自分がやりたかったこと」は歴史を学ぶことであったということに思いいたり、私が在籍していた花園大学文学部史学科に社会人入学の枠を使って入ってこられたことであった。
 花園大学の入試の面接の時、私は彼女に「歴史学を学びたい? 考え直したほうがいいんじゃないの?」ということを繰り返したらしく、あとあとまで彼女はそのことを思い出話のネタにしていた。しかし、私の立場としたらそう言うしかないでしょう? 公務員として順風満帆なキャリアを重ねて来た人が、その安定した職を投げ捨ててて、どう転ぶかわからない未知の世界に飛び込みたいというのですから。しかし、彼女は決意を翻さなかった。その時の彼女にはもう、「あるべき自分」の姿が見えていたのだと思う。

 花園大学に入学した彼女は、私の主宰していた考古学研究室(考古学ゼミ)に所属し、学部から大学院へと進んだ。最初、私は、親子ほどの年齢差がある若い学生諸君の中で彼女が馴染んでくれるかと心配したが、それは杞憂に終わった。鎌田さんは学問に対する真摯さ、持ち前の情の深さ、若い人に対する面倒見の良さで、たちまち研究室の中心になってくれたのである。怠惰に流れる学生には容赦ない厳しい叱正を浴びせる一方、お金がない学生や困難に直面した学生には密やかな助力の手を延ばすのを忘れなかった。研究室のコンパの時に、ひとりの学生がハメを外しすぎて前後不覚の泥酔状態に陥ることがあった。あわてふためいてなすすべを失っていた私を尻目に、さすがは看護士の鎌田さんである。テキパキと介抱した上にその学生を遠方の下宿にまで付き添っていってくれたのである。ひとりの男性の卒業生は、学生時代には経済的に充分ではなかった上に、毎月の仕送りや収入の多くを本や調査旅行につぎ込んでしまっており、月末には食に事欠くこともしばしばだった。彼は「僕は欠食するたびに、鎌田さんがくれた米で生活をつないでいったようなものです」と懐古していた。お通夜の席で元女子学生のひとりは、眼を真っ赤に染めながら、「私にとって、鎌田さんこそは『京都のお母さん』でした」とつぶやいていた。それは、鎌田さんの世話になった多くの卒業生が共有する心情なのだと思う。
 また、かつて私が心臓病で倒れて生死の境をさまよっていた時、鎌田さんは私の妻のもとに駆けつけて力づけてくれた。悲嘆の極にあった妻にとって、鎌田さんの励ましは何にも増してありがたいものだった。

 鎌田さんは、中世・近世の墓地の研究に関心を持たれ、卒論や修論はその分野でまとめられた。私は京都府与謝郡の加悦町や野田川町の教育委員会から依頼を受け、福井遺跡や幾地地蔵山遺跡といった中世墓地の現況調査をおこなったことがある。もちろんのこと、この調査には鎌田さんに同道を願った。中世の墓地の遺跡でひとつひとつ石塔の記録をする鎌田さんは、実に楽しそうだった。「お墓が趣味? なんという変人だ!」とからかう私に対して、鎌田さんは「私は花見よりも『墓見』のほうがいいんです」(「墓見」は、鎌田さんが好きだった落語ネタである)と切り返して笑っていた。花園大学考古学研究室編、山田邦和・鎌田久美子執筆『京都府与謝郡野田川町 幾地地蔵山遺跡現状調査報告書』(花園大学考古学研究報告第14輯、京都府野田川町・京都、野田川町教育委員会・花園大学考古学研究室、2005年3月31日)は、この分野における鎌田さんの学問的な遺産となった。
 花園大学を修了してからもなお、鎌田さんの学問に対する想いは衰えなかった。花園大学では主として考古学を学んだが、中世・近世史を研究していくためには文献史学の研鑽が必要であることを痛感した鎌田さんは、改めて関西大学大学院文学研究科博士課程前期課程(日本史学専修)に入学し、薮田貫教授(日本近世史)のゼミに属した。そこでは、自分の本来の分野を生かして、近世・近代の医療史にとりくんでいた。関西大学在学時の著作には、薮田ゼミの有志グループで共同研究した、「女実語教宝箱」を読む会(仲田侑加・山本久美子・古林小百合・水上哲治・安藤久子)「史料紹介『女實語教寳箱』」(『関西大学博物館紀要』第21号、吹田、同博物館、2015年3月)がある。

 また、鎌田さんは私が担当した学会や共同研究の事務局の仕事も進んで引き受け、面倒な裏方の仕事に奔走してくれた。中世都市研究会2005年京都大会(会場︰花園大学)、(財)古代学協会の「仁明朝史研究会」、条里制・古代都市研究会事務局、平安京・京都研究集会世話人などがそれである。特筆されるのは、2009年3月から2011年3月までの、条里制・古代都市研究会事務局の仕事。思いも寄らず私にこの会の事務局長をやれという指名があったのであるが、なにせ事務的能力皆無の私のことである。とうてい大役をこなす自信はない。悩んだ末、鎌田さんが手伝ってくれるならば、ということで彼女に話をもちかけたら、二つ返事で「先生、やりましょう!」と言ってくれた。煩雑な仕事をテキパキとこなしてくれ、彼女なしには、この2年間の条里制・古代都市研究会はまわっていかなかったのが事実なのである。

 しかし、運命は非情なものである。花園大学在学中に鎌田さんが突然の大病に襲われた時には、私は頭が真っ白になったような思いを味わった。しかし医療の専門家でもある鎌田さんは、悠々と病院へと向かわれていた。手術によって回復されて一時は完治したかに見え、私は胸をなでおろしたのであるが、それが思いがけずも数年後に再発してしまった。それからの鎌田さんは、病気と共存しながらも、自分の本当にやりたかったことを追究していく、という道を選ぶことになった。そうした道は決して平坦ではなかったはずであるし、回を重ねていく入院治療によって彼女は満身創痍となっていったけれども、彼女は学問を忘れず、美味しい食事とお酒を愛し、身体が動く限りいろんなところに旅をし続けた。一番の理解者である御夫君に支えられながら、本当の自分をみいだしていった後半生は、彼女にとってはきっと幸せなものであったはずである。
 4月の第3週、ふいに鎌田さんから連絡が来なくなった。なんとなく胸騒ぎがした私は、彼女の携帯電話にかけてみた。驚いたことに、そこから聞こえてきたのは彼女ではなく、御夫君の山本さんの声だった。突然容態が悪化して救急車で病院に運ばれたのだという。私と妻は、とるものもとりあえず病院へと駆けつけた。ほとんど言葉は聞き取れなかったが、間近にせまっている平安京・京都研究集会準備会の段取りのことを案じているようだった。私は彼女の手を握り、研究会のことは心配することないから、ここでゆっくりしていったらいいよ、と声をかけるだけが精一杯だった。それが、私たちと鎌田さんの別れの時となってしまった。
 鎌田さん、これまで本当にありがとうございました。あなたのおかげで、私はどれだけ助けられてきたかわかりません。あなたのことは、あなたとかかわりのあった皆の心に生き続けます。鎌田久美子さん、どうか安らかに。

2016.04.18

熊本地震

 2016年4月14日21時26分頃および4月16日1時25分頃には、熊本を震源とする地震が発生しました。さらにそれにともなう余震や、九州の各地で地震が頻発しております。マスコミによって刻々と伝えられる被災地のありさまに、胸が締め付けられるような思いを味わっております。「地震列島」である日本に暮らしている以上、こうした被害は誰にとってもまったく他人事ではないと存じます。この地震の被災者の皆様に心よりのお見舞いを申し上げます。何もできない自分が歯がゆく、情けないのですが、ささやかではありますが日本赤十字社の募金に応じたいと思っておりますのでよろしくお願いいたします。

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