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2017.02.07

追悼・清水睦夫先生

Photo(←同志社香里高校卒業アルバムより)

 ロシア・東欧(スラヴ)古代・中世史の研究者であり、同志社香里中・高等学校教諭、平安博物館講師(非常勤)および古代学研究所講師(非常勤)をつとめられた清水睦夫先生が、去る1月28日に89歳で永眠された。先生ご自身の遺志により、告別式は近親者のみにて執り行われたとのこと。

 清水先生は1927年に滋賀県大津市のお生まれ。なんでも、早くにご両親を亡くされ、その後はお祖母様のもとで育てられたという。少年時代には、当時の若者の流行であった大陸に憧れて満州に渡ったのであるが、多感な18歳の時に満州の撫順で敗戦を迎えられた。それまで精鋭無比を謳われた関東軍がボロボロの敗残状態となり、それに対して中国人の民衆が憎悪と怨嗟の声を投げつけるのを目撃して強いショックを受けたという。先生ご自身も撫順で相当辛い目にあわれたようだが、そのあたりの詳しい事情は聞いていない。

 日本に引き上げられてからは、満州在住中に習得したロシア語を生かして、大阪市立大学文学部歴史学専攻に進んで当時の日本では珍しかったスラヴ古代史の研究を志された。1949年には角田文衞先生が同大学の西洋史担当の助教授として赴任されているから、清水先生は角田先生の最初期の弟子なのである(清水先生と同じ頃の角田先生の門下生としては、エジプト古代史の研究者であった故・冨村傳先生がおられ、両先生は生涯の友であった)。大阪市立大学を卒業してからは同志社大学大学院文学研究科文化史学(西洋文化史学)専攻修士課程を修了、同志社高等学校講師を経て、同志社香里中・高等学校教諭の職に就かれた。

 私は1974年に同志社香里高等学校に入学した。すぐに清水先生にお目にかかることはなかったのであるが、香里の「名物教員」のひとりであった先生の噂だけはあちこちから聞こえてきた。私が先生に近づきたいという気をおこしたのは、高校の図書室で『世界考古学大系』を紐解いていた時である。第9巻「北方ユーラシア・中央アジア」を開いた私の目に、執筆者のひとりとしての先生の名前が飛び込んできたのである(清水睦夫「スラヴ民族の興起」〈角田文衞編『世界考古学大系』第9巻「北方ユーラシア・中央アジア」所収、東京、平凡社、1962年〉)。感動した私は、わからないままに貪るように論文の文字を追った。なにせ、『世界考古学大系』といえばその当時の最先端の考古学の成果をとりまとめた全集である。それに執筆されるようなスゴイ先生が自分の学校におられる! 考古学を学びたいと思っていながら、何をどうして良いかわからなかった高校生の私にとっては、これは大きな福音だと感じ取られたのである。
 さっそく私は、清水先生が「根城」とされていた社会科準備室のドアを叩いた。間近に見る先生は、トレード・マークの見事な禿頭と、度の強い近眼鏡から放たれる光が強烈な印象を与えた。小さな声でオドオドと「ボク、考古学がやりたいんです」と述べる私に対して、先生は持ち前の皮肉っぽい笑みを浮かべながら、無言で私のことを観察しておられたことであった。
 私の高校の「世界史」の授業は、私の高校では「世界史」は2年と3年の必修科目であり、担当として清水先生ともうひとりの先生の2人がおられた。ただ、2年生の時の私の学年の「世界史」はもうひとりの先生が担当されており、申し訳ないことながら私はこの先生の授業にはほとんど興味を持つことができなかった。しかし、どういうわけか、私が3年生になった時に担当教員の組み替えがあり、清水先生の「世界史」を受講できることになったのである。

 3年になって初めての「世界史」の授業で、清水先生は颯爽と教室に現れ、さっそくに授業を始められた。私は第一声からいきなり引きずり込まれた。目にもとまらぬ速いテンポ、ちょっと甲高いながら艶のある声、確信と信念に満ちた強烈な表現、ロシア語がポンポン飛び出し、ソヴィエト連邦(当時)をめぐる国際情勢の裏話もはさまる。それらが先生持ち前の情熱とともに「立て板に水」のように流れ出し、その中で歴史上の人物や事件が生き生きと躍動するのである。一方では脱線するととめどもなく、教室を爆笑の渦に叩き込むかと思えば、時にはホントかウソかわからないような話を交えて生徒をケムにまく。それはまさに、変幻自在の魔術のような講義であった。これは只者ではないと感じた私は、次の時間からは密かにテープレコーダーを持ち込み、一年間の先生の授業をすべて録音した。本来ならばこういうことはいけないのかもしれないが、かなり後になってから先生に「実は・・・・」と白状したら、先生は呆れたような嬉しいような表情を浮かべて「君はそんなことしてたのか」と言われたから、先生の事後承認が得られたのだと思っていいだろう。このテープはいまも私の宝物のひとつとして大事に保管している。ともあれ、私も今にいたるまでさまざまな先生方の授業や講演を聞いてきたが、清水先生の授業はその中でもトップ・ランクの「名調子」であったことはまちがいない。
 かなり後のことであるが、清水先生は短期間ではあるが同志社大学の非常勤の講師として授業を担当された。それを受講した後輩から「山田さんの講義の喋り方はこの先生の直伝だということがわかりました」と指摘されて驚いたことがある。確かにそうかもしれないのであるが、私など、師匠の話術に追いつくにはまだまだ修行が足りない。

 清水先生が同志社香里高校で展開されていた「世界史」の授業は、今思い出してもスゴイものであった。なにせ、最初の時間は「歴史とは何か」、2時間目は「歴史学の方法論」なのである。それは、確かに高校のレヴェルをはるかに突き抜けていた。その実例として、清水先生のテストの問題の一例を紹介しておこう。
 「(1)Europeの歴史は、政治的にみれば、統一と分裂の二つの対立の間を揺れ動いているともいえる。西欧絶対王政の展開は、まさにそのようなEurope的分裂化の極端な表現である。他国の富と繁栄は自国の貧と衰退と考える。従って他国の犠牲において己の国の独自性と独立主権を図ろうとする。そこで西欧Absolutismの時代とはどういう時代であったか、をスペイン、英、仏について詳述せよ。(60点)
 「(2)1618~48年の三十年戦争は、政治的にどのような影響を神聖ローマ帝国に与えたか。又、大きな観点から考えて、Europeや世界の歴史上、どのような意義をもつ戦争と解釈されるか。(40点)」
 ちなみに、このテストでの私の点数は97点だった。最初は百点をつけていただいたようなのだが、一字だけ漢字の間違いをしてしまっており、それで百点が消されて97点になっていた(´Д` )。残念!(この時の97点は、私が高校のテストで採った最高点であった)。

 なお、どなたかは知らないが、同志社香里の卒業生で「与太郎」と名乗る方が、ブログで清水先生の思い出話を書いておられる(「20051112  落第生は二度眠る ~清水睦夫先生講義録~」)。その中で「与太郎」氏は「清水先生は、めったに笑わない。しかし、与太郎の人生経験によると、ユーモアやジョークを愛する人たちが、すべて笑顔を絶やさないわけではない。むしろ、ふだん気むずかしい表情のほうが効果的なのだ。清水先生は、あまり気乗りしない顔つきで教室にあらわれる。ほんとうは、もっと研究に専念したいのだが、愚かな生徒どものため、しぶしぶ教壇に立っているのだ、というふうにも感じられる。つまり、生徒の機嫌を取るような態度ではない。お前たちが教わりたいなら、わたしの授業を聞け、さもなくばバカのままで生きろ、というふうに感じられる」と述べられている。なるほど、確かにそうだったな、と納得。

 先生の授業の中でユニークなのは、教科書に書いてある「通説」をことごとく否定していくことである。「ローマ帝国の東西分裂? そんなものは認めません!」、「ルネッサンス? ナンセンス!」、「新大陸の発見? バカも休み休みいいなさい!」といった調子である(こんな破天荒な講義が許されていたのだから、当時の同志社香里高校というのもなかなかに大した学校だったと思う)。さすがに頭の中がクエッションマークでいっぱいになった私は、休み時間に先生のところに行って「今の授業で言われたこと、どういうことなんですか?」と質問してみた。しかし、先生は皮肉な笑みを浮かべはしたものの、言を左右にするだけでその理由を教えてくれないのである! 狐につままれたような気になった私は、仕方ないので高校の図書室でいろんな本をひっくり返すが、先生のいうようなことはどこにも書いていない。そこで今度は京都府立図書館に行って手当たり次第にヨーロッパ史の本を手にとってみる。しかし、そのほとんどには、やはり先生のいうことは述べられていないのである。途方にくれた私であったが、最後に梅田良忠編『東欧史(世界各国史13)』(山川出版社、1958年)という本に出会った。この本はまったくユニークな内容で、私はこれを読んでやっと清水先生の言われることを理解することができたのでる。そうして、この本の目次を見ると、清水先生が著者のひとりだったのである(担当項目はブルガリアとユーゴースラヴィア)。なるほど、と得心がいったことであった。なお、この本の編者の梅田氏は関西学院大学教授で古代学協会の初代理事長、また、古代の部分は角田文衞先生の執筆である。
 しかし思い返してみると、もしこの時、先生が最初っから「それは、これこれこれこれこういう理由で、私はこういうふうに言ったんだよ」と教えてくれていたら、私は逆にそれ以上調べることをしていなかったかもしれない。それが、ああいうふうに突き放されたことによって、逆に自分で調べに調べて、納得いく結論にたどり着くことができたのである。要するに先生は「知りたいことがあるのならば、まずは自分で調べてみよ!」ということをいいたかったのであろう。一見するとぶっきらぼうに見えながら、実はこれは見事な教育方法だったといわねばなるまい!

 このブログで以前にも書いたことがあるが、しばらくすると私は、清水先生から、古代学協会の機関誌『古代文化』への寄稿論文の原稿を平安博物館に届けることを頼まれるようになった。郵送すれば済むことなのであるが、それをわざわざ私に命じられるのは、平安博物館とのつながりを作ってやろうという先生ならではのお気持ちだったのだと思う。そうして改めて訪ねてみた平安博物館は、高校生の私にとってはまさに見上げるような学問の殿堂であった。その後かなりの時を経て私が平安博物館に就職したことは、清水先生の御厚情が巡り巡って実を結んだのだと思っている。

 清水先生の学問的業績としては、『スラヴ民族史の研究』(東京、山川出版社、1983年)『ビザンティオンの光芒』(京都、晃洋書房、1992年)(この著書によって先生は1992年に立正大学より博士 (文学)の学位を取得されている)の2冊の単著にまとめられているほか、前述の『世界考古学大系』所収論文、「北方の開拓民」(『ビザンツとスラブ(世界歴史シリーズ第8巻)』所収、東京、世界文化社、1969年)、「ユダヤ教の遊牧民国家―『ハザール汗国』―」(『古代文化』第38巻第8号掲載、京都、古代学協会、1986年)、「東スラヴ族の国家的統合―古代ルーシでの『王権』成立の経緯―」(『古代王権の誕生IV「ヨーロッパ編」』所収、東京、角川書店、2003年)など、数多い。また、『古代文化』誌に連載された「ソヴィエト東欧紀行(1)~(13)」(『古代文化』第27巻第7・8・10~12号、第28巻2・4・5~9号掲載、京都、古代学協会、1975・76年)は、単なるエッセイにとどまらない学術的価値をもつものだと思う。また、おそらく他所ではほとんど知られていないだろうが、先生は勤務先である同志社香里中・高校のPTAの会誌である『香里の丘』にもしばしば珠玉のエッセイを寄稿されている。私の手元に残っているだけでも、「歴史の上の日曜日」(『香里の丘』第29号掲載、〈寝屋川〉、同志社香里中・高等学校PTA、1968年)、「あだ名考」(第47号、1974年)、「キエフの憶い出」(第49号、1974年)、「ソヴィエトの本屋」(第51号、1975年)、「『ソ連の脅威』はほんとうにあるのか(?)(1)(2)」(第70・71両号、1981・1982年)、「偶感―語学学習とカツラ」(第63号、1979年)、「『故きを温ねて新しきを知る』(上)」(第75号、1983年)、「阿呆」(1992年)といったものがあり、それぞれが先生ならではの視点から述べられていてほんとうに面白い。

 清水睦夫先生、高校生の時に先生に出会うことができたことは、私にとっては生涯の幸福のひとつでありました。先生からは、学問の素晴らしさ、そして、それに向かい合う場合の心構えを教えていただくことができました。ほんとうにありがとうございました。感謝とともに、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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