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2017.02.12

竹田聴洲先生シンポジウム、の巻

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 2月11日(土)
 佛教大学宗教文化ミュージアムで冬期企画展「佛大逍遥IV―竹田聴洲―」が始まり、関連シンポジウム「竹田聴洲の人と学問」が開催されるので、出かけていく。

 竹田聴洲先生(1916~1980)は民俗学者で、同志社大学文学部教授や佛教大学文学部教授を歴任された。『祖先崇拝―民俗と歴史―』(京都、平楽寺書店、1957年)、『民俗仏教と祖先信仰』(東京、東京大学出版会、1971年)、『日本の民俗26「京都」』(東京、第一法規出版、1973年)、『竹田聴洲著作集』全9巻、国書刊行会、1993~1997年)などの著書によって知られている。この展覧会とシンポジウムは竹田先生の生誕100年を記念するもので、八木透佛教大学歴史学部教授が「不屈の学僧―竹田聴洲の人と学問―」と題した基調講演、研究報告を大谷栄一佛教大学社会学部教授、大野啓佛教大学非常勤講師、村上忠喜京都市歴史資料館担当係長、菊池暁京都大学人文科学研究所助教、斉藤利彦佛教大学歴史学部准教授が話される。いずれも充実した内容で、竹田先生の学問のありかたと、それが現代の民俗学にどう受け継がれているかがよくわかり、まことに勉強になる。とくに八木教授の基調講演からは、ありし日の竹田先生の面影が浮かび上がるように思い、感銘を受ける。村上さんの報告の中で、思いがけずも私の名前を出していただいたのは光栄。

 感慨深いのは、私は竹田先生の授業を聞くことができた最終の世代だということである。今回のシンポジウムの報告者の中でも、生身の竹田先生を存じ上げておられるのはおそらく八木教授おひとりではないだろうか。休憩時間に八木さん(大学での私の3年先輩にあたる)と話をしながら、お互いもうそんな歳になったんですねと、苦笑いし合ったことであった。

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 竹田先生のお名前を最初に耳にしたのは、たぶん高校生の時だったと思う。私の通っていた同志社香里高校では、1年生では地理、日本史と世界史は2・3年生で学ぶことになっていた。どういうわけなのかは知らないが、その頃の同志社香里高校では日本史の非常勤講師の先生は、同志社大学の竹田ゼミの博士課程の大学院生や修了生が来ておられることが多かった。1年生の時には竹田先生の教え子であった長谷川嘉和先生(のちに滋賀県教育委員会で近江の民俗調査に主導的な役割をはたされる)が来ておられた。私は長谷川先生の授業を受けることはなかったのであるが、よく先生を訪ねていろんな話を聞かせていただいた。おそらくそこで竹田先生の名前を知ることになったのだと思う(なお、この時、長谷川先生から宮本常一氏の書物を読むことを勧めていただいたこともありがたかった)。

 高校2年生になった時に、長谷川先生に代わって非常勤講師として来られたのが、同じく竹田先生の高弟のひとりであった赤田光男先生(のち、帝塚山短期大学教授、帝塚山大学人文学部教授を経て、現在は帝塚山大学名誉教授)だった。私は赤田先生には大変良くしていただき、いろんなところにくっついていった。私の民俗学への興味関心は、たぶんこのあたりから生まれたのだと思う。
 なお、私の論文の中に、「京都の都市空間と墓地」(山田『京都都市史の研究』所収、東京、吉川弘文館、2009年。初出は1996年)がある。これは考古学研究者が墓を論じたものとしてはまったくの異色作であって、考古学の墓研究では常識ともいえる、火葬墓と土葬墓の区別とか、棺や骨蔵器の材質や形態による分類といった方法を意識的に拒絶している。これは、私の墓に対する問題意識が民俗学的な部分から始まったからなのである。また、「鴨川の治水神」(山田『日本中世の首都と王権都市―京都・嵯峨・福原―』所収、京都、文理閣、2012年。初出は2000年)という論文もあるが、これはまったく歴史民俗学の手法による研究である。のちにこうした研究をすることになったのも、高校生の時にめばえた民俗学への関心が時を隔てて結実したものだと思っている。

 大学に入学すると、1回生が採れる授業の中に「歴史A」というのがあった。大教室でおこなわれるいわゆる一般教養の日本史である。この担当が竹田先生であった。私は一番前の席に腰掛け(この時、同じく一番前に陣取っていたのが、あとで一緒に同志社大学民俗学研究会を復活させてそこで一緒に民俗学の勉強にとりくむことになる秋庭裕氏〈現・大阪府立大学人間社会学部教授〉であった)、期待に胸をふくらませながら授業の開始を待った。しばらくすると前列の扉が開いて、坊主頭の初老の男性が入ってきた。背広をきておられたのだが、なんだかダブダブの感じで、失礼ながらぜんぜん似合ってなかった。同じく受講していた学生の中には、用務員のおっちゃんが黒板を拭きにきたのだと勘違いしてしまった人もいたらしい。それが竹田先生だった。
 竹田先生は教壇に座ると、すぐに講義を始められた。これが昔ながらの大学教授の講義で、「これから私のいうことをノートするように」と宣言されて、ひたすらに講義ノートを読み上げられ、その合間々々に解説が挟まれ、私たち学生は先生の言葉を一生懸命書き取るのである。もし、今の大学でこんな授業をやろうものならば、学生から「私たちは筆記の機械ではない。書き取らせるだけならばそれをプリントにして配るべきだ」などという抗議の山が積み上げられるに相違あるまい。しかし、私はいまでもこの時のノートを大事に保管しているのであるが、これが見事な「民俗学概論」になっていることに感心するのである。竹田先生の主著である『民俗仏教と祖先信仰』(1250ページ!!)を読もうとして一生懸命取り組んだのもこの頃のことである。
 しかし、1回生の秋に、不穏な噂が聞こえてきだした。竹田先生が定年前に同志社大学を辞められるというのである。これにはいろいろ学内の事情があったらしいのであるが、それについての詳しいことは私は知らない。私も衝撃を受けたが、私の同級生には竹田先生のゼミに進んで民俗学を専攻したいと希望していた学生が何人もいたから、彼らにとってはそのショックは計り知れなかったと思う。結局、この噂は本当となり、竹田先生は1978年3月に同志社大学教授を辞され、4月からは佛教大学教授に転じられたのである。

 先生の『民俗仏教と祖先信仰』は自分の今後の研究にとってどうしても必要な書物だと思ったのであるが、その頃には絶版になって入手困難だったし、古本としても学生の身には手の届かない値段になっていた。しかたがないので図書館でコピーしようと思ったのだが、これも1250ページという大著であるからかなりの労力である。こうしたことを先生にお話ししたところ、「あの本の色刷りの図版(40ページ分)の部分だけは特別の抜刷を作ってあるから、それであるならばあげてもいい」とのありがたいお言葉。なにせ今と違って、カラーコピーなどはない時代の話である。私は、ぜひちょうだいしたいと申し上げた。じゃあ取りに来い、ということで、1978年の2月であったか3月であったかの夜更け、私は先生の住房である百万遍の知恩寺の寿仙院(考古学界では、森本六爾が一時下宿していたことで知られている)を訪れたのである。
 すぐに辞するつもりであったのであるが、どういうわけかそこで、竹田先生は私を引き止めていろいろと話をしてくださる。2時間か3時間ほどいたであろうか。今から思えば、一対一の講義という贅沢きわまりない機会を与えてもらったのである。さらに、私のお目当ての『民俗仏教と祖先信仰』について先生は「自分の手元にも僅かしか残っていないけれども、そんなに勉強したいのならば譲ってやろう」、と言っていただけたのである。もちろん、抜刷ではなく現物である。さらにさらに、この本を出してこられた先生は、「じゃあ、君のためにサインをしてやろう」と言われて、本の見返しを開くとおもむろに筆に墨を含ませ、見事な筆致で「昭和五十三年初春、まさに同志社を去らんとす 山田邦和君架蔵のため 著者・竹田聴」と署名をしてくださった。そして、さらにさらにさらに、ご自分の肖像写真までもくださったのである。ペイペイの1回生、しかも民俗学専攻でもない学生に対してこれほどの御厚情を示されたわけはよくわからないけれども、四半世紀近くにわたって勤務された同志社大学を去るということで、先生御自身にも何らかの感傷があったのかもしれない。

 その翌年度には私は、佛教大学で開かれた先生の講義「民俗学概論」を聴きにいくことにした。竹田先生にそう申し上げると、笑って「まあ、そうしたいんなら勝手にせよ」と言っていただいた。ただ、そうはいっても受講料を払ったわけではないから、いわゆるニセ学生である(佛教大学さま、その時には大変々々申し訳ないことをいたしました。改めてお詫びいたします。40年近く前のことなので、なにとぞお許しくださいませ)。ちなみに、同志社大学はこの頃には教室にクーラーなるものはなかったが、佛教大学ではすでにクーラーがついていて、私はそれを羨望の眼差しでながめていた。この時の竹田先生の講義のノートも、私は大切に保管している。
 ところが、その年度の後半くらいから、竹田先生の授業に休講がはさまるようになった。その時の私には知るよしもなかったのであるが、竹田先生は肝臓を病まれ始め、翌年からはしばしば入院加療されるようになったのである。1980年9月6日、竹田先生は64歳で世を去られた。佛教大学に移られてわずか2年半であった。

 竹田先生から私が学んだものの中で衝撃だったのは、「考古学者は古墳を墓だというが、そんなことはない。古墳は埋葬施設ではあろうが、墓というのは遺体の処理以外に霊魂祭祀という側面がともなっていなくてはならないのであり、その点では古墳は墓かどうかわからない」ということであった。この時に先生から示唆をうけた「墓とは遺体処理と霊魂永久祭祀というふたつの機能の複合体である」というのは現在にいたるまでの私の「墓」への基本認識となっている。この概念は、私の「平安京の近郊~墓地と葬送」(『平安京提要』所収、東京、角川書店、1994年。のちに改稿して、山田『京都都市史の研究』所収「平安京の葬送地」)のライト・モチーフともなっているのである。
 また、学界では民俗学のことを歴史学の一分科であり、文献史学や考古学と並んで歴史を復元するためのひとつの「方法」とする考えが多い。しかし竹田先生は有名な論文「常民という概念について」(『現代日本民俗学』II所収、東京、三一書房、1975年。初出は1967年)において、民俗学の研究対象は「民の常」としての「常民」に他ならず、民俗学は一個の独立した学問であることを高唱された。歴史学や考古学の学界でこうした捉え方をしている研究者はおそらく皆無であろうが、私の「中世史と考古学」(『岩波講座 日本歴史 第21巻「史料論〈テーマ巻2〉」』所収、東京、岩波書店、2015年)では、まさにこの竹田理論にしたがって歴史学、文献史学、考古学、民俗学の関係を整理している。私はこの論文を書くことによって、40年近く前に竹田先生から受けた学恩に対して、ほんの一部ではあるがお返しができたような気がしているのである。

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