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2018.08.18

映画「ゲッベルスと私」、の巻

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予告編

 8月17日(金)
 新聞を眺めていて、映画「ゲッベルスと私」の京都公開が開催中なのを思い出した。このあいだ東京に言った時に、神田神保町の岩波ホールに大きな看板が掲げられてるのを見て、へぇ、こんな映画があるんだ、と興味を惹かれたものである。ただ、東京ではとてもとても時間がなく、見ることはできなかった。データは次の通り。
原題:A German Life
監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、オーラフ・S・ミュラー、ローラント・シュロットホーファー
脚本:フロリアン・ヴァイゲンザマー
製作年:2016年
製作国:オーストリア
 
 チラシの宣伝文句では「ナチス宣伝大臣ゲッベルスの秘書、ブルンヒルデ・ポムゼル103歳。彼女の発言は、20世紀最大の戦争の記憶を呼び起こす」。「なにも知らなかった/私に罪はない」。どんな凄いドキュメンタリーなのだろうか、と思い、期待しながら映画館に足を運んだ。主役のブルンヒルデ・ポムゼルという老婦人、撮影当時103歳で、映画の公開直後の2017年1月27日に106歳で没した人だという。100歳を超えているとは信じられないくらい、頭も言葉も明晰で、このこと自体は驚嘆に値する。シワだらけの風貌はさすがにお年であるのは当然(ただ、ライティングとモノクロの高解度映像によって、シワの一本一本をワザと強調しているのはちょっとお気の毒な感じ)。
 この映画には、ブルンヒルデ・ポムゼル、トーレ・D. ハンゼン『ゲッベルスと私─ナチ宣伝相秘書の独白』(石田勇治監修、森内薫・赤坂桃子訳、東京、紀伊国屋書店、2018年)という、同時進行で作られた「双子」にあたる本があるらしく、映画を真に理解するためには本も読んでおかねばならないのかもしれない。しかし私はこの本は読んでいない。だから軽々な批評は慎むべきかもしれないが、とりあえずは映画だけの感想はいってもいいだろう。

 申し訳ないのであるが、正直言ってこの映画、私には期待はずれだった。老婦人の延々とした独白につきあうのには、眠気をふりはらいつつ、かなりの忍耐力がいったことは白状しておかねばならない。要はこの邦題「ゲッベルスと私」が誤解のもとだ。原題の"A German Life(あるドイツ人の生涯)"のほうがよほど内容に即しており、そのままであるならば文句をつける筋合いはない。しかし、それでは話題性がないということで、えらく風呂敷を広げてしまった邦題をつけたのが間違い、ということになる。

 主役のブルンヒルデさん、「ゲッベルスの秘書」だとされており、そのこと自体はウソではないのだろう。しかしその語感からは、ヒトラーの秘書であったトラウドゥル・ユンゲのような立場を想像してしまう。トラウドゥルはヒトラーのもっとも身近に仕えていた数少ない人物のひとりであり、しかも最後の土壇場の総統地下壕でのヒトラーの自殺のすぐ側にいた、まぎれもない「歴史の生き証人」であった。だからブルンヒルデさんも国民啓蒙宣伝大臣としてのゲッベルスの側近として彼の行動の逐一の貴重な証人のように期待してしまうのであるが、これが大きな誤り。映画を見る限り、彼女は国民啓蒙宣伝省の職員ではあったが、大臣官房にたくさん配置されていた秘書たちの中のワン・オヴ・ゼムにすぎず、究極の上司であるゲッベルスの姿を眺めていたことはあったとしても、直接に命令を受けたり、親しく話をしたり、ましてや機密事項にかかわるような立場にはなかったようである。その点で、ブルンヒルデからいままで語られなかったゲッベルスとナチ・ドイツの裏面を知ることができるという期待は見事に裏切られるのである。

 最大のネックは、ドイツの中央官庁のひとつに勤務しながら、ブルンヒルデが政治にはまったく興味を持っていなかったところにある。彼女の関心は、待遇と居心地がよい職場に勤めて高い給料をもらい、自分の社会的ステイタスを高めるということ以外にはなかった。その点では国民啓蒙宣伝省は彼女にとっては望外ともいえる理想的な職場なのであった。彼女は自分の仕事を完璧にこなすことに誇りを持っていたが、かといって自分の所属する国民啓蒙宣伝省とドイツ政府がどんな悲惨な現実を引き起こしていたかまで想像をめぐらすことはなかった。だからこそ、上司であるゲッベルス大臣がおこなった1943年2月18日のいわゆる「総力戦演説」(ゲッベルスの演説の最高傑作とされている)の場にいあわせながら、演説の内容すらきちんとは理解することができず、ただ「聴衆たちはなぜこんなに熱狂しているのだろう? ゲッベルスはどういうマジックで聴衆をこんな興奮に叩き込むことができるのだろう?」とノンキなことしか考えておらず、側にいた親衛隊員から「拍手くらいしなさいよ」と呆れられる始末だった。それは彼女の冷静さなどではなく、国の行く末などにはとんと無関心な彼女の視野の狭さによるものだったのは明らかである。

 もちろん、だからといって100歳を超えた彼女の証言に意味がないわけではない。どこにでもいる平凡な人物が、思いがけずも歴史の惨劇の中に放り込まれて辛酸を舐めた経験として、記録にとどめておく価値は確かにある。もっと多くを語ってほしかったのは〈もしかすると本には書かれているのかもしれないが・・・〉、ヒトラーとゲッベルスの自殺を受けて、最後まで仕事を続けていた宣伝省が機能を停止するところ。ブルンヒルデさん、最後の土壇場まで職場に止まっていたのだな。宣伝省に残っていた最後の幹部であったハンス・フリッチェ(宣伝省ラジオ放送局長。戦後、ニュルンベルク裁判に主要戦犯のひとりとして起訴されるが、無罪となる)の詳しい動静など、もっといろいろ興味深い場面があったはずだ。

 あと、さすがにブルンヒルデさんの独り語りだけでは場がもたないと判断されたのか、いろんな映像が挿入される。ただそれらの多くはドイツの、アメリカの、ポーランドのプロパガンダ映像の断片であることは、かえって観客を真実から遠ざけているような気がする。一部には目を覆いたくなるような強制収用所の悲惨な映像もあるのだが、これも断片的にすぎる上に、ワザと説明が省かれているので、撮影にいたった背景を理解することが難しい。ゲッベルスの総力戦演説も、映像が残っているはずなのに、どういうわけかここだけは音声だけ。もうちょっとなんとかならなかったのかな、という感じはする。

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