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2019.02.27

『角田文衞の古代学1「後宮と女性」』の宣伝、の巻

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 歴史上の人物の子孫と称する人が、その歴史的人物についての本を出されることがよくあります。ただ、一般論としては、子孫というだけでその歴史的人物について余人にはわからない真実を見抜くことができる、ということは必然ではありませんし、子孫は先祖の賛美に走ってむしろ真実から遠ざかる、ということもありえますので、こうした傾向はいささかマズイことにもなりかねません😡。
 ただ、もし仮に歴史的人物の子孫がおこなうご先祖さまの研究がすばらしいものであるとした場合、ワタクシ個人の愚考ではありますが、まことに申し上げるのも畏れ多いことではございますが、歴史学研究者であるとともに今年に大御位を継承して第126代天皇となられます皇太子殿下におかれましては、父君の今上陛下およびご自身が紫式部の子孫であるということを踏まえられ、紫式部の研究🧐を始められますことを切に期待しているのでゴザイます😀。

 今上陛下そして皇太子殿下が紫式部の子孫といいだしますと、またトンデモと非難されることは必定ではありますが、これは角田文衞先生が立証されておられ、まったく疑いのない事実なのでございます。詳しくは角田先生の小文を読んでいただきたいのですが、これが収められた『角田文衞の古代学1「後宮と女性」』は吉川弘文館から少部数のみ限定発売されており、売り切れますと重版はありませんので、ぜひ買っていたたきたいのであります🙏。
(註)角田文衞「現在に続く血脈 紫式部」(角田文衞著、古代学協会編、吉川真司・山田邦和責任編集『角田文衞の古代学1「後宮と女性」』〈京都、古代学協会〔発売:吉川弘文館〕、2018年〉所収。初出は1993年)

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 ごくごくかいつまんで簡単に説明してみたく存じます。まず、いうまでもないことでありますが、今上陛下や皇太子殿下をはじめとする現在の皇室は南北朝時代の北朝の子孫であり、それは遡ると鎌倉時代の後深草天皇に始まる「持明院統」に連なっていきます。
 紫式部のたったひとりの子が、筑前守藤原宣孝との間に生まれた藤原賢子すなわち大弐三位であることはどなたもご承知と思います。この賢子は藤原定頼や中納言藤原兼隆とも愛をはぐくんだのでありますが、その後には大宰大弐高階成章の妻となりました。賢子と成章の間に生まれた備中守高階為家がこの話のキー・パーソンなのであります。この為家の子として高階為賢がいます。その娘が式部少輔藤原能兼と結ばれて生まれたのが刑部卿藤原範兼。その娘が尊勝寺執行の能圓と結婚し、生まれた娘の在子が後鳥羽上皇の後宮に入って土御門天皇を産んで承明門院の女院号を贈られる。そして土御門天皇の孫が後深草天皇なのでありますから、同天皇そして現在の皇室が紫式部の子孫であることは明らかなのであります。
 そして、キー・パーソン為家のもうひとりの子は丹後守高階為章で、その孫の女性が中納言藤原家成とむすばれ、その孫が権大納言藤原隆房であり、その子は権大納言藤原隆衡、その娘の貞子が太政大臣藤原(西園寺)実氏の妻となって大宮院藤原(西園寺)姞子〈姞は女へんに吉〉を産み、彼女が後嵯峨天皇との間に産んだ息子が後深草天皇であるから、同天皇には重ねて紫式部の血脈が受け継がれていることになります。
 さらにいうと、キー・パーソン為家のもうひとりの娘は但馬守源家実の妻となって高階基章を産んだのであるが、この基章の娘は平清盛の最初の妻となっており、2012年の大河ドラマ『平清盛』ではこの女性を女優の😍加藤あい様😻が清楚可憐に演じておられたことも記憶に新しいことであります。そして清盛の嫡男の重盛はこの高階氏女の子であるから、重盛もまた紫式部の子孫だということになります。また重盛の同母妹が前述の権大納言藤原隆房と結ばれて権大納言藤原隆衡の母となり、その曽孫が後深草天皇であるから、同天皇の身体にはさらに重ねて紫式部の血が流れているのであります。
 また、後深草天皇の曽孫である北朝崇光天皇が源(綾小路)資子との間に伏見宮栄仁親王を儲け、その子が後崇光院太上天皇(貞成親王)、その皇子がはからずも皇位を継承して後花園天皇となって、それが現在の皇室につながっているのであるが、この資子もまた、キー・パーソン為家の娘のひとりが宮内卿源有賢との間に産んだ権大納言源資賢の子の右近衛中将源(綾小路)時賢の五代の後裔にあたっているから、ここでも紫式部の血は受け継がれているのです。
 さて、後崇光院の妃であって後花園天皇の母は敷政門院源(綾小路)幸子であるが、彼女は栄仁親王妃の資子の兄弟で庭田家を起こした右近衛少将源経有(資子と同じく、キー・パーソン為家の後裔)の娘であるから、彼女もまた紫式部の子孫であることになります。
 それから、後花園天皇の子である後土御門天皇が贈皇太后源(庭田)朝子との間に後柏原天皇を儲けたのであるが、この朝子はキー・パーソン為家の子孫であって庭田家初代の源経有の曽孫にあたっているから、ここでもまた紫式部の血脈が登場しております。
 これだけ簡潔に説明させていただくならば、今上陛下と皇太子殿下には紫式部の血が何重にも受け継がれていることは誰しも疑いのない事実として受け入れていただけるものと存じます。
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 なお、いうまでもないことですが、最初に書いた、皇太子殿下に紫式部の研究をやっていただくことを期待する、というのはあくまでワタクシなりの屈折した冗談でありますので、どうか本気に取らないでくださいませ😅。

2019.02.26

両陛下の譲位後の称号について、の巻

今年退位される両陛下の称号は、上皇は「His Majesty the Emperor Emeritus」、上皇后は「Her Majesty the Empress Emerita」になるのだとのこと。いつもながらであるが、政府のやりかたのいい加減さには呆れる。両陛下の譲位後の称号は歴史的にみると「太上天皇」「皇太后」であるのが当然なのだが、政府は「太上『天皇』」には「天皇」という語がはいっているから、今上陛下との二重権威になってしまう、とか、「太上天皇では天皇に対して『称号上の上下感を生』」(註)むことになってしまう、などと訳のわからんことを言って、本来は太上天皇の省略形にしかすぎない「上皇」を正式名称にしまった。また、「皇太后」では配偶者の天皇が亡くなってるように見える、などというイミフメイのけったいな理屈をこね回して、「上皇后」というまったくの新語を作り出した。歴史的にみると、配偶者生存中の皇太后なんてごくごくフツーに存在する。
 それが英語になると「His Majesty the Emperor Emeritus」「Her Majesty the Empress Emerita」と、きっちりとEmperor、Empressを入れている。Emperorが今上と太上天皇のおふたりいるのはマズイ、と言った舌の根も乾かないうちにこれだ。これがダブルスタンダードでなくてなんだ?

(註)本郷恵子・ 東京大学史料編纂所教授「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議資料」

2019.02.20

福山敏男先生(京都大学名誉教授)のこと、の巻

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 福山敏男先生(1905年4月1日~1995年5月20日)といえば京都大学工学部教授、西日本工業大学工学部教授、京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長をつとめられ、京都大学名誉教授となられた日本建築史学の泰斗である。
 これは私の所蔵品の中にある、福山先生の関係資料。上が「福山敏男写『河内国西琳寺縁起旧記』」。下が「福山敏男旧蔵および書き込み・高橋健自著『遺物より見たる上古の家屋』」。
 やっぱり福山先生ってスゴイな。上のように、コツコツと地道に史料を筆写してこられた。その上に立ってこそ、あの巨大伽藍のような「福山建築史学」が構築された。福山先生こそ「学の巨人」の名がふさわしい方だったと思う。しかし、天賦の才はもちろんですが、それを裏付けたものは超人的な努力だったのだろう。
 下のものは、高橋健自論文の抜刷に福山先生が細かい字で書き込みし、関連資料までトレースして貼り込んでおられる!圧倒される!
私は福山先生とはご縁が薄く、講演会を聞いたことがあるのと、『平安京提要』編集委員会顧問をお願いしに行った程度です。『提要』に原稿をお願いしたのですが、年齢のこともあり(その時にはもう90歳代の後半だったから当然)、新稿は無理だが旧稿を補訂して転載することならば可、ということになりました。しかし、私にとっては碩学の最晩年の謦咳に接することができたのは貴重な経験となりました。

2019.02.16

北近畿型最古式群集墳について、の巻

【Facebookより】
神奈川在住の古墳マニア「ぺん@古墳巡り」さんという方のツイッターを見ていると、前方後円墳総数の都府県別ランキングというのを作られていました。
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 この表で興味を惹かれるのは、前方後円墳の数以外に、古墳の総数では兵庫と京都が上位に入ってること。これは恐らく、但馬と丹後に特有の、前期から中期前半の小規模古墳の群集がやたらにあるからです。私はこれを「北近畿型最古式群集墳」と名づけた。その評価はこれからの課題ではありますが、ウソだと思うのでしたら、丹後や但馬の山の尾根を歩いてみてください。気づかないほど小さな小さな古墳が数珠つなぎに連なってます。その様子は、たとえば「兵庫県遺跡地図」豊岡市の部分を参照してみていただければよくわかります。中には、弥生の方形台状墓群と区別つかなかったり、それに接続するものもある。大和や河内ではこんなのは見られません。
 添付の図で、左が北近畿型最古式群集墳(尾根の上に数珠つなぎ、円墳または方墳、埋葬主体は木棺直葬、時期は4世紀~5世紀前半)、中が古式群集墳(初期群集墳とも呼ばれる。丘陵上、円墳が主体、埋葬主体は木棺直葬、時期は5世紀~6世紀前半)、右が一般的な群集墳(後期群集墳とも呼ばれる。丘陵裾や、谷間に立地することが多い。円墳がほとんど。埋葬主体は横穴式石室、時期は6世紀後半~7世紀中葉)。これを比較していただければ、北近畿型最古式群集墳の特異性がお分かりになっていただけると思います。
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 「北近畿型最古式群集墳」なんて聞いたことがない、という方もおられると思いますが、勝田至編『日本葬制史』(東京、吉川弘文館、2012年)所収の拙稿「古墳時代」の項でまとめておきましたので、ご興味ある方はそちらをご覧下さい。ただ、この論考、自分なりの古墳時代像を通史的に確立しようとして一生懸命書いたのに、あんまりどなたも参照してくれない😖。それから、この書物が仕上がってきたのは、ちょうど私が大病で生死の境をさまよっている時。熱にうなされながら私は、病床でのうわ言に「北近畿型最古式群集墳が・・・」などと叫んでいた覚えがかすかにあります。

かなり以前のことですが、私は、現在の京都府京丹後市大宮町の小池古墳群の発掘調査に参加しました。弥生時代の方形台状墓群だと聞かされていたのですが、掘り下げていくと五世紀中葉の須恵器のハソウが出てきて仰天、古墳時代の古墳だということが判明。丹後にはこういうのがたくさんあることがわかってきました。一方、南山城地域の京都府精華町の「精華ニュータウン(関西文化学術研究都市精華地区)」建設予定地の広域発掘では、丘陵の尾根の上に小さな隆起がポコポコしていて、当然これは古墳が並んでいると思われたのですが、掘ってみるとこれが全部自然の高まり。その地区を担当された川西宏幸さんが「今日のもダメだったよ」とボヤきながら宿舎に帰ってこられたのが印象に残っています。どうも、丹後と南山城ではこうした尾根の小古墳群のありかたがまったく違っている。このことが、「北近畿型最古式群集墳」の発想に繋がりました。


2019.02.15

安土城天守復元構想について、の巻

【Facebookより】
 安土城天守復元を滋賀県が検討中というニュース が飛び込んできた。正直言って、バカげていると思う。
 安土城天守復元案、図に示したように、新旧とりまぜるといろいろある(もちろん、かなり以前の説であって今となっては研究史上の意味しか持たないものもある)。本命とされているのは内藤昌説だが、実はこれにも問題が山積している。対抗馬といえるのは宮上茂隆説だが、これも確定、と自信を持って言うにはなかなか難しい。最近では、佐藤大規説もユニークな復元をして注目株ではある。
 たしか、滋賀県立安土城考古博物館の常設展示では、以前には安土城天守の復元図は内藤説、宮上説などが併記されていてなかなか公平だったように記憶するが、近年では内藤説だけしか紹介されなくなったようで、かなり危惧を感じる。

 そもそも、安土城天守・城門について、いちおうは信頼できる絵図は、信長がローマに送らせた「安土山図屏風」を画家フィリップス・ファン・ウィングが見て描いたという、この図だけ。ただ、とてもこれだけに基づいては正確な復元は不可能。
 つまり、安土城天守を学問的に完璧に復元するというのは、現段階ではちょっと無理筋なのである。それを建ててしまうとなると、どうしてもそれは「偽物」ということにならざるをえないのである。あれほど重要な史跡にわざわざ偽物を造ることはないと思っている。

 ただ、その一方では、それじゃ平城宮大極殿・朱雀門の復元や、吉野ヶ里遺跡の復元はどこまで正確なの?、城の復元については悪口を言いながら、そうした遺跡の復元は批判しないの?と言われてしまうと、我ながらグッと詰まってしまう。復元というのはどの程度までが許容範囲で、どこを超えると歴史の捏造になってしまうのだろうか? 難しい問題である。

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2019.02.13

対馬旅行、の巻

2月9日(土)~11日(月・祝)
 対馬に行ってきました。
 白状いたしますと、これまで機会がなく、対馬は初めてです。森浩一先生は戦後すぐの段階で「敗戦でアジア大陸に行くことが不可能になったから、せめて大陸に一番近いところまで行こう」と考えて対馬に渡り、食糧も交通も不足不便な中でこの島を歩き回られました。森先生はしばしば「最近の考古学者の中には、対馬にすら行ったことがない連中がいる。それでよく歴史を語っているな」と嘆かれていました。そういう話題がでるたびに、私は「キミは当然対馬に行ったことがあるだろうな?」と聞かれるのが怖くて、隅っこで小さくなっていたのです。遅すぎましたが、ようやく念願を果たすことができました。

記録のため、行った場所だけを列挙しておきます。
 2月9日:金田城跡登り口、太祝詞神社、越前五郎墓、伝教大師入唐帰国地、雷命神社、小茂田浜神社、矢立山古墳群、若御子(若麻岐)神社、銀山神社=宗資国御太刀塚、法清寺=宗資国御胴塚、宗資国御首塚、椎根の石屋根、安徳天皇御陵墓参考地(佐須陵墓参考地)、銀山上神社、保床山古墳、多久頭魂神社、対馬藩お船江
 2月10日:根曽古墳群、大船越、万関橋、小船越=西漕手、梅林寺、和多都美神社=豊玉姫墓、和多都美神社玉ノ井、豊玉町郷土資料館、浜殿神社・豊玉彦墓伝承地、波自采女の碑、木坂のヤクマと藻小屋、海神神社、峰町歴史民俗資料館、五王神社、志多留の小屋群と志多留貝塚、大将軍山古墳、比田勝港、霹靂神社=朝日山古墳群、サカドウ遺跡
 2月11日:厳原港、金石城跡と庭園、万松院=宗氏墓所、厳原八幡宮、藩校日進館

52129990_401689197266812_2964347450←実は、2月10日は私たちの何十回目かの結婚記念日。小雨だったのがいささか残念ですが、その代わりに、和多都美神社近くの湾を通りかかった時、見事な虹に出会うことができました。神の恩寵のような気がして、嬉しかったです。

 51535123_401797233922675_5914884477←和多都美神社の「豊玉姫墓」。豊玉姫さま👸というと、日本神話では神武天皇のお祖母さまではないか!

51638079_401266873975711_2189135575←安徳天皇陵墓参考地(佐須陵墓参考地)。安徳天皇の潜行伝説には非常に興味があります。

52051092_401266787309053_1389408751←矢立山古墳群。1号墳は積石塚の方墳という威容。

51655256_401266810642384_9836368461←矢立山2号墳はT字形の横穴式石室を持つ。T字形石室については学生時代に調べてみたことがあるが、ここには来ることができなかった。念願叶って訪問。

52392558_401797310589334_5609279515←泊まったホテルからもほど近い根曽古墳群は海に面した岬の上にある積石塚群で、35mの前方後円墳もある。

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対馬では、元寇の際にわずかな手勢で敢然と立ち向かい、奮戦の後に散った対馬島主宗資国(地元では助国とも)の悲劇が語られる。これは伝・資国の首塚。あと、宗氏一族の対馬防衛戦を描くアニメ、アンゴルモア元寇合戦記というのが放映されたので、それでも盛り上がっていた。

51732448_401797260589339_2800644957←たまたま何の気なしに立ち寄った神社では、豊玉姫の父・豊玉彦の陵の石碑! 明治に諸陵寮から調査に来たことが記されており、陵墓の治定の歴史を考える上で重要。

51742008_401266903975708_8482987891←厳原の港にある、対馬藩の「お船江」。

51755766_402203390548726_7303008793←対馬の朝日。良い旅でした。またぜひ来ます!

2019.02.04

邪馬台国あちこち、の巻

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どうでもいい話題の紹介です。邪馬台国だと立候補している土地は数多ありますが、卑弥呼を祀る神社を創建し、卑弥呼の銅像まで建ててしまったところは珍しいように思います。所在地は鹿児島県霧島市です。かなり以前になりますが、あてもなく鹿児島を歩き回っていて出会い、仰天しました。日本国内で、ほかに卑弥呼の銅像があるところがあれば教えてください。なお、ワタクシも、卑弥呼サマが縁結びと学問と心身症に御利益があるとは知りませんでした。
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卑弥呼の銅像、鹿児島県霧島市以外にあれば教えてください、と言ったら、親切な方が調べてくださいました。吉野ヶ里遺跡近くの神埼駅前にあるらしいです。吉野ヶ里遺跡には久しくご無沙汰ですので、こんなのができているとは知りませんでした。それにしても、デカい巴形銅器!


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邪馬台国畿内説は纒向遺跡で決まり、と思っているそこのアナタ、認識不足でゴザイますね。邪馬台国は神戸にあることをご存知でしたか? 平清盛の福原京の研究(拙著『日本中世の首都と王権都市』〈京都、文理閣、2012年〉参照)のために神戸を歩いていて、福原京跡の中心たる神戸市平野の交差点で邪馬台国を見つけてしまった時に私が受けた衝撃をご理解いただけますでしょうか? 振り向くと私設の古代史研究所があり、邪馬台国神戸説の冊子が配布されていましたので、ちゃっかりともらってきたワタクシでございます。ただ、この立札は公道に立てるのはやっぱりマズかったのか、次に行った時にはなくなっていましたので、この写真は実に貴重な歴史的記録となりました。

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なお、こんなのもあります。「佐賀新聞」昭和60年4月1日号。びっくりしますが、佐賀の酒蔵の出した全面広告で「エープリルフール特集」だそうです。

2019.02.03

還暦、の巻

 2月3日
 ついにというか、とうとうというか、満60歳の誕生日を迎えました。いわゆる「還暦」です。干支が一巡したからといって何の意味があるんだ、というのは確かにそうなのですが、やはりいろいろ考えてしまいます。私は大学づとめですから定年退職まではまだ時間がありますが、この歳に定年になって名実ともに人生の第2ステージにはいる、という方も多くおられると思います。ゆっくりですが、着実に歩んでいきたいと思っていますので、どうかよろしくお願いいたします。

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本日は、還暦のお誕生日を自祝して(?)、早起きして奈良県橿原市の小山田古墳の発掘調査現地説明会に行く。蘇我蝦夷の「大陵」だという小澤毅さんの説は正しいだろう。

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帰り道には、植山古墳=推古天皇初葬陵。背後の柵列の公園化は完成していたが、墳丘の整備はこれから。20年前の発掘の時に、花園大学の私の前任者の伊達宗泰先生のお供をさせてもらって見学したことを思い出します。

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夜は、下御霊神社⛩、節分祭。

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昨日は摂津高槻城跡🏯発掘調査現地説明会。高山右近時代の堀。滅多にない見ものである。


2019.02.01

映画「ヒトラーに屈しなかった国王」、の巻


衛星放送で録画しておいた映画「ヒトラーに屈しなかった国王」を観た。実に興味深かった。ナチ・ドイツの侵略を受けたノルウェーにおいて、降伏と抵抗の狭間で苦悩する国王ホーコン7世の物語。孫とたわむれるのを無上の楽しみとするひとりの老人の肩に、国家の運命がのしかかる。身体を折り曲げて苦悩に耐える国王の姿が悲痛。

ノルウェーにおける立憲君主制の国王のありかたも興味深かった。立憲君主制のもとでは国王は儀礼的な役割しか果たさず、実権は持たない。駅や道で国王とすれ違っても、市民はちょっと帽子に手をかけて敬意を表すだけで、大げさなことはしない。空襲の際、国王は市民と一緒になって転げながら逃げ惑う。しかし、国家の最大危機に臨んで、内閣も議会も右往左往して事実上の機能停止に陥った瞬間、決断を下せるのは国王しかいなくなってしまう。「すべては王様のために」と言う若い兵士に対して、「それは違う。『すべては祖国のために』だ」と諭すホーコン国王の姿が印象的。

史実では、ノルウェーは国王の決断によってドイツに抵抗する途を選び、国土がドイツ軍に蹂躙された後には国王と正統政府はイギリスに逃れて亡命政権を樹立、祖国の解放運動を支援し、やがてのドイツの敗北とともに国民の歓呼に迎えられて復帰する、という流れをたどる。北欧諸国はいずれも独立国とはいえ、いずれも人口数百万の小国で、国力という点ではドイツはその十数倍ないし何十倍であろう。さらにドイツの軍事力はまさに圧倒的で、まともに戦ったら小国には勝ち目はまったくない。
最終的にはドイツの敗北によって結果オーライになったとはいうものの、ノルウェーはこうした経緯の中で多大の犠牲を払うことになってしまったことも事実。すぐにドイツに降伏して、被占領国の「優等生」として認められ、抑圧を受けながらも最低限の自治権だけは保つことができたデンマーク(国王はホーコン7世の兄・クリスチャン10世)。いやいやながらもドイツに最小限の協力をし、裏では連合国にも通じることによって、綱渡りのようなかろうじての「中立」を保つことができ、戦後には「戦勝国」のひとりとして認められたスウェーデン。もうひとつの超大国・ソ連の暴風雨のような圧迫を受け続けたがためにドイツに助けを求めざるをえなくなり、その結果としてソ芬戦争(ソ連・フィンランド戦争)に突入して手痛い打撃を受けたあげくに「敗戦国」の立場に追い込まれて苦汁を嘗めたフィンランド。人口十数万という、ほかの北欧諸国と比べてすら比較にすらならない小国中の小国で、独立国というのは名ばかりで事実上デンマークの自治領にしかすぎなかったものの、宗主国デンマークがドイツに降伏したため、それを奇貨としてイギリスに「占領してもらう」ことができ、それによって国民の悲願であった独立を勝ち取ることができたアイスランド。それぞれの運命は異なっていたが、大国に挟まれた小国の対応として、どれが正解だったかを断じることはできないだろう。

映画でちょっと残念だったのは、ドイツの侵略に呼応して政権を奪取した「獅子身中の虫」、ヴィドクン・クヴィスリングQuislingの出演が声だけだったこと。売国奴の代名詞(英和辞典を引いてみても、「quisling」は「売国奴」である)ともなっているこの男の描かれ方を見てみたかった。公平に見て、彼は恥知らずの野心家でとてもとても尊敬に値するような人物ではなかったことは確かのようだが、小国が生き延びるためには隣の大国にすがるしかないと見切ったこと自体は、ひとつの選択肢としてはありえないことではない。ただこの人物の場合には国家の行く末を憂うという愛国心よりも、自らの野望が上回ってしまい、ひたすらにドイツのご機嫌とりに終始して自己の権力確立に腐心したことが裏目に出た。せっかく尻尾を振り続けたにもかかわらず、結局はドイツの信頼を得ることすらできず、国の実権はドイツの駐ノルウェー総督(国家弁務官)のヨーゼフ・テアボーフェン(この男も非情極まりない冷血漢だった)に握られてしまってクヴィスリング自身はまったく権力の実質からは遠ざけられた傀儡と化す。そして、頼みの綱だったドイツが戦争に敗北するとともに彼は、ノルウェー国民の憎悪を一身に受けて死刑に処せられるという末路をたどってしまう。

お気の毒だったのは、駐ノルウェー・ドイツ公使(大使と訳したほうがいい?)のブロイアー氏。彼は彼なりにノルウェーのことを真剣に心配しながらも、ヒトラーの命令との板挟みになり、ドイツ軍将校には軽く扱われるし、妻には見捨てられかけるし、果ては、必死で説得しようとしたホーコン国王にすら怒鳴られてしまう。憔悴してオスロの大使館に帰ってくると、自分の執務室はドイツ軍に勝手に占拠されていて大使館にすら居場所がないという体たらく。はては、ノルウェー降伏をうまく纏められなかった不手際の責任をとらされたのか、東部戦線に回され、そこでソ連軍の捕虜となり、敗戦後の数年間をソ連で抑留されていたというから、やはり不運だな。

第二次大戦時のノルウェーについては、山川出版社の『世界各国史・北欧史』の旧版(角田文衞先生編)などで最低限の流れだけは承知していた。しかし、ノルウェーの抵抗が単なる「英雄的行為」ではなく、その裏には国王の苦悩と苦渋の選択があったことを知ることができたことで、この映画は非常に面白かった。推奨に値する。

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