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2020.01.18

阪神大震災から25年、の巻

 あれからもう25年がたつ。平成7年(1995)1月17日5時46分52秒に発生した兵庫県南部地震と、それに伴って勃発した阪神・淡路大震災。この地震では、京都も震度5というかなりの揺れに見舞われたというが、しかし実は私はこの地震を体験していないのである。

 その日、私は千葉県船橋市にいた。妻とともにトルコ・イスタンブルに旅することにした。しかし当時はイスタンブル行きの飛行機に乗るためには成田空港からでないとダメだったので、前日に千葉の妹の家に泊めてもらい、その日の朝に成田にむかうことにしたのである。


 当日の早朝、妹に起こされた。「関西で大きな地震があったらしい」。すぐにテレビをつけてみたのであるが、その時にはまだ詳しい状況がわからなかった。まだインターネットもスマホもない時代の話である。京都の母に電話しようとしたが、回線混雑のためかぜんぜんつながらない。そうこうしているうちにも、飛行機の出発時刻は迫ってくる。10時にはどうしても成田空港に入っていなくてはならない。不安な心を抑えながら京成電鉄に乗り込み、成田に向かう。



 成田でも、空港の大きなテレビでニュースを映し出しており、その前には人だかりができていた。京都は震度5、大阪は震度4、奈良は・・和歌山は・・という形で地震の状況が報じられている。かなりキツい地震だったが、そう被害はないのかな、と思ってしまった。その時には変だなどとは露ほども思わなかったのだが、実はそのニュースでは、神戸のあたりだけは震度が空白になっていたのである! あまりの激震に地震計が壊れたり通信が途絶したりして神戸付近の震度が入ってこなかったのであるが、そんなこと、神ならぬ身1321_20200118000301 の知るよしもない。


 何度も電話を試みるうちに、やっと京都の母の家につながった。母の話では、京都もかなり揺れたが、大きな被害ではないという。それで安心して、私たちは飛行機に乗り込んでイスタンブルに飛んだのである。再度いうが、インターネットもスマホもない時代である。いったん外国に出てしまうと日本の情報からは完全に隔離されてしまう。私は憧れの街・イスタンブルで古代や中世のローマ帝国の遺跡をひたすらに歩きまわることに熱中していた。一度だけ、トルコ人の青年に話しかけられた「お前は日本人か。日本は地震で壊滅したと聞いたが、大丈夫なのか?」。私にはいったい何を言われているのかわからなかった。


 私がようやく真実を知ったのは、帰りの飛行機に乗り込んで、そこで日本の新聞が配られた時。神戸の高速道路が横倒しになっている有名な写真をはじめ、言語に絶するような悲惨な被害の状況が紙面に踊っていたのである。驚きのあまり声もでなくなった。そのあと、日本に着くまでの時間があんなに永く感じられたことはなかった。
 

 (写真は、その時のイスタンブル。コンスタンティノポリスのテオドシウス2世の大城壁、ビンビルディルク地下貯水池跡〈有名なイェレバタン・サライ地下宮殿とは別物、その後はマーケットに改造されてしまったとの話も聞くが、どうなってるんだろう〉、コンスタンティノポリス大宮殿跡のモザイク博物館、ヒッポロドーム〈戦車競技場跡〉)

2020.01.04

【大ウソ】卑弥呼の墓を駿河で発見!

昨年もいろいろと大ウソをついて歴史学(文献史学・考古学など)の学界に混乱を巻き起こしてきた私であるが、今年になってもぜんぜん反省していないのはトンデモの限りである。それでは、本年最初の大ウソをつくことにいたしましょう。

◎卑弥呼の墓を駿河で発見!
【大ウソ】
 邪馬台国の女王卑弥呼の墓が「径百余歩」という大規模なものであったことは『三国志』「魏書 巻三十 東夷伝〜倭人条」に記載されていることは周知されているが、このたび私は、駿河国(静岡県藤枝市)において卑弥呼の墓とみられる古墳の痕跡を確認した。これは、私が国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス<https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1>で昭和20〜30年代頃の同地域の航空写真(国土地理院整理番号CB594YZ、コース番号A27E、写真番号2247)をなんとなく眺めていたときに発見したものである。
 問題の地点は静岡県藤枝市田中の、現在は藤枝市立西益津小学校・中学校になっているあたり(北緯34度52分19.22秒、東経138度16分28.57秒付近)である。航空写真ではここに巨大な人為的構築物の痕跡が明瞭に写し出されている。外周をたどると、円形の本体に台形の突出部がついており、これが前方後円墳の周濠であることは明白である。古墳本体は円形部だけが見えていて前方部はわからないが、周濠の形からするとここにも短い前方部が付くと推測するのは容易である。
 驚くべきことに、縮尺を調整して測ってみると、この古墳は後円部径370〜320m、推定全長472m、周濠全長637mの巨大なものでることが知られる。日本最大の古墳である大阪府堺市大山古墳が全長486mであるから、この藤枝の古墳はそれに匹敵する巨大古墳であるということになる。さらに注目されるのはこの古墳は前方部が短い帆立貝形前方後円墳であり、しかもその後円部は正円ではなく楕円形であることである。これは、この古墳が箸墓古墳以降の定型化したものではなく、「纒向型前方後円墳」と呼ばれる最初期の時期のものであることを示している。纒向型前方後円墳は後円部に比べて前方部が低平であることが通例(例:纒向石塚古墳)であり、削平されるとその痕跡がまったくわからなくなってしまう。この藤枝の古墳の前方部が不明瞭であることもこれで説明がつく。
 「魏志倭人伝」の卑弥呼の墓は径100余歩とされている。『常陸国風土記』那賀郡「大櫛之岡」には「上古、人あり。體は極めて長大」とされており、伝説であることを割り引くならば古代日本に股幅が3mあるような大きな人がいたことは確実であろう。とすると、卑弥呼の墓は直径300m余となり、この藤枝の古墳の後円部径に合致する。
 この藤枝の古墳が最初期の纒向型前方後円墳であり、しかも超巨大古墳である上に、卑弥呼墓の規模と同じであることを考え併せると、この古墳の被葬者は女王卑弥呼以外には考えられない。
 邪馬台国の所在論は江戸時代以来さまざまな説が戦わされてきたが、藤枝で卑弥呼墓が発見さ
れた以上、邪馬台国は駿河にあったことが確定したのであり、ここに日本古代史の永年の謎は解明されたのである。

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【真相】
 静岡県藤枝市田中のこの痕跡は、実は古墳ではありません。戦国期から江戸時代にかけての田中城という城の跡なのです。この城は武田信玄によって築城され、関ヶ原の戦の後に徳川家康家臣の酒井忠利が城主となり、城と城下町を完成したと考えられています。18世紀前半には本多氏がはいり、田中藩(4万石)として存続しました。
 この城が特徴的なのは、日本でも稀な完全な円郭式(同心円形)縄張を持っていることです。4重の濠が同心円形にめぐっています。「大ウソ」で古墳の外周としたものは外濠の外側です。外濠の外周が前方後円形に見え  るのは、城本体の東部に長方形の城下町区画がくっついているからです(一点鎖線の「前方部」はまったくのデタラメです)。
 詳しくは「藤枝宿」<http://fujiedajuku.jp/history-2>をご参照ください。重ねて言いますと、完璧な円郭式城郭は本当に珍しく、興味深いです。残念ながら私はまだ行ったことがないのですが、訪れてみたい遺跡のひとつです。

2020.01.03

2020年初詣、の巻

初詣はどこに行こうかなと思ったが、結局、実家の氏神様である下御霊神社、さらに、それとセット関係ともいえる御霊神社(上御霊神社)。

 下御霊さんでは、摂社のひとつの「垂加社」にもお参り。朱子学者で垂加神道の創始者の山崎闇斎を祀る社。山崎闇斎の邸宅跡は今の私宅のご近所であることも、なにか所縁を感じて嬉しい。

 上御霊さんでは、「応仁の乱発端 81292493_612028872899509_521417099977949御霊合戦旧跡」碑を眺める。解説版の戦国期上京復元図に私のものが使われているので、ちょっと誇らしい。

 あと、せっかくなので革堂行願寺<こうどう・ぎょうがんじ>。えらく参拝者が多いな、と思ったら、「京都七福神」巡り(革堂さんには寿老人が祀られている)の方々だそうで、それならお正月らしい。「加茂明神」とされている境内の大きな五輪塔(ただし塔内に祀られるのは不動明王石仏)は私にとっては子供の頃からのおなじみ。  81876307_612028899566173_471664877425917 81196640_612029002899496_404027625074327  81942579_612029006232829_269808913956313  81140455_612029009566162_890187712611064   81770638_612028982899498_343149252375792 82066199_612028992899497_587119037059484 

【付記】
お前は喪中なのに神社にお参りしていいのか、というお小言は、失礼ながらまちがっておりますのでご容赦ください。喪中に神社にお参りすることは、どの神社も否定しておりません。神社参拝が良くないとされているのは、喪中ではなく「忌中」。そして忌中は、明治7年太政官布告の「服忌令<ぶっきれい>」によって、最大でも50日とされていますので、私の場合は該当いたしません。あしからず。
参照:http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/rakugaki/fukkirei.htm

2020.01.02

学ぶとは、精神を耕すことなり、の巻

太宰治の『正義と微笑』。太宰の弟子の堤重久(後、京都産業大学名誉教授)の弟の堤康久(後、前進座俳優)の少年時代の日記をリライトした作品だそうです。
 その中で印象的なのは、生徒から慕われ尊敬されていた英語の「黒田先生」が「馬鹿野郎」な教員ばかりの学校に絶望して辞職する際、生徒たちに言い残した言葉。「勉強」の真実を突いていて余すところがない。

「お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることでなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、必ずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは」。

カルチュア(culture):「文化」「教養」
カルチベート(cultivate):「耕す」「〈才能などを〉磨く、高める」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1577_8581.html

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