【大ウソ】卑弥呼の墓を駿河で発見!
昨年もいろいろと大ウソをついて歴史学(文献史学・考古学など)の学界に混乱を巻き起こしてきた私であるが、今年になってもぜんぜん反省していないのはトンデモの限りである。それでは、本年最初の大ウソをつくことにいたしましょう。
◎卑弥呼の墓を駿河で発見!
【大ウソ】
邪馬台国の女王卑弥呼の墓が「径百余歩」という大規模なものであったことは『三国志』「魏書 巻三十 東夷伝〜倭人条」に記載されていることは周知されているが、このたび私は、駿河国(静岡県藤枝市)において卑弥呼の墓とみられる古墳の痕跡を確認した。これは、私が国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス<https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1>で昭和20〜30年代頃の同地域の航空写真(国土地理院整理番号CB594YZ、コース番号A27E、写真番号2247)をなんとなく眺めていたときに発見したものである。
問題の地点は静岡県藤枝市田中の、現在は藤枝市立西益津小学校・中学校になっているあたり(北緯34度52分19.22秒、東経138度16分28.57秒付近)である。航空写真ではここに巨大な人為的構築物の痕跡が明瞭に写し出されている。外周をたどると、円形の本体に台形の突出部がついており、これが前方後円墳の周濠であることは明白である。古墳本体は円形部だけが見えていて前方部はわからないが、周濠の形からするとここにも短い前方部が付くと推測するのは容易である。
驚くべきことに、縮尺を調整して測ってみると、この古墳は後円部径370〜320m、推定全長472m、周濠全長637mの巨大なものでることが知られる。日本最大の古墳である大阪府堺市大山古墳が全長486mであるから、この藤枝の古墳はそれに匹敵する巨大古墳であるということになる。さらに注目されるのはこの古墳は前方部が短い帆立貝形前方後円墳であり、しかもその後円部は正円ではなく楕円形であることである。これは、この古墳が箸墓古墳以降の定型化したものではなく、「纒向型前方後円墳」と呼ばれる最初期の時期のものであることを示している。纒向型前方後円墳は後円部に比べて前方部が低平であることが通例(例:纒向石塚古墳)であり、削平されるとその痕跡がまったくわからなくなってしまう。この藤枝の古墳の前方部が不明瞭であることもこれで説明がつく。
「魏志倭人伝」の卑弥呼の墓は径100余歩とされている。『常陸国風土記』那賀郡「大櫛之岡」には「上古、人あり。體は極めて長大」とされており、伝説であることを割り引くならば古代日本に股幅が3mあるような大きな人がいたことは確実であろう。とすると、卑弥呼の墓は直径300m余となり、この藤枝の古墳の後円部径に合致する。
この藤枝の古墳が最初期の纒向型前方後円墳であり、しかも超巨大古墳である上に、卑弥呼墓の規模と同じであることを考え併せると、この古墳の被葬者は女王卑弥呼以外には考えられない。
邪馬台国の所在論は江戸時代以来さまざまな説が戦わされてきたが、藤枝で卑弥呼墓が発見された以上、邪馬台国は駿河にあったことが確定したのであり、ここに日本古代史の永年の謎は解明されたのである。
【真相】
静岡県藤枝市田中のこの痕跡は、実は古墳ではありません。戦国期から江戸時代にかけての田中城という城の跡なのです。この城は武田信玄によって築城され、関ヶ原の戦の後に徳川家康家臣の酒井忠利が城主となり、城と城下町を完成したと考えられています。18世紀前半には本多氏がはいり、田中藩(4万石)として存続しました。
この城が特徴的なのは、日本でも稀な完全な円郭式(同心円形)縄張を持っていることです。4重の濠が同心円形にめぐっています。「大ウソ」で古墳の外周としたものは外濠の外側です。外濠の外周が前方後円形に見え るのは、城本体の東部に長方形の城下町区画がくっついているからです(一点鎖線の「前方部」はまったくのデタラメです)。
詳しくは「藤枝宿」<http://fujiedajuku.jp/history-2>をご参照ください。重ねて言いますと、完璧な円郭式城郭は本当に珍しく、興味深いです。残念ながら私はまだ行ったことがないのですが、訪れてみたい遺跡のひとつです。