2019.03.04

大河ドラマ「風と雲と虹と」、の巻

CSで1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」総集編の再放送があったので、つい見てしまった。平将門を主人公とした名作。もちろん、「腐りきった都の貴族政治に対抗して、虐げられてきた民衆の代表として雄々しく立ちあがる関東武士」という見方は今となってはナンセンスではあるが、この時代としては一般的な史観であって今の目線で批判するわけにはいくまい。
 しかし、それは別にして、ドラマの出来は良かった。若き加藤剛の将門は飾らない人柄がカッコいい。もうひとりの主役ともいえる、精悍さと人懐っこさを兼ね備えた藤原純友は、緒形拳の名演。ワキを固めるのも、謎の傀儡集団の吉行和子や草刈正雄。クセ者揃いの東国武士団(平国香:佐野浅夫、平良兼:長門勇、平良正:蟹江敬三、源護:西村晃、源扶:峰岸徹)。シブすぎる田原藤太藤原秀郷は露口茂。将門の親友でありライバルであり恋敵であり宿敵となる平貞盛は山口崇がハマり役を見せる。貴族では端正さと傲慢を兼ね備えた藤原忠平を仲谷昇。誠実な能吏でありながら「滅びゆく貴族階級と運命を共にさせてください」と達観する伊予守紀淑人を細川俊之。そして、将門を焚きつける武蔵権守興世王の米倉斉加年の怪演がすごい! 
 女性では、将門の妻良子を演じた真野響子さんの清楚な美しさにも惚れ惚れするのですが、なんといってもブッたまげるのは、吉永小百合さんが将門の恋人の貴子(架空の人物)を演じたこと。貴子は嵯峨天皇の孫という高貴な生まれなのだが、零落して貧困の極にあったところで将門と出会って相思相愛となるのだが、貞盛に無理やり押し倒されて関係を持ってしまい、結局はその恋人となって将門を裏切り、将門が東国に帰るきっかけを作ってしまう。しかし貞盛にも捨てられて人買いに買われて遊女に身を落としてしまい、そこで将門と再会して東国にいざなわれるものの、戦乱に巻き込まれて逃亡する途中で貞盛の軍に捕まり、護送される途中で兵士たちに集団レイプを受けて息絶える、という、なんとも波瀾万丈(ムチャクチャすぎ?)な役回りなのである。
 小百合さんは当時31歳、それまでは可愛い可愛いだけのアイドル的存在だったのが、女性俳優として大きな飛躍を迎えた時期の、自らの殻を打ち破るような挑戦だった。ただ、まだ高校生だった私にはショックが強すぎたぞ。それに、よくも天下のNHKがこういう内容を放送できたものだ。いや、でも、今見直しても小百合さん。この写真のような美しさはさすがに反則でしょ😅。主役すら霞んでしまっているじゃないですか!🥰
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2019.02.01

映画「ヒトラーに屈しなかった国王」、の巻


衛星放送で録画しておいた映画「ヒトラーに屈しなかった国王」を観た。実に興味深かった。ナチ・ドイツの侵略を受けたノルウェーにおいて、降伏と抵抗の狭間で苦悩する国王ホーコン7世の物語。孫とたわむれるのを無上の楽しみとするひとりの老人の肩に、国家の運命がのしかかる。身体を折り曲げて苦悩に耐える国王の姿が悲痛。

ノルウェーにおける立憲君主制の国王のありかたも興味深かった。立憲君主制のもとでは国王は儀礼的な役割しか果たさず、実権は持たない。駅や道で国王とすれ違っても、市民はちょっと帽子に手をかけて敬意を表すだけで、大げさなことはしない。空襲の際、国王は市民と一緒になって転げながら逃げ惑う。しかし、国家の最大危機に臨んで、内閣も議会も右往左往して事実上の機能停止に陥った瞬間、決断を下せるのは国王しかいなくなってしまう。「すべては王様のために」と言う若い兵士に対して、「それは違う。『すべては祖国のために』だ」と諭すホーコン国王の姿が印象的。

史実では、ノルウェーは国王の決断によってドイツに抵抗する途を選び、国土がドイツ軍に蹂躙された後には国王と正統政府はイギリスに逃れて亡命政権を樹立、祖国の解放運動を支援し、やがてのドイツの敗北とともに国民の歓呼に迎えられて復帰する、という流れをたどる。北欧諸国はいずれも独立国とはいえ、いずれも人口数百万の小国で、国力という点ではドイツはその十数倍ないし何十倍であろう。さらにドイツの軍事力はまさに圧倒的で、まともに戦ったら小国には勝ち目はまったくない。
最終的にはドイツの敗北によって結果オーライになったとはいうものの、ノルウェーはこうした経緯の中で多大の犠牲を払うことになってしまったことも事実。すぐにドイツに降伏して、被占領国の「優等生」として認められ、抑圧を受けながらも最低限の自治権だけは保つことができたデンマーク(国王はホーコン7世の兄・クリスチャン10世)。いやいやながらもドイツに最小限の協力をし、裏では連合国にも通じることによって、綱渡りのようなかろうじての「中立」を保つことができ、戦後には「戦勝国」のひとりとして認められたスウェーデン。もうひとつの超大国・ソ連の暴風雨のような圧迫を受け続けたがためにドイツに助けを求めざるをえなくなり、その結果としてソ芬戦争(ソ連・フィンランド戦争)に突入して手痛い打撃を受けたあげくに「敗戦国」の立場に追い込まれて苦汁を嘗めたフィンランド。人口十数万という、ほかの北欧諸国と比べてすら比較にすらならない小国中の小国で、独立国というのは名ばかりで事実上デンマークの自治領にしかすぎなかったものの、宗主国デンマークがドイツに降伏したため、それを奇貨としてイギリスに「占領してもらう」ことができ、それによって国民の悲願であった独立を勝ち取ることができたアイスランド。それぞれの運命は異なっていたが、大国に挟まれた小国の対応として、どれが正解だったかを断じることはできないだろう。

映画でちょっと残念だったのは、ドイツの侵略に呼応して政権を奪取した「獅子身中の虫」、ヴィドクン・クヴィスリングQuislingの出演が声だけだったこと。売国奴の代名詞(英和辞典を引いてみても、「quisling」は「売国奴」である)ともなっているこの男の描かれ方を見てみたかった。公平に見て、彼は恥知らずの野心家でとてもとても尊敬に値するような人物ではなかったことは確かのようだが、小国が生き延びるためには隣の大国にすがるしかないと見切ったこと自体は、ひとつの選択肢としてはありえないことではない。ただこの人物の場合には国家の行く末を憂うという愛国心よりも、自らの野望が上回ってしまい、ひたすらにドイツのご機嫌とりに終始して自己の権力確立に腐心したことが裏目に出た。せっかく尻尾を振り続けたにもかかわらず、結局はドイツの信頼を得ることすらできず、国の実権はドイツの駐ノルウェー総督(国家弁務官)のヨーゼフ・テアボーフェン(この男も非情極まりない冷血漢だった)に握られてしまってクヴィスリング自身はまったく権力の実質からは遠ざけられた傀儡と化す。そして、頼みの綱だったドイツが戦争に敗北するとともに彼は、ノルウェー国民の憎悪を一身に受けて死刑に処せられるという末路をたどってしまう。

お気の毒だったのは、駐ノルウェー・ドイツ公使(大使と訳したほうがいい?)のブロイアー氏。彼は彼なりにノルウェーのことを真剣に心配しながらも、ヒトラーの命令との板挟みになり、ドイツ軍将校には軽く扱われるし、妻には見捨てられかけるし、果ては、必死で説得しようとしたホーコン国王にすら怒鳴られてしまう。憔悴してオスロの大使館に帰ってくると、自分の執務室はドイツ軍に勝手に占拠されていて大使館にすら居場所がないという体たらく。はては、ノルウェー降伏をうまく纏められなかった不手際の責任をとらされたのか、東部戦線に回され、そこでソ連軍の捕虜となり、敗戦後の数年間をソ連で抑留されていたというから、やはり不運だな。

第二次大戦時のノルウェーについては、山川出版社の『世界各国史・北欧史』の旧版(角田文衞先生編)などで最低限の流れだけは承知していた。しかし、ノルウェーの抵抗が単なる「英雄的行為」ではなく、その裏には国王の苦悩と苦渋の選択があったことを知ることができたことで、この映画は非常に面白かった。推奨に値する。

2019.01.15

まち猫ミケが旅立つ、の巻

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 1月15日(火)
 先日からウチでめんどうを見ていた「まち猫」ミケが旅立ちました。推定7歳。
 もともとウチの町内のあたりで生まれた野良猫で、以前は近所の家の人が餌をやったりして可愛がっていましたが、その家が引っ越されて、また別の家で世話してもらっていた。避妊手術もしてもらっていました。ところが3年くらい前から我が家に来るようになり、ご飯をやるようになりました。発泡スチロールの箱を置いておくと冬の寝ぐらにしたり、夏の暑い時には我が家の玄関前で涼んでいたりします。
 こういう野良猫の世話をすることには批判もあることは承知していますが、町内には可愛がってくれる人も多かったので、正式な手続きはできてはいないものの「まち猫」に準ずるような状態だったとは思っています。けっこう警戒心は強いので、ほとんど身体を触らせてはくれないし、どこかの家に閉じ込めて飼われるのは猫にとっても不本意であり、「まち猫」という生活スタイルが会っていたように思います。時々、あげた餌をカラスに横取りされたりしたりしてはいましたが・・・

 ところが、昨年の年末に、しばらく姿が見えなくなりました。どうしたのかな、と思っていたら、路上で衰弱した姿で発見。猫好きの近所の方が救助して病院に連れて行くと、獣医の先生が生きているのが不思議だというほどに腎臓が弱っており、脱水状態と貧血でしばらく入院。ただ、大がかりな治療と毎日の病院通いをやればしばらくの延命はできるかもしれないが、それも余命いくばくというような予想。かといって外に戻すとすぐに死ぬのは確実。病院で安楽死、という手段も提案されたのだが、けっきょく、積極的な延命治療はせずにやすらかに最期を迎えさせてやろうということになり、わが家で引き取ることにしたのです。

 これもご近所さんのご協力でケージを提供していただき、そこに寝床とトイレをしつらえます。そばにオイルファンヒーターを備え付けたので、少なくとも寒さに凍えるということはないはずだし、水とご飯はいつでも食べられるようにしておきます。そうすると、素人目で見る限りではどんどん元気になったようで、食欲も旺盛。一両日で看取るつもりが、この分ではまだまだ生きるような気がしてきました。しかし、やはりそうではないのですね。数日前から次第に動きが鈍くなり、餌も食べなくなってきました。昨晩の真夜中に少しだけ水をやったら飲んでくれたのですが、朝、私たちが目覚めると息をひきとっていました。「家飼い」をしたのはわずか三週間ですが、やはり情が移っているのか、悲しいものでした。ただ、寒風の中の孤独な死ではなく、暖かく、ご飯と水もある環境で送り出せたことは、自己満足かもしれないながら、お互いに良かったと思うことにしております。

2019.01.02

2019年、謹賀新年、の巻

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〈イノシシ年といえば、やっぱり護王神社!〉

 2019年正月
 みなさま、あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろとお世話になりました。イノシシ年生まれの私としては、本年は「年男」となります。今年もお世話になると思いますが、なにとぞよろしくお引き回しくださいませm(_ _)m。

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〈福井県小浜市の岡津製塩遺跡から、小浜湾を隔てて、若狭富士(中央)と大島半島(右側)を望む〉

2018.10.07

ルークありがとう、安らかに、の巻

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 10月1日(月)
 わが家にとって、本当に辛い日になりました。愛犬ルーク、黒いペキニーズが私たちのもとから旅立っていったのです。2007年10月8日生まれですから、あと一週間で11歳になるところでした。
  そもそもペキニーズという犬種はフォーンやホワイトが多く、ルークのような真っ黒というのは珍しい。ただ、もう40年以上前、私のウチでは黒いペキニーズを飼っていて大変可愛がっていた。その思い出があるものですから、私としては黒ペキには大変愛着があったのです。2008年の新年、いつも犬のゴハンを買いに行くペットショップで、妻が、生まれたばかりの黒ペキがいるのに気がつきました。いい飼い主に恵まれるように、と願っていたのですが、なかなか引き取り手が見つからなかったようで、いつまでたってもそこにいます。そのうち妻が「ウチで飼おう!」といいだしたのですが、すでにウチにはマックとクイールという2匹のペキニーズがいるので、私としてはもう1匹増えると世話しきれるかな、と不安で、なかなか決断できませんでした。しかも、悪性のカゼにやられて難儀したり、またヴェトナムの調査行きが迫っていてその準備に追われていたので、とても新しい犬のことまで頭が回りません。それでも妻があまりにヤイヤイ言うので、「僕がヴェトナムから帰ってきて、それでもまだ飼い主が見つかっていたかったならば、ウチに迎えよう」と言いました。内心ではその間にどこか良い飼い主が現れることを願っていたのですが、実際に帰国してみると、相変わらずそこにいたのです。これはもう「縁」かなぁと思って、やっと私も決断し、2008年3月11日にわが家に迎えたのです
 「末っ子」となったルークは、どうも躾がうまくいかなかったのか、とうとうオシッコの場所を覚えることができません(長男のマックはなんとか覚えた。次男のクイールは不思議なことに生まれつきオシッコ場所を感知して躾すらいらなかった)。ちょっと油断すると家の中に水たまりができていて、そのたびごとに怒ったり慌てたりしてのバタバタが続きました。そういう難儀なことはありましたし、私たちも犬の世話に追われながらも、賑やかな三匹のペキニーズたちがじゃれあう姿に和み、心穏やかな日々を送ることができました。犬たちに感謝してもしきれません。

 しかし、 2014年5月18日にマックが昨年9月4日にクイールが虹の橋をわたっていきました。ルークも10歳ともなりますと真っ黒の顔の中に白いものが目立ってき、お兄ちゃんたちの姿が見えなくなったことに寂しそうでしたが、まだまだ元気で走り回っていました。

 ルークの様子が急変したのが9月30日(日)です。朝に呼吸がゲホゲホし、ゴハンもまったく食べなかったので心配になったのですが、あいにく日曜日でお医者さんは休み。明日にはお医者さんに連れて行こう、と思ったのですが、夜にはいる頃からどんどん呼吸がおかしくなります。これは待てないと判断して、看てくれる動物病院を探したのですが、ようやく見つけたひとつは予約でいっぱい、上鳥羽にある京都夜間動物救急センターは運の悪いことに台風で臨時休業。さらに大荒れの台風で、外に出ると不意の落下物で二次被害を受けそうな状況です。
 深夜、やっと風が下火になったので、最後の頼みの綱である京都夜間動物診療所(旧称:南京都夜間動物診療所)に行くことにしました。ただ、この病院は久御山なので、私の家からは車で約1時間かかります。祈るような気持ちでやっと着いたのですが、検査の結果の診断は急性肺炎。それから薬の注射と点滴、そして高濃度の酸素を供給できるICUに入院ということなったのですが、ここは夜間の救急が専門(夜間の緊急疾患に対応し翌日に主治医の先生のところに移すまでの繋ぎのための診療所)でそれ以上の入院はできないため、翌朝に主治医のもとに移すという段取りになりました。ただ、酸素室に入れると、それまではうって変わったように呼吸が楽になり、いつものキョトンとした表情を見せるようになったので、私たちも安堵して一旦帰宅します。翌朝、私は自分の病院の定期検査の受診があるので迎えにいくことができず、妻が久御山に向かいました。しかし、病院の話では深夜にまたルークは容体は悪くなったとのことで、急いで主治医の先生の病院に運ぼうとしたのですが、帰路の車中でルークは息をひきとってしまいました。泣きながら電話をかけてきた妻に、私は掛ける言葉がありませんでした。

 上の2匹が14歳まで生きてくれましたので、私はなんとなく、あと数年はルークと一緒に暮らせると信じ込んでいました。また、上の2匹と同様に最後の半年くらいは「介護」の日々になるのだろうが充分に世話をしてやろうと決めていました。しかし、そうした心づもりはまったく外れてしまいました。こんなに早く別れがくるとは思いませんでした。ただ、ルークとしては、旅立ちの時に大好きなママが側にいてくれたというのは、慰めだったのではないかと思っています。
 この18年間、私たちの生活は常に犬たちと一緒でした。それが終わってしまい、いまは茫然自失、わが家は火が消えたような状態の日が続いています。今でも、扉の向こうから犬たちが人懐っこい顔を見せるような気がします。夜、そろそろ犬の散歩に行かなくちゃならないな、と思って腰を上げかけたものの、あ、もうそれはないんだと気がついてヘタリ込むということも続いてます。私たちも、自分の歳を考えると、幼犬を引き取ってきて最期まで看取るということは、もうないでしょう。
 ルーク、ありがとう。私たちはお前がいてくれたので幸せな日々を送ることができました。天国では2匹のお兄ちゃん犬と再会して、また遊んでもらってください。私たちもお前のことを忘れません。ルーク、本当にありがとう。

2018.08.18

映画「ゲッベルスと私」、の巻

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予告編

 8月17日(金)
 新聞を眺めていて、映画「ゲッベルスと私」の京都公開が開催中なのを思い出した。このあいだ東京に言った時に、神田神保町の岩波ホールに大きな看板が掲げられてるのを見て、へぇ、こんな映画があるんだ、と興味を惹かれたものである。ただ、東京ではとてもとても時間がなく、見ることはできなかった。データは次の通り。
原題:A German Life
監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、オーラフ・S・ミュラー、ローラント・シュロットホーファー
脚本:フロリアン・ヴァイゲンザマー
製作年:2016年
製作国:オーストリア
 
 チラシの宣伝文句では「ナチス宣伝大臣ゲッベルスの秘書、ブルンヒルデ・ポムゼル103歳。彼女の発言は、20世紀最大の戦争の記憶を呼び起こす」。「なにも知らなかった/私に罪はない」。どんな凄いドキュメンタリーなのだろうか、と思い、期待しながら映画館に足を運んだ。主役のブルンヒルデ・ポムゼルという老婦人、撮影当時103歳で、映画の公開直後の2017年1月27日に106歳で没した人だという。100歳を超えているとは信じられないくらい、頭も言葉も明晰で、このこと自体は驚嘆に値する。シワだらけの風貌はさすがにお年であるのは当然(ただ、ライティングとモノクロの高解度映像によって、シワの一本一本をワザと強調しているのはちょっとお気の毒な感じ)。
 この映画には、ブルンヒルデ・ポムゼル、トーレ・D. ハンゼン『ゲッベルスと私─ナチ宣伝相秘書の独白』(石田勇治監修、森内薫・赤坂桃子訳、東京、紀伊国屋書店、2018年)という、同時進行で作られた「双子」にあたる本があるらしく、映画を真に理解するためには本も読んでおかねばならないのかもしれない。しかし私はこの本は読んでいない。だから軽々な批評は慎むべきかもしれないが、とりあえずは映画だけの感想はいってもいいだろう。

 申し訳ないのであるが、正直言ってこの映画、私には期待はずれだった。老婦人の延々とした独白につきあうのには、眠気をふりはらいつつ、かなりの忍耐力がいったことは白状しておかねばならない。要はこの邦題「ゲッベルスと私」が誤解のもとだ。原題の"A German Life(あるドイツ人の生涯)"のほうがよほど内容に即しており、そのままであるならば文句をつける筋合いはない。しかし、それでは話題性がないということで、えらく風呂敷を広げてしまった邦題をつけたのが間違い、ということになる。

 主役のブルンヒルデさん、「ゲッベルスの秘書」だとされており、そのこと自体はウソではないのだろう。しかしその語感からは、ヒトラーの秘書であったトラウドゥル・ユンゲのような立場を想像してしまう。トラウドゥルはヒトラーのもっとも身近に仕えていた数少ない人物のひとりであり、しかも最後の土壇場の総統地下壕でのヒトラーの自殺のすぐ側にいた、まぎれもない「歴史の生き証人」であった。だからブルンヒルデさんも国民啓蒙宣伝大臣としてのゲッベルスの側近として彼の行動の逐一の貴重な証人のように期待してしまうのであるが、これが大きな誤り。映画を見る限り、彼女は国民啓蒙宣伝省の職員ではあったが、大臣官房にたくさん配置されていた秘書たちの中のワン・オヴ・ゼムにすぎず、究極の上司であるゲッベルスの姿を眺めていたことはあったとしても、直接に命令を受けたり、親しく話をしたり、ましてや機密事項にかかわるような立場にはなかったようである。その点で、ブルンヒルデからいままで語られなかったゲッベルスとナチ・ドイツの裏面を知ることができるという期待は見事に裏切られるのである。

 最大のネックは、ドイツの中央官庁のひとつに勤務しながら、ブルンヒルデが政治にはまったく興味を持っていなかったところにある。彼女の関心は、待遇と居心地がよい職場に勤めて高い給料をもらい、自分の社会的ステイタスを高めるということ以外にはなかった。その点では国民啓蒙宣伝省は彼女にとっては望外ともいえる理想的な職場なのであった。彼女は自分の仕事を完璧にこなすことに誇りを持っていたが、かといって自分の所属する国民啓蒙宣伝省とドイツ政府がどんな悲惨な現実を引き起こしていたかまで想像をめぐらすことはなかった。だからこそ、上司であるゲッベルス大臣がおこなった1943年2月18日のいわゆる「総力戦演説」(ゲッベルスの演説の最高傑作とされている)の場にいあわせながら、演説の内容すらきちんとは理解することができず、ただ「聴衆たちはなぜこんなに熱狂しているのだろう? ゲッベルスはどういうマジックで聴衆をこんな興奮に叩き込むことができるのだろう?」とノンキなことしか考えておらず、側にいた親衛隊員から「拍手くらいしなさいよ」と呆れられる始末だった。それは彼女の冷静さなどではなく、国の行く末などにはとんと無関心な彼女の視野の狭さによるものだったのは明らかである。

 もちろん、だからといって100歳を超えた彼女の証言に意味がないわけではない。どこにでもいる平凡な人物が、思いがけずも歴史の惨劇の中に放り込まれて辛酸を舐めた経験として、記録にとどめておく価値は確かにある。もっと多くを語ってほしかったのは〈もしかすると本には書かれているのかもしれないが・・・〉、ヒトラーとゲッベルスの自殺を受けて、最後まで仕事を続けていた宣伝省が機能を停止するところ。ブルンヒルデさん、最後の土壇場まで職場に止まっていたのだな。宣伝省に残っていた最後の幹部であったハンス・フリッチェ(宣伝省ラジオ放送局長。戦後、ニュルンベルク裁判に主要戦犯のひとりとして起訴されるが、無罪となる)の詳しい動静など、もっといろいろ興味深い場面があったはずだ。

 あと、さすがにブルンヒルデさんの独り語りだけでは場がもたないと判断されたのか、いろんな映像が挿入される。ただそれらの多くはドイツの、アメリカの、ポーランドのプロパガンダ映像の断片であることは、かえって観客を真実から遠ざけているような気がする。一部には目を覆いたくなるような強制収用所の悲惨な映像もあるのだが、これも断片的にすぎる上に、ワザと説明が省かれているので、撮影にいたった背景を理解することが難しい。ゲッベルスの総力戦演説も、映像が残っているはずなのに、どういうわけかここだけは音声だけ。もうちょっとなんとかならなかったのかな、という感じはする。

2018.01.03

2018年新年、の巻

Img_2591(← 今年の初詣は下鴨神社〈賀茂御祖神社〉)

 みなさま、あけましておめでとうございます。旧年中はさまざまな分野でお世話になりました。今年は、焦らず、マイペースで、しかも着実に、いろいろなことに取り組んでいきたいと思っております。よろしくお願いいたします。

2017.10.20

10月22日総選挙

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「東京藝大のShall We 選挙?ポスターアクション」より。
良いポスターです。感激ものです。

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久しぶりに、本当に久しぶりに、政治家からまともな言葉を聞いた、そんな思いです。こういう瞬間を、どれほど待ったことだったろう。言わねばならないことが、最も正しい言葉で語られる、それはこんなにも美しいものだったのです。

選挙に行こう!!!

2017.09.06

愛犬クイール、ありがとう、の巻

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 9月4日午後8時45分、わが家の愛犬クイールが虹の橋を渡っていきました。2003年5月20日生まれですから、14歳と3ヶ月の生涯でした。
 クイールがわが家に来たのは、2003年の7月でした。いつものように愛犬マックのゴハンを買いにいったペットショップに、生まれたばかりの小さな小さなペキニーズがいたのです。ペキニーズはマックのようにフォーン(茶色)かまたは白色であることが多いのですが、これはブラック&ホワイト。まるでパンダの子供のようで、本当にこの世のものとは思えないような可愛さで、私たちは一目惚れしてしまったのです。わが家に迎え入れても、小さな身体でちょこちょこと歩き回る姿が愛らしかった。
 名前をなんとつけようと悩みました。当時、「盲導犬クイールの一生」というのが世間の話題をさらっていました。別にわが家の犬は盲導犬でもないし「クイール(鳥のはね)」の模様もないのですが、盲導犬クイールのような賢い犬に育ってくれることを祈って、その名前をもらったのです。
 それから14年、お兄ちゃん犬のマックと、あとで迎えた弟犬のルークと、3匹のペキニーズでわが家は大変賑やかでした。マックはどうもクイールにライバル心を抱いていて、自分のほうが上だということをわからせることにやっきになっていたようです。ルークはクイールと年齢が近いこともあって大変仲が良く、よく、くんずほぐれつしてじゃれあっていました。
 ただ、どういうわけか、クイールは私よりも妻が好きで、私にはあんまり懐かなかった。クイールは私に抱き上げられたり身体(特に尻尾)を触られるのがイヤで、そのたびに唸り声をあげていました。幼い時、私が急に抱き上げたのにビックリしたのがトラウマになっているんだというのが妻の説なのですが、このあたりの真相はわかりません。でも、私が帰宅した時など、全身で喜びをあらわしながらすり寄ってきてくれるのは、やはり大事な家族だったことを実感させます。同じペキニーズといっても、マックの毛はフカフカなのに対して、クイールの毛はまるでシルクのような柔らかい手触りで、私はこの毛を撫でるのが大好きでした。

 しかし、今年の夏にはいるくらいから、クイールは急激に老化してきたのが見ただけでわかりました。だんだん自分の足で立てなくなり、大好きな散歩もなかなか行くことができなくなります。やむをえないので、犬用のハーネス(胴輪)を装着して持ち上げるような形で歩かせてきたのですが、今月にはいってからはついにそれもままならなくなりました。最初は食欲だけはあったのですが、次第にいつものドッグフードを食べなくなってしまいます。あれやこれやと好きな食べ物を与えると、その日は食べてくれるのですが、それもだんだんと拒否してしまいます。動物は、自分の口でモノを食べられなくなるとヤバイと思います。やむをえないので、缶詰のドッグフードなどをすり鉢で丁寧にすりつぶした流動食を作って、犬用のシリンジ(注射器というかスポイトみたいなもの)でゆっくりゆっくりと口にいれてやるのが私の日課となりました。しかし、最期にはそれも受け付けなくなったようです。
 9月4日、あいにく私は出張に出ていたのですが、その日の夜に妻からメールがきました。今、私の胸でクイールが息をひきとった、とのことでした。もう1日待っていてほしかったというのは確かなのですが、しかたありません。翌日の夕刻、帰宅した私をクイールは無言で迎えてくれました。今までの14年間が走馬灯のように頭を駆け巡り、涙がとめどなく出て止まりませんでした。

 クイール、14年間、いろんなことがあったね。キミのことを愛してたよ。いまごろは虹の橋の向こうでマック兄ちゃんと再会しているよね。クイール、ウチに来てくれてありがとう。本当にありがとう。クイール、どうか安らかに。

2017.08.16

お盆、の巻

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 8月16日(水)
 お盆も終わり。雨やなんやで行けていなかったお墓参り、やっと行く。そのあとは京都国立博物館にお邪魔して、特集展示「大政奉還150年記念 鳥羽伏見の戦い」と、特集展示「京都水族館連携企画 京博すいぞくかん ─どんなおさかないるのかな?」を見学。「瓦版 淀の川瀬」は淀城の水車が堂々たる菊の御紋(天皇)になっており、そこに十文字の井桁(薩摩島津)がぶらさがっており、その横を葵の御紋(徳川)が逃げていくという面白い図像。「瓦版 相撲取組」も、長州毛利の家紋の顔の相撲取りが葵の御紋の相撲取りを投げ飛ばしているという図。新政府による宣伝ビラであるところが面白い。

 夜は、大文字の送り火。犬2匹を連れて自転車で出かけて、しめやかに手をあわせる。写真は、上長者町の西洞院あたりから望んだ大文字。左側の民家のあたりが、安部晴明の邸宅跡にあたる。

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