2009.06.29

北海道・網走、の巻

 090628〔上:常呂遺跡、下:ホンモノのツブ貝の寿司〕
 6月26日(金)・27日(土)
 珍しく、北海道行き。網走市の東京農業大学オホーツクキャンパスでおこなわれる全国大学博物館学講座協議会の大会に出席のためである。
 白状すると、これまで、ほとんど北海道と縁がなかった。その地を訪れたことがあるのも、かなり以前に友人の結婚式で札幌・小樽に行っただけなのであり、今回の訪問で僅か2回目、ということになる。だいたい、飛行機が嫌いなので、ストレス無く鉄道で行ける範囲を超えてしまうところには、どうしても足が向かない、ということになるのである。でも、今回はどうしても行かなくてはならないことになった。
 最初は金曜日の早朝に出発すれば良いと早合点していたのであるが、調べてみると、大阪発で女満別空港に着く飛行機は午後の便しかない。昼前に会場に到着するには、羽田発の7時55分という飛行機しかないのである。これはしかたない。木曜日の授業が終わってから夜に東京に入り、羽田で一泊して飛行機に乗り込むしかない。いやはや、めんどくさいことである。

 金曜日午前、東京農業大学着。市街地から離れた丘の上のキャンパスである。周囲を見渡すと、のたのたのたのたと低い丘が連なり、その間は広大な畑地が広がる。なんとなく日本離れした風景で、以前に見たイングランドの風景を思い出す。11時、事前打ち合わせ会に出席。13時、会議開始。ここで私は、総会の議長を務めねばならない。実は、来年度のこの大会をわが大学で引き受けることになってしまっている。会の副委員長と総会議長は次年度大会開催校が担当する、という義務があるのである。どちらにしても、来年のことを考えると大会の運営の隅々まで見せておいていただいた方が良い。
 報告会では、「網走地域の博物館の現状と課題」ということで、地元の網走市立美術館美幌博物館上湧別町ふるさと館の事例を聞かせていただく。いずれも小規模な博物館であるが、地域に密着した旺盛な活動を続けておられるところが印象的であった。続いて「博物館法省令改訂について」を文化庁美術学芸課長(前・文部科学省生涯学習政策局社会教育課)の栗原祐司氏が話される。2年後から、博物館学芸員課程のカリキュラムが大きく変わる。これは博物館学芸員課程を置いている大学にとって死活的ともいえる大問題なのであるから、詳しく聞いておかねばならない。実は6月29日に文部科学省の説明会が実施されるのであるが、栗原氏はこの改訂を主導した中心的な人物であるので、そちらから話を聞けるのはこの上なく貴重な機会である。
 大会のあとは、網走市内のホテルに会場を移しての情報交換会。みんな、タラバガニに群がる。次年度開催校としての挨拶もさせられてしまう。終了後は、全博協西日本部会長のH大学のYT教授らのおともをして、二次会。

 土曜日、せっかくだからちょっとだけ早く起きて、ホテルの近くの有名遺跡・モヨロ貝塚へと足を伸ばす。
 見学研修会は3コースが用意されるが、私は「常呂コース」に参加。網走市立郷土博物館北海道立北方民族博物館ところ遺跡の森(国指定史跡常呂遺跡)(ところ遺跡の館、ところ埋蔵文化財センター「どきどき」 、東京大学文学部常呂資料陳列館)を見せていただく。網走市立郷土博物館は地味で素朴な展示だが、正直いうと、こういう昔ながらの博物館のほうが心が和む。北海道立北方民族博物館、これは素晴らしい。北海道だけにとどまらず、ロシア、カナダ、アラスカなどをも含めた国際的規模で資料が収集され、みごとな展示が形作られている。この博物館なら、何時間いても飽きないだろうな。また機会を作って、じっくりと訪問することにしよう。
 常呂遺跡(写真)は東大の調査で有名だから名前だけは知っていたが、その中身については、まったく勉強不足であった。行ってみて驚愕。さすがは世界文化遺産への登録を目指すというだけある。数千件の竪穴住居跡が累々と分布する巨大遺跡である。冬になると竪穴住居跡だけに雪が残って面白い写真が撮れるというのも、初めて納得する。東京大学が現地に研究施設を建てて継続的な調査研究にとりくんでいるというのもうらやましい限りである。資料館の中には、オホーツク文化、擦文文化と並んで、トビニタイ文化の土器が並んでいる。つい先般、わが大学の同僚の大西秀之准教授が『トビニタイ文化からのアイヌ文化史』という著書を出されたので、それで名前だけは知っていた。ふむふむ、なるほど、これがその実物か、と、ひとりで頷く。

 充実した1日をすごしたあと、女満別空港へ帰着。お土産を買っていて、ふと空港内の寿司屋を覗くと、O大学のMK教授が生ビールを傾けているのを発見。ご一緒させていただくことにして、本場ならではのホンモノ(?)のツブ貝の寿司(写真)を頬張る。

 6月20日(土)
 花園大学考古学研究室の大会。刊行されたばかりの、花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』をいただく。私が花園大学考古学研究室に在籍したのは1999年度から2006年度までの8年間であるが、その間に考古学研究室創設20周年を迎え、その記念として2001年に『花園大学考古学研究論叢』を刊行したことであった。今回、研究室の30周年をむかえて「II」が刊行されたのである。私の後任の高橋克壽准教授の御指導のもと、花園大学考古学研究室がますます発展していることを目の当たりにし、嬉しい気持ちでいっぱいである。

【書いたもの】
◎「『文久の修陵』による天皇陵改造」(花園大学考古学研究室30周年記念論集『花園大学考古学研究論叢II』所収、京都、花園大学考古学研究室30周年記念論集刊行会、2009年3月)201〜211頁。
◎「平安京の空間構造」(舘野和己編『古代都城のかたち』〈同成社古代史選書3〉所収、東京、同成社、2009年6月)、51〜73頁。
【テレビ番組監修】
●山田邦和監修「THE 世界遺産 第55回『日本の古都スペシャルII 古都京都の文化財』」(毎日放送〈TBS〉テレビ、2009年4月26日放送)。

2009.06.22

山中博士に怒られる、の巻

090622〈←待賢門院建立の法金剛院では、今、アジサイの花がまっさかり〉
 6月22日(月)
 ありゃりゃ・・ 山中章博士に怒られてしまったぞ。いつもは山中博士が過激なことを言い、それを私が右往左往しながら宥めるというのが役回りなのに、今回はどうしたことなのだろうか?

 これは、6月3日の「日本考古学協会2009年度総会」の条で、春成秀爾氏らの研究グループがおこなった「放射性炭素年代測定法の新研究によると箸墓古墳は卑弥呼の墓である」との研究発表に対して述べたところです。確かに、ついつい冷静さを欠いた表現をしてしまったかもしれず、それが博士の逆鱗に触れることになったのかもしれません。
 はっきりさせておきたいのは、私は、情報は専門家の間だけでまわしていって、一般の市民の方々やマスコミから隠すべきだ、なんてことはひとことも言っていませんし、考えもしていません。むしろ、情報はどんどん公開して幅広い議論をまきおこしていったら良いと思っています。それは「もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない」と書いたとおりです。その点では山中博士とまったく同意見なのです。ただ、今回、考古学協会当局に対して申し上げたのは、事前にマスコミに流れるという予想外の事態がおこったことで、会場が満杯になって聞きたくても聞けない人がでる可能性がある(事実、以前の「弥生時代の実年代の放射性炭素年代測定法」の時には聞けない人がいっぱい出た)。それへの対処をお願いしたのです。聞きたい人が聞けるようにしてほしい、というのは間違っているとは思いません。その結果、当局の機敏な判断によって会場が変更され、みんなが聞けるようになった。このこと自体はまことに結構なことだと思っています。

 たしかに私は、「マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない」と過激なことを言ってしまったのは確かです。春成氏らの研究グループに対して失礼な物言いだと感じられる方がおられたのならば、そのことはお詫びしなくてはならないと思います。また、山中博士がおっしゃる通り、学界とマスコミがお互いに利用しあっているという側面も否定することはできません。

 ただ、私が危惧するのは、一方の学説だけをマスコミが囃し立てることによって、自由な論議が妨げられるということがありうる、ということなのです。例の「前期旧石器遺跡捏造事件」の時には、日本における旧石器時代の開始の年代がどんどん遡るという一方的な「発見」だけがどんどんマスコミに流れていきました。あとでよく考えてみるとそこにはまるで学問的な検証がなされていなかったり、学界の一部では反論が提起されるところもあったのですが、それはほとんどとりあげられることはなく、「日本旧石器時代の開始は○○万年前にさかのぼる!」「日本の旧石器時代人は高度な精神生活をおくっていた!」などというところばかりがぶち上げられ、高名な学者もそれを大々的にとりあげて一般向けの書物などで紹介したりして、いつしかそれが「通説」となったような気にさせられていったのです。私たちはあの苦い経験をくりかえしてはなりません。

 研究者とマスコミの関係というのは、いわば「両刃の剣」だと思います。使い方によっては善くもなるし、また、まちがった使い方をしてしまうと社会全体に悪影響を与えることにもなりかねません。何が良い使い方で何がまちがった使い方かの基準がどこにあるかは難しいし、私にもうまく言えないのですが、「邪心」の有無、というところになるのではないかと思います。マスコミを使って自分の学説を有利にしようとか、自分の利益を計ろうとか、これによって自分が名声を得ようなどというのは、「邪心」の最たるものでしょう。研究者たるもの、自らの心に絶えずこうした無言の問いかけをしなくてはならないと思います。

 今回の春成氏らの研究グループの報告を聞いて私が目を剥いたのは、「炭素14年代は平均値を記載する」(『日本考古学協会第75回総会研究発表要旨』)とされていたところです。これは明らかにマズい。私はもちろん科学分析の専門家ではないので詳しい知識はないのですが、炭素14年代はどんなに精度があがっても誤差ゼロというところには行き着きません。炭素14年代には必ず、±何年、という幅がつきます。そして、国際的には炭素14年代のプラスマイナスは1σであらわすことが約束事になっています。たとえば、「B.P.1900±50」というような記載法です。しかしそれを「平均値を記載」ということで「B.P.1900」としてしまうことは明らかにルール違反です。グラフには表示してあるといっても、それは免罪符にはならないでしょう。それに、「B.P.1900±50」とは、B.P.1950からB.P.1850(わかりやすくするために西暦に直訳すると、紀元元年〜紀元100年)の間におさまる確率が68.3パーセントということをあらわしており、あとの31.7パーセントはその範囲から逸脱することも充分にありえるのです。さらに、「B.P.1900±50」とは西暦紀元50年である確率が一番高く、西暦紀元元年や紀元100年である確率は低い、というものではありません。「B.P.1900±50」は、西暦紀元元年である確率と紀元50年である確率と100年である確率はまったく同じなのです。この点でも、「平均値を記載」というのはまったく誤ったやりかたなのです。
 こんなことは、理科系の頭を持っていない私ですら知っているくらいの炭素14年代測定法の初歩の初歩ですから、春成氏らのグループという専門家集団がそれを知らないはずはありません。知っていてそれでもあえて「平均値を記載する」というのは確信犯としかいいようがないのであり、と、いうことは、ここには何かの「邪心」を感じざるをえない。そう考えたからこそ、ついつい(私らしからぬ?)厳しい口調になってしまったのです。
 なお、春成氏らのグループの方法は、一見完璧見えても実はあちらこちらで危うい部分を持っており、それは考古学協会当日に座長をつとめられた(こう書いてしまうと、実名がバレバレですね・・(・∀・))flyingmqn氏のブログに詳しいので、そちらに譲らせてください。そうした危うさを持ちながら、「箸墓古墳は卑弥呼の墓であった」と結論づけるのは、やはりかなりの飛躍だと思います。

 もうひとつ大事なのは、マスコミ側と研究者側の間の、ある種の緊張感でしょう。マスコミも、ある研究者のいうことを鵜呑みにしてその成果だけを一方的にとりあげるのではなく、それへの反論も同じくらいの比重でとりあげて欲しいと思います。マスコミは特定の研究者のタイコ持ちなのではなく、公正な議論のための素材を社会に提供する使命があるのですから。この炭素14年代測定法についても、田中良之氏(九州大学)らの研究グループの弥生時代の人骨の研究では、春成氏らのグループの成果とはかなり違った測定値がでているはずです。どちらが正しいのかは私には判断はつきませんが、少なくともそうした成果が公表されている以上、マスコミも春成氏グループだけでなく、そちらにもスポットをあてて公平な情報を出してほしいのです。

 ついでに言っておくと、こうした研究成果にマスコミが「歴博の研究で〜〜ということが判明した」という言い方をするのは、なんとかならないのでしょうかね。もちろん歴博という組織に属する研究者が組織の金と設備を使って出す研究ではあるのですが、研究をするのはあくまで個々の研究者であるはずです。たとえば、私が出す研究成果は、たとえ同志社女子大学の研究費を使っていても、「山田という研究者の成果」なのであって、「同志社女子大学の研究成果」とはちょっと違うと思います。「歴博の研究成果」とされてしまうと、マスコミ報道を聞いた一般の市民の方々に、「そうか、『国立』『権威ある』研究機関が『最新の科学的方法』によって研究し、日本考古学協会という『日本を代表する』考古学の学会で発表されたのだから、これが定説になったのだ」などという誤解をあたえないとも限りません。

 「邪心」をゼロにすることは、私も含め生身の人間にはむつかしいのかもしれない。しかし、私たちは絶えず自分の良心に問いかけ、自戒し続けなくてはならない、と痛感いたします。

2009.06.15

文化財保存全国協議会第40回記念京都大会、の巻

090605〈←宇治平等院「鳳凰堂」。やっぱり、実にうつくしい〉
 6月12日(土)〜13日(日)
 同志社大学において、文化財保存全国協議会(文全協)の第40回記念京都大会。文全協は、大阪府堺市いたすけ古墳の保存運動に端を発し、全国的な文化財保存の中核として活発な活動を続けてきた団体で、今年で創設40周年となる。その記念すべき年の大会を京都でおこなうことになったのである。
 それは大変結構なことなのであるが、どうしたわけか私は今回大会の実行委員会の「事務局長」を仰せつかってしまった!!(゚ロ゚屮)屮。私のように計算に弱く、仕事もいいかげんな人間にこんな大役をまかせるというのは、いったいぜんたいどうなってるんだろうか? しかも、報告もせねばならない、というのだから大変である。
 土曜日は見学会。「宇治の遺跡と文化財」ということで、宇治市の文化財調査と保存の中核をになってこられたSH氏にご案内いただく。最後の最後まで参加人数が確定できなかったのであるが、結局は50人弱の大所帯での移動となった。京阪宇治駅から太閤堤跡、橋寺放生院、宇治上神社、塔の島の十三重石塔を見て、宇治川側で食事。そのあとは平等院とその博物館である鳳翔館(寺院のミュージアムとしては超一級の存在である)、山本宣治墓、県神社と見て、宇治橋に帰ってくる。ちょっと蒸し暑いのが閉口であるが、SH氏の熱のこもった解説と、裏方を努めてくださった実行委員会のHK氏の的確な配慮で、無事に済む。それにしても、宇治市は歴史的遺産を充分に活かした魅力的な町づくりにとりくんでいることがよくわかる。
 そのあとは、同志社大学寒梅館で懇親会。
 日曜日にはいよいよ本番。九時スタートなので、40分前に会場入りして、段取りにかかる。とはいっても、手伝いの同志社大学考古学研究室の学生諸君がテキパキと動いてくれる。これなら安心。
 私はトップバッター(前座?)での登壇。基調報告1「都市遺跡としての京都」。京都の史跡・文化財保存の現状と問題点を紹介する。こうしたテーマでは史跡公園にばかり目がいくが、石碑や説明板の建立による史跡顕彰事業の大事さを力説。もちろん、「平安京検非違使庁址」の石碑を紹介することも忘れない。さらに、京都のような大都市では広面積の遺跡保存はほとんど不可能であるから、むしろ「点」を増やしていくこと、そして、その点同士のネットワーク作り、史跡を知ることのできる拠点施設(博物館など)の建設、それを中核とした町づくりをしていくことが大事だということを述べる。要は、史跡・文化財の保存・活用とは、すなわち町づくりに他ならない、ということなのである。こういう視点で京都の史跡の話をするのはちょっと珍しいのかもしれず、参加者の皆さんにはけっこう好意的に受け止められたとおもう。
 今回は、私のものを含めて合計10本の報告がおこなわれた。いずれも的確で面白い発表で、本当に勉強になった。事務局役はいささかしんどかったが、良い会になって、良かった良かったo(*^▽^*)o。

【書いたもの】
◎「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会編『文化財保存全国協議会第40回記念京都大会 都市遺跡の調査と保存・活用・整備 予稿集』所収、〈大阪〉、文化財保存全国協議会、2009年6月)、1〜5頁。
【しゃべったこと】
○「都市遺跡としての京都」(文化財保存全国協議会・文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会〈主催〉「文化財保存全国協議会第40回記念京都大会〜都市遺跡の調査と保存・活用・整備」
、於同志社大学明徳館、2009年6月14日)。
【社会活動】
▼文化財保存全国協議会第40回記念京都大会実行委員会事務局長

2009.06.03

日本考古学協会2009年度総会、の巻

090603(左:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のあるビル。右:日本考古学協会総会)
 5月29日(金)〜31日(日)
 東京・早稲田大学において、日本考古学協会の総会。
 金曜日、東京着。ほんの少し時間があるので、どこに寄り道しようかと迷った。いつものように神田神保町の古書店街、という手はあるのだが、急に、新宿にあるダライ・ラマ法王日本代表部事務所を訪ねてみたい!、と思った。ここはチベット亡命政府の在日本大使館ともいえる存在であるし、予約もなしに行ってはマズいかな、という不安はあった。しかし、私はチベットハウス(同事務所文化部)の会員であるし、ささやかではあるが、チベットの皆さんを援助するためのブルー・ブック・プロジェクトの参加者でもある。少なくとも、同事務所の図書室は一般公開しているはずだから、まかりまちがっても図書室を見ることくらいはできるハズである。
 と、いうことで訪れたダライ・ラマ法王日本代表部事務所。新宿三丁目駅から徒歩数分の小さなビルの中にある小さな事務所である。エレベーターを降りると、ちょうど、若いボランティアの女性が出てくるところに行き当たった。来意を告げると中に案内してくれて、ツェワン・ギャルポ・アリヤ経理・広報担当官に引き合わせてくれ、同担当官から話を聞かせてもらうことができる。さらに、ラクパ・ツォコ代表(要するに、中央チベット行政府〈チベット亡命政府〉の「日本駐在大使」)にも挨拶することができた。ありがたいことであった。これからもチベットのサポーターであり続けたいということを伝え、わずかではあるがブルー・ブックに寄付金を納めて事務所を辞する。

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 午後は、日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会。今回は、結構たくさんのメンバーが集まっている。終了後は、やっぱり呑み会(*゚ー゚*)。

 土曜日は、いよいよ本番の総会である。今回の総会は大切なものである。と、いうのは、いままでの日本考古学協会は「有限責任中間法人」であったが、法律改訂によってそれを「一般社団法人」に変更することを議決しなくてはならない。しかし、そのためには会員(約4,000名)の三分の二の出席(含委任状)が必要となり、理事会の皆さんはその確認に大変だったようである。皆さんのご努力もあって総会は成立するにいたり、これは御同慶のいたりであった。本日をもってめでたく、「一般社団法人日本考古学協会」が誕生したのである。

 ただ、今回の総会では、私も言っておきたいことがあった。挙手をしての発言は勇気がいるし、限られた時間を消費することで顰蹙を買うことになるだろうが、それはいたしかたない。少なくとも、私の主張を記録にとどめてもらうことが必要だと思ったのである。
 それはこういうことである。理科系の学会には、そこが発行する学術雑誌に論文を掲載する際に、「論文の著者は論文の著作権を学会に譲り渡さなくてはならない」という規定を持つところが多い。それが徐々に文科系の学会にも波及してきた。と、いうのも、最近では学術雑誌を電子アーカイブにしてインターネットに公開することが流行っており、そのためには学会が著作権を持っていた方がはるかにやりやすいからである。もちろん、電子アーカイブ化自体は大変結構なことであるから進めればよい。しかし、そのための著作権の扱いについては、また別の方策があるはずである。少なくとも、著作権に疎い理科系は知らず、文科系にはこうしたやりかたは馴染まない。なぜならば、文科系の研究者にとって、自らの著作の著作権は研究者としての「生命」に等しい価値を持っているからである。
 したがって、私は、少なくとも私の関係している学会については、学会が著者の著作権を奪い取るという「暴挙」を許すわけにはいかないと決意しているのである。日本考古学協会ではまだそこまでは至っていないのであるが、最近、その方向への危惧が現れ出た。これは、流れができる前に先手を打っておかねばならないであろう。そこで発言を求め、以上のことを述べた。会員の皆さんに私の真意が伝わったかどうかはわからないが、すくなくとも記録にはとどめていただいたハズであり、その点では私の希望はかなえられたことになる。

 しかし、私の発言で時間を喰ったことは確かであるし、その点では理事の皆さんには申し訳ないことをした。と、いうことで、懇親会では理事のみなさんに対してひたすら平身低頭m(. ̄  ̄.)m。苦笑いをされたが、許していただいた(と、思う(^-^;)。結局、いつもの通り二次会まで繰り込んで、またまた大騒ぎ。

 もうひとつ、総会では執行部と実行委員会にお願いをした。それは、29日金曜日の朝日新聞朝刊を見て仰天したからである。そこには、「奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定」の大見出しが踊っていた。これはマズいことになった。こういうことは、学会で発表して相互に議論した後にマスコミに出すのが本来である。事前にマスコミに流すというのでは、マスコミを使って自分の学説の既成事実化をたくらんだと思われても抗弁の余地がない。以前にも、この研究グループの弥生時代の開始年代をめぐる放射性炭素年代測定法の成果発表の際、前日にマスコミに報道されたという「前科」があった。その結果どうなったかというと、日本考古学協会の研究発表会の会場は超満員になってしまった。おそらくそこには、考古学協会員以外の人々がかなり参加していたはずである。もちろん、考古学協会の研究発表会は公開されているし、考古学をやっている学生さんたち、一般の考古学愛好者の皆さん、さらにはマスコミの記者たちを排除する理由はない。しかし、考古学協会の研究発表会の意義は第一義的には協会員同士の討論というところにあるのであり、したがって私たち協会員は研究発表を聞く権利を有しているはずである。その権利が侵害されることではいけないはずである。今回もそのような危惧があったので、円滑に研究発表会がおこなわれるようにお願いをしたわけである。
 私のお願いが聞き入れられた結果かどうかはわからないが、31日午後からの研究発表会場は急に変更になり、午前の倍以上の教室になった。これは本当に良かった。その広い会場がほとんど満席に近く、おそらく400人くらいは入場していたからな。私もゆっくりと聞くことができた。日本考古学協会理事会と総会実行委員会の機敏な対応はまさに見事。感謝、感謝。
 なお、この研究発表の内容については、私は納得できなかった。一見すると科学的に見えるけれども、そこにはかなりの仮定の積み重ねと強引な誘導がある。結論の当否は別として、これで「箸墓は卑弥呼の墓だ」と断じるのは飛躍にすぎる、というのが正直なところである。

 発表内容についてはそう感じたのだが、この研究発表の際に司会をつとめられた協会理事のTKI大学のHY教授の名司会ぶりは特筆モノである。ピントはずれの質問については毅然と応対し、さらに報道機関には冷静な対応を求めるなど、見事な手綱さばきですごくカッコ良かった(HYさん、もともとカッコいい人なんですけどね。羨ましい・・・)。
 もうひとつ、私の聞いた研究発表の中ですばらしかったのはKS大学のMK教授による「中国四川省晏爾龍石棺墓地の発掘調査」。私は専門外なので細部についてはよくわからないのであるが、強烈な意志の力がグイグイと迫ってくるのに圧倒された。こんなの聞かされると、私も頑張らなくっちゃな、という気になるな。

2009.05.26

出雲路幸神社で疫病除け、そして貝塚「ぼっかんさん」、の巻

P1120376(左:京都市上京区・出雲路幸神社の境内に祭られている「神石(石神様)」と「疫神社」)
(右:大阪府貝塚市・願泉寺の寺内町)
 5月18日(月)
 世間は新型インフルエンザで大騒ぎ。大阪府と兵庫県で感染者が大量に出て、そちら方面ではエラいことになっていたらしい。私も、新型インフルエンザを食い止めるために何かしなくてはならないと思いだした。しかし、私は医者でも薬学者でもない。歴史学の研究者としての私にできることは何か? そう、これは「神頼み」しかない! 古来から、疫病の発生に際してはさまざまな祭祀がおこなわれた。特に、京の都に侵入しようとする疫神を退けることを目的として、四角四堺祭、宮城四隅疫神祭、道饗祭など、いろんな祭りが実施されたのである。
 さいわい、月曜日の大学院の授業は今出川キャンパスである。そこで、授業を振り替えて、外にでかけることにした。同志社女子大学今出川キャンパスの東北側の街中に、出雲路幸神社という小さな小さな神社がある。「こうじんじゃ」とか「さいわいじんじゃ」と読んではならない。「いずもじ・さいのかみのやしろ」と読む。つまり、塞神・道祖神(日本神話の猿田彦命と同一視される)を祭る神社なのである。そして、道祖神は道路の神、性愛の神であるとともに、境界の神である。つまり、現世と異界との境界を守護することにより、現世に悪神が入ってくるのを防ぐ役割をもっている。この神社は「皇城表鬼門守護」を名乗るだけあって、平安京の東北の鬼門を押さえることによって悪神(特に疫神)の侵入を防いでいるのである。
 現に、この境内には男性シンボルになぞらえた道祖神の神石や、疫神社の小さな祠が祀られている(写真左)。私は、この神社は平安時代に平安京の東北隅でおこなわれた「四角四堺祭」の祭場が常設の神社に転化したものだと考えている。この仮説があたっているならば、この神社は平安時代の境界祭祀の痕跡を今に伝える重要な史跡だということになるのである。ともあれ、ここにお詣りしておけば大丈夫、ということで、大学院生の諸君とともに手を合わせる。
 その後、やっぱり京都にも疫病が入ってきて、ウチの大学も5/22〜5/27が休講になってしまった。しかし、京都の感染者は大阪・兵庫に比べると二桁低く、数人にとどまっているから、おそらくは私たちのお詣りの霊験があったのであろう(?)

 5月24日(日)
 大阪府貝塚市に出かける。実は、ここは私の母の故郷。今も、現当主である母の弟を始め、母の一族の多くはここに住んでいる。この日は先代の当主で私からすると大伯父にあたる人の17回忌の法事。ひさしぶりの貝塚訪問である。
 本当ならば、貝塚の中心である貝塚御坊・願泉寺で法事をするはずだった。この願泉寺、大坂本願寺(「石山本願寺」)を退去して紀州の鷺森本願寺に移った顕如上人が、さらに大坂・天満本願寺に移るまでの2年間、居住していた「貝塚本願寺」なのである。
 願泉寺のことを、母の親戚はみんな「ぼっかんさん」と呼ぶ。最初はいったい何のことなのか、さっぱりわからなかった。実はこれ、天文年間(1550頃)にこの寺を創建した初代住職・卜半斎了珍<ぼくはんさい・りょうちん>に由来する呼称なのであり、こんなところに中世が脈々と生き続けているのである! 現在、願泉寺は本堂が大修理中となっている。結局、家に願泉寺の御住職(「御前様<ごぜんさま>」)をお迎えしての法要になる。御前様というからどんな老僧がおいでになるのかと思っていたが、若い若い御方で、ちょっとびっくり。法事が終わった後は、母の従兄弟に案内してもらって、貝塚寺内町を散策(写真右)。

2009.05.23

山田邦和『京都都市史の研究』刊行、の巻

Kyotohon
 懸案になっておりました、私の論文集『京都都市史の研究』が、とうとう完成いたしました(o^-^o)。何年も前から出す出すと言っていたのが遅れに遅れ、やっと今日の仕儀にあいなりました。第1論文集であり学位論文であった『須恵器生産の研究』を出したのが1998年だから、それから11年たってしまい、「10年に一冊の学術書公刊」という目標からはちょっと外れてしまった。
 最初はA5版函無しの予定だったのであるが、吉川弘文館の編集者のみなさんががんばってくれて、B5版函入、ハードカバー(クロス装)ということにしていただいた。なんでも、このクロス装も最高品質のものを選んでいただいたという。ありがたい限りである。頁数は索引を入れて312頁。ホントはもっと入れたい論文もあったが、これ以上分厚くすると定価がバカ高くなるから、それは次の機会へとまわすことにした。定価は9,500円+消費税。これも、最初は1万円台後半になるとの見込みであったので、ちょっと怯えていた。それが、これも出版社の御努力によって税込みで1万円を切る価格に押さえていただいた。おそらく、こんな固い内容の学術書でこの値段は破格だと思う。とにかく、これだけの「厚遇」をいただいた吉川弘文館にはいくら感謝してもしすぎることはない。
 できあがりを手にしていささか感動したのは、紙の質と印刷の良さ。出版社の中には、費用的な問題で技術の低い印刷所を使ったり、また、もともと図面を多用する本に慣れていなかったりして、図面や写真の仕上がりに問題を残すような本を作るところがある。しかし、歴史書に定評のある吉川弘文館は、さすが、というべきであろう。ひょっとすると私の原図よりも綺麗(?)だと思われるくらい、シャープな図に仕上がっている。これはありがたい。本書には、平安京復元図、平安宮復元図、平安京邸宅配置図、唐洛陽城復元図、唐長安城復元図のような、基本中の基本というべき図面をできるだけたくさん収録した。これなら、私自身が使い回しするのにも便利だし、他の研究者の皆さんにもいろいろとお役立ていただくことができるのではなかろうか。
 本書には、平安遷都1200年記念の1994年から、一昨年の2007年までの13年間に書いた論文を収録した。私としては、35歳から48歳までの時期の研究成果だということになる。研究者としての私の人生にとって、これはやはり非常に大きな意味を持っていた時期だと思う。

 もちろん、私の論文のすべてをこの書に収録できたわけではない。いくつかは、頁数の都合で割愛せざるをえなかった。たとえば、平安京・京都の都市民の信仰をあつかった「古代社会の信仰―古代都京の信仰―」や「鴨川の治水神」。六波羅・法住寺殿についての「六波羅・法住寺殿復元試案の作成」。中世の京都の衛星都市である嵯峨についての「院政王権都市嵯峨の成立と展開」「中世都市嵯峨の変遷」。豊臣秀吉の伏見城下町を扱った「伏見城とその城下町の復元」。これらも、私の京都都市史研究の中では必要欠くべかざるものである。さらに、平清盛の福原を論じた「『福原京』に関する都城史的考察」「『福原京』の都市構造」「福原遷都の混迷と挫折」も、私の中では大きな意味を持っている。しかし、欲を言ったらきりがないのであって、それらはまた改めて、別の一書にまとめることにしたいと思っている。

 ともあれ、自分の研究人生の大きな一里塚を築くことができた。吉川弘文館さま、ありがとうございましたm(_ _)m。そして、この本がきちんと売れますように・・・


 目 次
第1部 平安京の都市構造
 第1章 平安京研究の現状
 第2章 桓武朝における楼閣附設建築
 第3章 「前期平安京」の復元
第2部 中世都市京都の成立と展開
 第1章 中世京都都市史研究の課題
 第2章 中世都市京都の成立
 第3章 中世都市京都の変容
 第4章 戦国期京都の復元
第3部 平安京・京都の葬送空間
 第1章 平安京の葬送地
 第2章 京都の都市空間と墓地
 第3章 考古学からみた近世京都の墓地
あとがき
索引

【書いたもの】
◎山田邦和『京都都市史の研究』(東京、吉川弘文館、2009年6月)。

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陵墓シンポジウム、の巻

5月17日(日)
 既報の通り、陵墓関係16学・協会の主催によるシンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」がおこなわれた。広報にまで手が回らなかったこともあってどれくらいの人が来ていただけるか不安だったが、200人弱ははいっていただけたと思う。まずまず、成功である。
 私の担当は、「伏見城跡(桃山陵墓地)の立ち入り調査」。仁木宏さん、松尾信裕さん、中井均さんとの共同報告であるが、みなさんとディスカッションの上で、私が代表してしゃべることになった。いささか緊張。でも、パワーポイントのおかげで発表時間を守ることもできたし、まずまず好評だったのではなかろうか。
 驚いたのは、会場の方々に質問用紙を書いてもらうと、深い知識にもとづく的確な質問が頻出したこと。聞いてみると、いずれも伏見の地元の市民の方々だという。伏見について、そこに住んでおられる人の中にはこんなにも伏見を愛し、伏見の歴史や史跡に関心を持たれる方がおられるんだな。すばらしいことである。私たち研究者も、マスコミも、行政も、こうした熱意ある市民の期待に応える責務がある、つくづくそう実感させられた。
 終了後は、京都駅南側の、知る人ぞ知る豚のホルモン焼の専門店水月亭で打ち上げの宴会。私も、この店は久しぶりである。どこか変わったかな?と思ったが、幸い、全然昔と変わっていなかった。ここは、巷にあふれるお上品な焼肉屋とはまったく違う。狭い店中にもうもうと煙をたてながらの焼肉である。ホルモンも、いったいどこの部分なのかさっぱりわからないものが出てくるが、しかしそれがいずれも美味いのである(しかし・・・ ホルモンにビール。通風にはもっとも良くない組み合わせだな・・・ また叱られるぞ・・・)。

【しゃべったこと】
○山田邦和・仁木宏・松尾信裕・中井均「伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査」(陵墓関係16学・協会〈主催〉シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」、於キャンパスプラザ京都、2009年5月17日)

2009.05.17

フランス版『京都歴史地図』刊行、の巻

Kyotoatlas(右は、図版の一部。私の原図になる「戦国期京都の酒屋分布図」)
 先日、フランスから国際郵便で重たい重たい荷物が届いた。さっそくにあけてみると、巨大でカラフルな豪華本が出てきた。出版されたばかりの、FIÉVÉ, Nicolas, éditeur"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"(ニコラ・フィエヴェ編『京都歴史地図—都市の記憶システムの空間的分析と、その建築と都市景観—』)が届いたのであるヽ(´▽`)/。待望の刊行である。しかし、こんなに大きい本になるとは思ってもいなかった。日本風にいえばB4版くらいの大きさで、総ページ数は528ページ、厚さは4.5cmという巨大さなのである。重さは4.4kg(!)だというから、変な姿勢で持ち上げたらギックリ腰にもなりかねない。
 さっそくあけてみた。この本のうち、下記の5章が私の執筆分である(ホントはもう1章書いたのであるが、他の人の執筆分と内容が重複したようで、やむなくカットとなった)。
L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle(11世紀末の白河と鳥羽の都市化), pp.113-116.
Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)(戦国期〈1467〜1573年〉の京都), pp.145-150.
Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto(京都をめぐる中世城郭), pp.157-161.
La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi(聚楽第と伏見城), pp.167-174.
Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour(二条城と内裏・公家町), pp.175-182.
Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo(江戸時代の京の町組), pp.201-206.

 この本、かなりの難産だったようで、私が原稿を執筆したのはもう10年くらい前になる。京都大学の高橋康夫先生からお話をいただいて、先生のお手伝いという意味合いであった。高橋先生によると、コレージュ・ド・フランス(国立フランス学院)のニコラ・フィエヴェ博士がユネスコからフランス語の『京都歴史地図』を刊行したいという計画を持っておられる、ということで、そこに参加させていただくことになったのである。原稿を書くだけでなく、図面の算段までしなくてはならないので、かなりの大仕事となった。原稿締め切りからだいぶ遅れてしまって、フィエヴェ先生をやきもきさせてしまう仕儀になった(その節はすみませんでした・・・m(_ _)m)。これがご縁で、2002年には1年間京都に滞在して研究されるフィエヴェ博士と初めてお会いすることができた。流暢な日本語を話されるので、ホッと安心した。
 そうして原稿は出したのだが、フランス語への翻訳と図面の製図、さらにはユネスコからの資金の獲得などに多大の労力がかかったらしく、ようやく今日、それが刊行された。おそらく、ここまでこぎつけたフィエヴェ先生の奮闘は大変だっただろう。

 できあがってみると、これは凄い。なんといってもオールカラーというのは迫力がある。なによりも、単なる地図集ではなく、京都の都市史の専門書としても充分通用する内容である。さらに、京都の史跡のカラー写真も豊富だから、ヨーロッパの人々に京都の魅力を紹介することにも一役買うことができるであろう。こんな充実した京都歴史地図集は、日本ですら出版されてはいない。むしろ、この本を補訂してフランス語から日本語に逆翻訳して出版しても、充分意義のあるものになるだろう。おそらく、今後かなりの永い期間にわたって、ヨーロッパにおける日本研究・京都研究の基本書として使い続けられることは確実だろう。そんな重要な書物の製作に参画させてもらった幸福に、感謝々々。
 ただ、個人的にただひとつ悲しいのは、私はフランス語は皆目わからず、この本はまったく読めない、ということ(;ω;)。なにせ、自分で書いた部分を見ても、固有名詞の単語をたどるしかできないのだから、情けない限りである。
 この本の刊行を契機として、ヨーロッパでも京都都市史研究の重要性が広まりますように・・・

書誌を記載しておきます。アマゾンで見ると、定価79ユーロだそうです。つまり日本円に直すと1万円くらい。これは安いといわねばならないでしょうね。お買い得です。もちろんフランス語が読める人に限ってのことですが・・・

"ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain"
éditeur : Nicolas FIÉVÉ
Auteur : Paul AKAMATSU, FUJII Tadashi, Francine HÉRAIL, HIRAO Kazuhiro, HONGÔ Keiko, HOSOKAWA Takatoshi, ITÔ Sadahiko, KATÔ Kuniko, Nathalie KOUAMÉ, KÔZAI Katsuhiko, KUMAZAWA Eiji, François MACÉ, Marie MAURIN, Joan PIGGOTT, Philippe PELLETIER, SENDAI Shô'ichirô, TAKAHASHI Yasuo, Corinne TIRY, Charlotte von VERSCHUER, Michel WASSERMAN, YAMADA Kunikazu, YAMASAKI Masafumi
Paru le : 25/11/2008
UNESCO
ISBN-10: 2859174869
ISBN-13: 978-2859174866

【書いたもの】
◎YAMADA Kunikazu,“L'urbanisation de Shirakawa et de Toba à la fin du XIe siècle”,“Kyôto à l'époque des luttes entre les provinces (1467-1573)”,“Les châteaux forts et les bastions médiévaux autour de Kyôto”,“La résidence de Jurakudai et le château de Fushimi”,“Le château de Nijô, le palais impérial et le quartier des nobles de Cour”,“Les groupes de quartiers à l'époque d'Edo”, in Nicolas FIÉVÉ ed., ATLAS HISTORIQUE DE KYOTO, Analyse spatiale des systèmes de mémoire d'une ville, de son architecture et de son paysage urbain (Paris, 2008), pp.113-116,145-150,157-161,167-174,175-182,201-206.

2009.05.15

東京極春日で賀茂祭を見る、の巻

 Aoimaturi〈←今、平安京から山城国に踏み出した斎王代。後ろの森が京都御苑〉
 5月15日(金)
 晴れ。葵祭(賀茂祭)の日。
 京都では毎日のようにどこかでお祭りがおこなわれているが、実際に見ることができるものは数少ない。こちとらも一応は本務を持っているのであるし、それを投げ出しての祭見物というわけにはいかないのである。それが、今日の午前中は仕事がはいっていない。幸い、天気も良いし、葵祭の見物ということにしよう。
 実は、今回はひとつもくろみがあった。ぜひ、丸太町通寺町の角(つまり、京都御苑の東南角)で葵祭の行列を見物させてもらおう、と決めていたのである。一昨年、ひさしぶりに葵祭を見に行った際に、おもしろいことに気がついた。行列の先頭にはまず2騎の検非違使(検非違使志<けびいしのさかん>・検非違使尉<けびいしのじょう>)が先導し、そのあとに「山城使<やましろつかい>」(山城国司の2等官である山城介)が続くのである。つまり、葵祭の行列が出発する御所は平安京の中であるから、その警護は平安京の「首都警察」である検非違使(ちなみに、拙宅は検非違使庁の庁舎跡に位置する)の管轄である。しかし、目的地である賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社〈正式には賀茂別雷神社・賀茂御租神社〉)は平安京の外側の山城国に位置するから、その警備の責任は検非違使から離れて山城国司に移ることになる。さすが葵祭。こういうところの伝統はキッチリと引き継がれているのである。
 と、いうことで、出かけた丸太町通寺町の角。丸太町通は平安京の春日小路、寺町通はほぼ平安京の東京極大路にあたっているから、私の立っているのは東京極春日ということになる。そして、東京極大路は平安京の東端の道路であるから、ここが平安京と山城国の境界地点ということになる。アッ、検非違使がこの境界ラインを越えた。ここまでどうもご苦労様。次は山城介。ここからはあなたの担当ですよ。どうかしっかりとお役目を果たしてね。飾馬に堂々とまたがる四位近衛中将の勅使が通り過ぎ、そして今、祭の主役である斎王代が平安京から山城国に入った・・・
 と、こんなことを考えながら祭の行列を眺めていたのは、多くの観客の中でもたぶん私ひとりじゃなかっただろうか。ホント、物好きなことである。

 午後は、古代学協会で「古代文化」編集委員会。帰りにレコード屋さんによって、西本智実さん指揮のブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」他のDVDを購入。

2009.05.13

阿波勝瑞城館を学ぶ、の巻

Syouzui5月9日(土)・10日(日)
 ひさしぶりに、「1617会」の例会への出席。なんか、最近は日程があわずにご無沙汰していたからな・・・ 今回のテーマは、徳島県藍住町の勝瑞城館(写真上)。すなわち、室町時代の阿波国守護・細川氏と、戦国期に阿波の実権を握った三好氏の居館、つまり阿波国の守護所の遺跡である。と、いうと、私がさもこの遺跡に詳しそうであるが、実はこれまで名前だけしか知っておらず、場所もよく把握していなかった。お恥ずかしや・・・ ともあれ、せっかくの機会だから、勉強させていただきに行くことにした。
 京都駅から高速バスで徳島へ。渋滞を心配したが、なんとか昼前には到着。駅前でうろうろしていると、花園大学の卒業生のM君とH君にバッタリ出会う。M君は徳島県内の自治体、H君は島根県内の自治体において、それぞれ考古学の道で頑張っている。1617会に行く途中というが、思いがけないところで出会った奇遇を喜ぶ。昼飯は徳島駅前のセルフうどんの店。うどんというと讃岐ばかりが名高いが、阿波のうどんも讃岐のそれに比肩する美味しさだと思う。
 9日は、勝瑞城館跡とその周辺の城下町推定地の現地見学会。徳島県教育委員会のIさんと、地元の藍住町教育委員会のSさんとが懇切丁寧な案内をしてくださる。水濠が残されている(写真上)勝瑞城跡は、勝瑞城館の最末期、三好氏統治下の築造であり、本来の勝瑞城館はもっともっと大きかったのだという。発掘地は更地になっているが、もうすでに買収が終わっており、数年後には見事な史跡公園に生まれ変わる予定だという。うらやましい限りであるとともに、藍住町教育委員会と徳島県教育委員会の遺跡保存にかける熱意に、感動。
 城下町推定地の一角には、ほぼ一町規模(120m四方)の細川氏時代の守護所が推定されている。「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれた、京都上京の「細川殿」や「三好筑前」邸の姿を思い出しながら歩くと、関心はますます高まってくる。思いがけない出会いだったのは、その近くにある「南陽神社(旧・日枝神社)」(写真下)。なんと! 承久の乱の責を負って四国(当初は土佐、後に阿波)に流された土御門上皇の行宮跡という伝説が残っているという。同上皇の配流地の伝承地はもっと西方(現・阿波市土成町)であることは知っていたが、こんなところにも伝説が残っているとは知らなかった。なんか、嬉しかったぞ。
 楽しく学んだ後は、同町内の旅館にはいって、例によっての大宴会。宿泊だということで気が大きくなったのか、いやあ、呑んだ呑んだ(*^.^*)。二次会の会場から宿屋まで帰ってこれたのが奇跡のようである。
 2日目は、藍住町の大きな役場の上にあるホールで、研究会。勝瑞城館の最新成果のエッセンスを学ばせてもらう。特に、山村亜希さんのいつもながらの緻密な歴史地理学的考察、仁木宏さんのスケールの大きな比較検討に、聞き惚れる。
 帰りの時間が心配だったが、M君の御厚意で徳島駅まで送ってもらうことができた。そうすると逆に少し時間ができたので、今度は徳島ラーメンを味わってから、帰途につく。

2009.05.02

シンポジウム「陵墓公開運動の30年」予告、の巻

425月1日(金)
 来る5月17日、シンポジウム「陵墓公開運動の30年」がおこなわれるので、そのための準備会。談論風発の中で、伏見城跡の立ち入りの成果をまとめていく。なるほど。けっこういろんなことがわかってきたぞ。あんな短時間の立ち入りだけでも、こんなにたくさんの問題点を炙り出すことができるのだから、やっぱり現地を見るということは大事だということを実感する。

と、いうことで、下記のとおりシンポジウムが開催されます。せっかくの成果、できるだけ広く公開したいので、どうかふるってご参加くださいませm(_ _)m。事前申し込み不要ですが、先着300名です。
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シンポジウム「陵墓公開運動の30年-佐紀陵山古墳・伏見城の報告とともに-」

1979年に白髪山古墳が限定公開されてから今年で30年。この節目の年に、本年2月の立ち入りの成果紹介を行いつつ、「陵墓」とその公開のあり方をあらためて考えます。

日時:5月17日(日) 13:00~17:30
場所:キャンパスプラザ京都(JR京都駅下車、西北へ徒歩3分)5階第1講義室(事前申し込み不要、ただし定員は当日先着300名)
資料代:500円
主催:陵墓関係16学・協会(大阪歴史学会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学協会、古代学研究会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、日本考古学協会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会、歴史科学協議会、歴史学会、歴史学研究会、歴史教育者協議会)

主催者挨拶:福永伸哉(日本考古学協会)
陵墓公開を求めて30年:宮川徏(文化財保存全国協議会)
佐紀陵山古墳の報告:岸本直文(大阪歴史学会)
伏見城跡(桃山御陵地)の立ち入り調査:山田邦和(古代学協会)、仁木宏(大阪歴史学会)、松尾信裕(日本歴史学協会)
陵墓公開運動のこれから:後藤真(日本史研究会)
ディスカッション:司会:谷口榮(地方史研究協議会)、森岡秀人(歴史科学協議会)
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2009.04.26

長岡京の宴会、の巻

46345901154月19日(日)
 京都駅前の居酒屋「まそほ 京都店」で、宴会。
 国立歴史民俗博物館の共同研究「律令国家転換期の王権と都市」と、それに引き続いての同博物館企画展「長岡京遷都—桓武と激動の時代—」では、昨年までの6年間、本当に楽しい時間を過ごさせてもらった。さらに、今年一月にはこの展覧会にともなう「歴博フォーラム」、つまり、講演会とシンポジウムをまとめた、国立歴史民俗博物館編『桓武と激動の長岡京時代』(「歴博フォーラム」、東京、山川出版社、2009年1月)がめでたく刊行され、大団円と相成ったのである。それを祝って、みんなで打ち上げ、ということになった。関東からはこの大事業の推進力であった、同博物館のNA・MJ両氏がわざわざお越しいただく。と、いうことで、この店名物の、熊野灘の魚の一夜干しを炭火でじっくりと焼きながらの酒杯、となる。
 『桓武と激動の長岡京時代』という本、自画自賛してもなんだが、なかなかの良い本である。謎が多かった長岡京時代について、コンパクトかつわかりやすくまとめられている。この中で私は、「長岡京・平安京と陵墓」を書かせていただくとともに、「座談会 長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」でも発言させてもらった。
 この本は一般書であって決して専門論文というわけではないが、よく読んでいただくと、あっちこっちに注目される提言が含まれている。私のかかわりでいうと、従来の通説では「陵寺<りょうじ>」(陵墓に付属する寺院)は平安時代前期の仁明天皇陵に始まるということになっていたが、実はその源流は平安時代初期の悲運の皇族の鎮魂というところにある、ということを指摘した。
 「なぜ長岡京は廃都となったのか? なぜ10年しか保たなかったのか?」という疑問は、長岡京時代を考える上での最大の問題である。これに対しては、怨霊説、洪水説などさまざまな回答案がでているが、決定的なものはなかった。ところが! これについて、座談会の中の132頁で私は結構良い事(?)を言っている(^Д^)。つまり、洪水説を再評価しよう、ということである。そういうと、考古学的にみると長岡京の洪水はたいしたことなかった、洪水説なんてのはナンセンスだ、といわれかねないのであるが、私は次のように考える。「案外洪水説というのは再評価していいではないかと思いました。桓武は自分の権威の基盤を天命においている。洪水なんかが起きると、どれくらいの被害があったのかは別にして、天が桓武を見放したというような考え方がなされる。そうすると、すべてを一新して天命を取り戻そうとする試みとして、遷都が構想されることになる」というわけである。「長岡京の権威」である山中章博士がどう評価してくださるかはわからないが、私は現段階では、この方向で行って間違ってないのではないか、と思っている。
 二次会は、山中博士に引っ張られて、めでたいことがあったR大学のKT氏ととともに、新都ホテルのバーへ。完全に酔いつぶれて、ほとんど意識不明・・・

■京都新聞出版センター編、井上由理子・太田垣實・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・前川佳代・山田邦和執筆『第5回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2009年4月)(分担頁不記載)
□山田邦和「歴史探検—京のみやこ」(平成21年度「電友会」〈京都市立洛陽工業高校電気科同窓会〉総会、於京都タワーホテル、2009年4月18日)

2009.03.31

祖父50回忌と吉田泉殿、の巻

P1110536(滞英中の祖父。なかなかにハイカラである(o^-^o))
3月8日(土)
 わが山田家の菩提寺である蹴上の安養寺で、祖父・山田萬吾郎の50回忌の法事。通例として、50回忌というのはむしろめでたいことだとされている。祖父は岐阜の田舎の農家の次男坊で、若い時に神戸に出て働き、そこでたまたま来日中のイギリスの貴族に目をかけてもらった。そのお殿様が帰国する時に「一緒にイギリスに来い」と誘いを受け、イギリスに渡った。これ、明治後半の話だから、当時としてはかなり珍しい事例だったはずである。わが家には家宝のひとつとして、お祖父ちゃんがこの時に使った明治のパスポートが保管してある。数年たって帰国したあと、京都に居を定め、英国じこみのキングズ・イングリッシュにものをいわせて外国人相手の美術の商売を始めた。これが、わが山田家の創設となったのである。

P1110568 3月29日(日)
 京都市が進めていた、堀川の再建・遊歩道化の工事が完成。堀川は平安京とともに造営された歴史的遺産であるが、戦後すぐに水脈を絶たれてコンクリートで固められてしまい(当時の京都市役所の担当者のセンスが疑われる)、まことに無残な状態で放置されてきた。それが数十年ぶりによみがえったのである。これには、素直に喜びたい。ウチの近所なので、マック、クイール、ルークも楽しいお散歩道ができて大喜び。
 午後は、古代学協会の「仁明朝史研究会」。故・角田文衞先生の提唱によって開始し、一年間続けてきたこの研究会も一区切りである。

P1110546 3月30日(月)
 京都大学構内遺跡の現地説明会が開催される。百万遍交差点の南西で、鎌倉時代の西園寺公経の別業であった吉田泉殿の跡と推定される地点である。昨年の発掘調査で綺麗な建物遺構が検出されている。今回の調査地では庭園とみられる河川遺構や敷石遺構が出ており、吉田泉殿の南半部にあたることはまちがいない。鎌倉時代の貴族邸宅についての大発見であるとともに、権勢をふるった西園寺公経の実像に近づく大きな手がかりとなる。
 現場でであったK大学のMY教授、KJ大学のNM教授ご夫妻らとともに、京都大学医学部の芝蘭会館別館のレストランで昼食。
 夜は、伏見の魚三楼で、ウチの学部の歓送迎会。わが大学の名物教授であった朧谷寿先生が、なごりを惜しまれながらの御退任となる。

 さあ、明日からは新年度だ。

2009.03.09

角田文衞先生を偲ぶ会、の巻

P1110179(角田先生の書き込みがびっしりとある『尊卑分脈』)
 3月7日(土)
 (財)古代学協会の主催する、角田文衞先生を偲ぶ会が、京都ホテルオークラにおいておこなわれた。先生が亡くなられたのは昨年5月だから、本当はもっと早くやるべきだったのだが、いろんな事情によってのびのびになっていた。しかし、ようやく開催できて、良かった。140人ほどのご列席を得て、盛会であったこともありがたい限りである。
 私は、この時には「映像」の担当。この日のために、角田先生の生前の写真をシコシコとパソコンにとりこみ、パワーポイントに落としていった。角田先生はホントに写真好きで、その時々の記念写真を実によく残しておられたし、また、それには日時や場所も丁寧に記録されていたから、まことに助かる。私なんか、昔の写真はどこにいったか全然わからないもんな・・・ 会場ではうまく映るかどうか不安だったが、なんとかなった。最後の一枚だけ、切り替えがうまくいかなかったのは御愛嬌。バック・グランド・ミュージックはかつての平安博物館の「館歌」でもあった「紫女讃歌」を流す。この歌、芝祐久作曲・白川伊織作詞となっているのであるが、この作詞の白川伊織というのは実は、角田先生の盟友の北海学園大学教授三森定男氏と、角田先生御自身の合作のペンネームである。そしてこのネームの由来は、学生時代の角田先生が左京区の北白川伊織町に下宿していたことによっている。
 それから、NHK京都が放送したことのある角田先生のインタビュー(全体は15分であったが、時間の関係で7分半に切り詰めた)を流す。こちらはもちろん音声入りだったから、ありし日の先生を偲ぶこの上ないよすがとなった。このインタビューの中、「平安時代に生まれ変わりたいですか?」というアナウンサーの質問に対して先生が、「やはりそうですね。下級貴族くらいが良いですね」とにこやかに応えられていたのが印象的だった。
 会場前には、角田先生の遺品などが展示された。中でも皆の目を引いたのは、先生の研究資料。先生が座右の書とされていた『尊卑分脈』(写真)など、どの頁を開いても、つけペンで書かれた小さな小さな文字で、びっしりと書き込みがある。角田文衞という不世出の学者の秘密の一端を見たような気になる。

 終了後は、NJ大学のMKさんと一緒にタクシーにとびのり、奈良で開催中の条里制・古代都市研究会に向かう。

2009.02.23

伏見城跡立ち入り調査、の巻

P1100969(写真:明治天皇陵への正面階段。伏見城跡の増田郭の南面にあたる)
 2月20日(金)
 翌日の新聞やテレビニュースで既報で、あちこちに私の談話やインタビューもでていたようだが、大阪歴史学会・京都民科歴史部会・考古学研究会・古代学研究会・古代学協会・史学会・地方史研究協議会・奈良歴史研究会・日本考古学協会・日本史研究会・日本歴史学協会・文化財保存全国協議会・歴史科学協議会・歴史学会・歴史学研究会・歴史教育者協議会の16学協会による、第2回目の「陵墓立ち入り」が、宮内庁の許可と案内のもとでおこなわれた。午前中には奈良市の佐紀陵山古墳(宮内庁治定の、垂仁天皇皇后日葉酢媛命陵)、午後には京都市伏見区の通称「桃山陵墓地(または桃山御料地)」内に所在する伏見城跡に立ち入りが許された。雨に祟られたのはいささか残念。立ち入り調査の成果については、近い将来に16学協会によって報告会がおこなわれる予定であるし、また16学協会のそれぞれの媒体によって公表されるであろうし、それを待たねばならない。ただ、伏見城跡の立ち入り調査で感じた私見を述べることは現時点でも許されると考える。

 ◎16学協会の陵墓公開運動にとっては、陵墓に秘められた古墳以外の文化財に目を向けたという点で、画期的。
 ◎しかし、これまでも学術的な研究グループの要請に応えて伏見城跡への立ち入りが認められた例もあり、同遺跡に立ち入るのは16学協会が始めてではない。
 ◎今回の立ち入りでも、判明した諸点は数々ある。しかし、短時間の立ち入りで何かの謎がパッと解明できると考えるならば、それは誤りである。わかったことよりも今後の課題が増えたというのが正確。
 ◎今回の公開にこぎつけるまでには、予想しがたいさまざまな困難にぶつかった。それがひとつひとつ解決されて今日の日をむかえることができたのは、この運動にかかわったメンバーや関連の諸司の努力と善意の賜物である。この運動に関心を持つ方々は、そうした苦労にも思いを馳せてほしい。
 ◎「明治天皇陵」に立ち入ったと誤解されている向きもあるが、これは誤りである。私たちが入れてもらったのは、広大な、通称「桃山陵墓地(または桃山御料地)」の中の、明治天皇陵や昭憲皇太后陵を除く部分である。
 ◎私たち参加者は、個々の思想の違いを乗り越えて、同じ人間の永眠の地として、明治天皇や昭憲皇太后の山陵に対して礼を尽くした。
 ◎私の談話も新聞に出ていたが、私の真意とはズレを感じた。マスコミへの対応の難しさをつくづく感じさせられた。
 ◎宮内庁は、私たち学会側の、時にはワガママな要求に対して、真摯かつ親切に対応していただいた。私は、それに心より感謝している。

2009.02.19

朧谷壽先生最終講義、の巻

 山中章博士は今度はレバノン。あちらでずっと調査にたずさわっているTSさんに呼ばれたそうだが、ホント、忙しい人だな。

Photo 2月14日(土)
 わが同志社女子大学の「顔」ともいえる名物教授だった朧谷壽先生が、今年度で定年退職を迎えられる。それを記念して、最終講義「摂関家の確立—道長と望月の歌」がおこなわれた。会場は今出川キャンパスに新装オープンした純正館。一般公開だから、市民の方々にわが大学を紹介するのにも良い機会である。なお、私にとっては、今を去ること32年前、私が同志社大学に入学して最初の授業だったのが、当時は非常勤講師をつとめておられた朧谷先生の「基礎演習」だった。私としては、それからずっとお世話になりっぱなしである。なお、2年前に私が同志社女子大学に移籍したのも、形式上では朧谷先生の後任というわけではないのであるが、実質的にはそれに近い人事であった。
 会場は、大入り満員だった。300人入る大教室が用意されたのであるが、あとからあとから人々が詰めかけ、補助席を出しても出しても追いつかない。おそらく450人くらいは入っていたのではないだろうか。朧谷先生の人気のほどがうかがえる。開口一番からユーモアにあふれた語り口で、たちまちのうちに聴衆をグッと掌握してしまう話術は先生ならではの名技である。
 夜は、全日空ホテルに場所を移し、大学の有志による「朧谷先生を励ます会」。事実上の退任記念パーティである。それにしても、我が大学にこれだけ芸達者がそろっているとは思わなかったぞ。
 楽しい一日であった。朧谷先生、これまでどうもご苦労様でした。今後ともなにとぞよろしくご指導くださいますよう、お願いいたしますm(_ _)m。

 2月15日(日)
 大阪で、前近代都市論研究会。いつもながらの楽しい学びの場。懇親会は、仁木宏さんが見つけてきたちりとり鍋のお店「えい吉」。ちりとり鍋? それなんじゃ? と思ったのだが、大阪・鶴橋で生まれた、いわば韓国風のホルモンすき焼きだという。唐辛子の許容量が人より少ない私としてはちょっと警戒したのだが、箸をつけてみるとこれが大変美味である(写真下)。終了後のおじや(雑炊)も含めて、いくらでも胃袋にはいってしまう。お値段もリーズナブルで、大変結構でした。調べてみると、京都にもいくつかちりとり鍋をやっている店があるらしいから、今度ぜひまた行ってみよう。

2009.02.07

鳥羽の離宮と鳥の鍋、の巻

 2月4日(水)
P1100658 (写真上:安楽寿院本御塔、下:城南宮を歩く一寸法師とウチの学生)
 ウチのゼミの巡見。鳥羽殿(鳥羽離宮)の跡を散策することにする。と、いうのも、「京の冬の旅」の非公開文化財特別公開の中に、安楽寿院がはいっているからである。いうまでもなく、鳥羽法皇が建立し、そこで亡くなった名刹である。新たな御堂兼収蔵庫が建てられて面目を一新したのだが、入る機会は始めてである。これは見逃せない。
 感慨深かかったのは、新築された御堂兼収蔵庫が「本御塔<ほんみとう>」と名付けられていたこと。本御塔とは、鳥羽法皇が自らの陵として安楽寿院に生前から建てていた塔のことである(それに対して、「新御塔」と呼ばれたのが現在の近衛天皇陵)。ただ、この塔は早くに失われてしまい、江戸時代には安楽寿院のひとつの堂が代用をつとめていた。さらに、幕末の文久の修陵でこの堂を取り除けて法華堂を新築したのが、現在の鳥羽天皇安楽寿院陵なのである。今回、もともとの本御塔の本尊であり、鳥羽法皇自身が造らせたすばらしい阿弥陀如来像をおさめるための御堂兼収蔵庫が新設され、ゆかりの「本御塔」の名が復活したのである。堂の周囲には鳥羽殿跡の発掘調査で出土した庭石を再利用して庭園が造られている。鳥羽殿の遺構そのものではないけれども、それを偲ぶよすがには充分になりうるであろう。
 新しい本御塔の中で拝ませていただく阿弥陀如来像はさすがに見事である。さらに嬉しいのは、室町時代頃の製作と推定される鳥羽法皇・美福門院・八条院の肖像が公開されていたこと。これ、本ではよく見るのだが、現物を拝見させていただくのは滅多にない機会である。最近、保元の乱について考える機会があったので、食い入るように眺める。

 そのあとは、鳥羽殿の跡地を巡見する。鳥羽殿の中心部の金剛心院跡のあたりは、まったく残念なことに現在はラヴ=ホテル街になっている。昼間とはいえ、そんなところを女子学生を引き連れてウロウロするのはかなり勇気がいるのであるが、平安時代の重要な遺跡がこんなふうに破壊されてしまっているということを知ってもらうのも意義があるだろう。ホテルとホテルの間の隙間に挟まるようにして後宮塚陵墓参考地が残されているところなどを見せると、さすがに学生諸君も驚いたようである。それから、鳥羽離宮跡公園を経て、城南宮まで歩く。城南宮の本殿の前に一寸法師の可愛らしいお人形がいる(写真)のはご愛嬌である。これだけでもだいぶ疲れたのだが、せっかくだから伏見にまで足をのばし、伏見奉行所跡の発掘調査現場を見学させていただく。
 
 洛中にもどってしばらく時間をつぶし、今度は京都府立大学考古学研究室のコンパ。今年度一年間、この大学の大学院の「考古学特講」を担当させていただいた。菱田哲郎准教授が率いておられるこの研究室、良い意味での昔風の考古学研究室で、そこに集っている学生諸君の学問的熱気はもの凄い。私も、そうした学生さんたちと一年間つきあわせていただいて、本当に楽しく授業をやらせてもらった。こんな機会を与えていただいた菱田先生に、感謝m(_ _)m。今回のコンパは私に対する謝恩の意味もあるという。ありがたいことである。会場は高倉通錦のそば酒菜さかえ庵。いつも前を通っているはずなのだが、こんな店があるなんて気がついていなかった。ソバ屋でコンパ?と最初は疑問に思ったが、これがめっぽううまい。カモと鶏の鍋を堪能する。充分にダシが出たところで、締めはソバ。鍋にソバ?と、これも疑問だったが、やってみるとなかなかすばらしい。お値段もリーズナブルで、充分に楽しめた。菱田先生、そして府立大学考古学研究室の皆さん、本当にありがとうございましたm(_ _)m。

2009.02.03

五十の賀、の巻

 2月3日は私の誕生日。ついに満50歳になってしまった・・・・ それにしても、いつもならば私の誕生日には必ず雪が降るのに、今年は雪ではなく雨だった。地球温暖化の影響かしら?

Ts2d0034山中章博士のブログでは既報だが、1月25日(日)には恒例の「10年会」の新年会。ウチの大学の卒業生でもあるYEさんのご好意で、風格ある京都の町屋を会場として提供していただく。冬らしく、あったかいお鍋。メインは、山中章博士が伊勢湾から届けてくれた新鮮な金目鯛と伊勢エビで、これにサザエの壺焼が加わる。これでおいしくなければウソである。朧谷寿先生おんみずからサザエを焼いてくださる。畏れ多いことである。それにしても、さすがは伊勢湾。サザエなんか、普通のものならばシッポのところが生臭いのだが、これはまったくそんなことはない。シッポまで磯の香りが染み付いて、とろけるようである。
 極め付きは、鍋のあとのお雑炊。誰がなんといおうと、鍋のあとの幸福はなんといってもお雑炊である。この時ほど、日本人として産まれた幸せを実感し、日本文化の偉大さに感極まる瞬間はない。具材のダシがこってりと溶け込んだスープを一滴のこさず味わいつくすことができるのだから。
 おいしく食べて、たくさん飲んで、気がつくとほとんど正体不明。でも、幸せな日でした。

 1月28日(水)には、再開された、京都府の「天橋立世界遺産可能性検討委員会」。昨年の文化庁の判定で、天橋立は世界遺産リストへの暫定登録を逃した。確かに、年々登録基準が厳しくなっているのだから、これはやむをえまい。ただ、文化庁の判断としては、暫定登録を逃した中では最高ランクの評価だったということで、リベンジの可能性は充分残されている。

 1月31日(土)は、古代学協会の「仁明朝史研究会」。山中博士と、K研究所のAN氏が報告される。多分野からの検討で、いつもながら和気あいあいの楽しい時間となる。

 2月1日(日)。「京の魅力探訪ウォーク」に出講。今熊野観音寺に集合し、後白河法皇をテーマとした講演と巡検をおこなう。

2009.01.25

古市古墳群と豊臣秀吉と、の巻

 正月以降、ずっとノドを痛めていた。ホント、しつこい風邪である。三週間近くのガラガラ声だったのだが、やっとマシになってきたぞ。どうしてこうノドが弱いのかな・・・・

P1100586 1月16日(金)
 大阪府松原市と藤井寺市にまたがる河内大塚山古墳にでかける。しかし、阿倍野橋で急行と準急を乗り間違えてしまい、さらには待ち合わせ場所も間違ってしまい、大幅に遅れてしまう。申し訳ありませんでしたm(. ̄  ̄.)m。
 I大学のMM名誉教授と食事のあと、せっかくここまで来たんだから、津堂城山古墳も見学。後円部頂上だけが陵墓参考地になっており、中世の城郭の建設によって墳丘はかなり原形を損ねているが、さすがは古市古墳群の開始を飾る巨大古墳である。横にあるミニ資料館兼休憩場所も充実。
 藤井寺の駅に戻り、これもせっかくだから欲張って、西国三十三ヶ所第五番札所の葛井寺に参詣。驚いたのは、山門の前に、「遣唐留学生井真成(葛井真成)生誕之地」の木標と、「おかえりなさい藤井寺へ いのまなりくん」という可愛らしいイラストの看板があったこと。井真成というのは、2004年に中国・西安市で墓誌が発見され、遣唐使として渡海して異国で亡くなったとして大きな話題を呼んだ人物である。この墓誌と井真成という人物についてはまだまだ検討の余地が残っていると思うのであるが、藤井寺市ではすっかり「郷土の英雄」扱いになっているんだな・・・・
 もうひとつ驚いたのは、岡ミサンザイ古墳の東側に建てられている、藤井寺市生涯学習センター「アイセル・シュラホール」。なかなか充実した考古学展示室があって勉強になるし、また、井真成の墓誌の精巧なレプリカも展示されているのは貴重である。それはいいのだが、建物が「市内から出土した古代の木ぞり「修羅」と、古代船の埴輪の形を組み合わせた姿をイメージしたもの」だという(写真)。しかし、この建物、ガミラスの侵略の際にはイスカンダル星へコスモクリーナーをもらいにいくため、波動エンジンが点火して宇宙に飛び立つとしか思えないぞ(笑)。

 1月19日(月)
 同志社大学学際科目「シルクロードの歴史と文化」のゲスト・スピーカーとして出講。この科目、10年ほどずっと分担していたのだが、今年からは本務校の都合で退任させてもらった。それへのゲストであるから、喜んでやらせてもらう。一般公開授業にもあたっているので、市民の方々もかなり参加されておられる。
 テーマは何にしようかな、と考えたのだが、ちょっと目先を変えて、シルクロードの終着点をとりあげることにして、「世界の十字路・コンスタンティノポリス」とした。古代ローマ帝国から中世ローマ帝国、そしてオスマン帝国と、1000年以上にわたって世界帝国の首都となってきた巨大都市であり、世界中でもこれほど憧れに満ちた都市は(日本の京都を除くならば)ちょっと考えられない。かなり以前になるが、私もこの町を訪れ、ウチの奥さんと一緒に、足を棒にしながら歩き回ったものである。ただ、ノドがまだガラガラで聞きづらかったであろうことは聴衆の皆さんには申し訳なかった。

 1月24日(土)
 JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』のイヴェントに出講。いつもは講演と巡検をセットにするのだが、今回はひとつ趣向を変えて、歴史地理研究者の中村武生氏と「豊臣秀吉と京都」をテーマにしたシンポジウムをすることになる。あらら。中村氏は京都の御土居の専門家として知られる研究者だから、ヘタは打てないぞ。と、いうことで、前日までいろんな図書館に籠って豊臣秀吉について予習。やっぱり、いままで気づかなかったことがいろいろ発見できて面白い。よく言われる「秀吉はなぜ征夷大将軍にならなかったか?(またはなれなかったか?)」というテーマについても、従来の諸説のアラがだいぶ見えてきたし、自分なりのささやかな仮説もたてることができそうだ。本番では、中村氏の適切なリードによって、気持ちよくしゃべらせてもらう。ありがたいことである。

【書いたもの】
■山田邦和「長岡京・平安京と陵墓」。永井路子・朧谷寿(出席者)、山中章・山田邦和(司会)「座談会 長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」。清水みき・仁藤敦史(司会)、網伸也・榎村寛之・河角龍典・中島信親・三上喜孝・吉川真司(パネラー)、朧谷寿・永井路子・山田邦和・山中章(コメント)「討論 長岡京時代を考える」(国立歴史民俗博物館編『桓武と激動の長岡京時代』〈歴博フォーラム〉所収、東京、山川出版社、2009年1月)200〜211頁、5〜30頁、125〜146頁。
【しゃべったこと】
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第9期「平治の乱と源平合戦」(京都新聞文化センター、於同センター、2009年1月23日)(2008年より継続)
□「世界の十字路・コンスタンティノポリス」(同志社大学学際科目2「シルクロードの歴史と文化」ゲスト・スピーカー〈授業の一部公開〉、於同志社大学京田辺校地、2009年1月19日)
□山田邦和・中村武生「歴史フォーラム 豊臣秀吉と京都」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於本能寺会館、2009年1月24日)

2009.01.11

研究初めの百舌鳥古墳群と大御堂観音寺、の巻

 1月9日(金)・10日(土)
 年始年末は大変だった。最近は俳人となられた山中章博士の名句「初詣 祈る心に 風痛し」さえも、私のように僻み根性で見るならば、「通風が痛くなるように」という呪詛だと解釈されてしまうのである。さらにノドをやられて、年初の授業では声がでなくて四苦八苦してしまう。
 RityuuTinooka とはいうものの、今年の「研究初め」。朝日カルチャーセンターのの講義をやってから、バタバタと大阪に向かう。大阪府堺市の百舌鳥陵山古墳(石津丘古墳ともいう)、つまり宮内庁治定の履中天皇陵、日本第3位の巨大古墳である。久しぶりに来たのだが、周囲を回るとさすがにデカいな。渇水期で、西側の造り出しがよく見えているのも面白い。少し時間があったので、TB大学のOT教授、H県A市教育委員会のMH氏、H県立考古博物館のY氏等とともに、ついでに乳の岡古墳へと足をのばす(写真右)。巨大古墳揃いの百舌鳥古墳群の中にあるから目立たないが、全長155mの堂々たる大古墳である。しかも、百舌鳥古墳群の中では一番最初に築造されたと考えられているから、この古墳群の性格を考える上でも無視できない遺跡である。
 昼飯を食いそびれていたので、皆さんと別れてから、乳の岡古墳近くで見つけた回転寿司屋にとびこんで遅い昼食。中途半端な時間なので客は私ひとりだったが、なかなか良いネタをそろえた、おいしい店だった。

Oomidou 土曜日の朝に外を見ると、みぞれ混じりの雪が降っていた。どうしよう、サボろうかな、とも思ったが、大学へ向かう。OH教授、AT准教授とともに、ウチの大学の「京都研究会」の見学会におつきあい、である。まずは同志社大学京田辺キャンパスを通り抜け(これがまた広いんだな・・・)、同志社のちょうど西側にある、大御堂観音寺<おおみどう・かんのんじ>へ行く。鄙びた小さな寺だが、実は奈良時代に創建された古刹で、本尊十一面観音菩薩像は天平彫刻の逸品で国宝に指定されている。国宝の観音さまは、日本でもわずか6体しかないという。ウチの学生諸君に聞いても、この寺には始めて来る、というのばかりである(私も久しぶり)。京田辺市には史跡が何も無いと思っている諸君も多いが、大学から歩いてこれる範囲にこんなすばらしい仏像があるのだから、見ておかなきゃソンだよ。
 それから、今度はみんなで酬恩庵一休寺へ向かう。いうまでもなく、室町時代の名僧・一休さんのお寺である。これも、せっかく京田辺にあるのに、学生諸君は始めてくる、という人ばかり。おいおい、もったいないぞ。一休さんは実は後小松天皇の皇子だから、その墓は宮内庁が管理して「宗純王墓」という厳めしい形になっている。方丈に安置される一休禅師木像は、その生前に作られたという逸品。

【書いたもの】
■山田邦和「銅鏡の国」(宮崎興二・小町谷朝生・細矢治夫編集『日本文化のかたち百科』所収、東京、丸善 、2008年12月)、494〜497頁。

2009.01.03

梅宮大社初詣、の巻

1月3日(土)
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 3匹のおトボケ犬(左から、ルーク、マック、クイール)からもご挨拶。あけましておめでとうございます m(_ _)m
  
 今年の初詣はどこにしようか、と考えていたが、梅宮大社にいくことにした。近頃ごぶさたである、という以外には特に理由はない。
 梅宮大社は、橘氏の関連の古社である。お酒造りの神様であるから、私も日頃お世話になっている、ということになる。檀林皇后・橘嘉智子が仁明天皇を産む時の安産の神様である、という伝承をも持っている。現在、古代学協会で「仁明朝史研究会」をやっているから、こちらからしてもまんざらゆかりがないわけではない。
 本殿は修理中で、神様は脇の仮本殿に御動座中であるが、本殿の屋根は綺麗に吹き替えられていて檜皮の色が美しかった。恐る恐る、おみくじを引いてみる。かつて、おみくじを引くと二回続けて「凶」がでたことがあるから、ちょっとトラウマになっているのである。幸い、ここでは「大吉」。良かった良かった。

2009.01.01

2009年謹賀新年、の巻

P1100385 2009年1月1日(木・祝)
(←我が家のささやかなおせち料理) みなさま、あけましておめでとうございます。ブログの場を借りまして、ご挨拶申し上げます。

 昨年はチベットの民衆蜂起とそれに対する中国政府の残虐な弾圧から始まり、秋にはグルジアにおける南オセチアの紛争、世界的金融危機とその日本への波及、さらにはイスラエルのパレスチナ・ガザへの空爆という暗いニュースの中で年末を迎えました。そして、パレスチナの悲劇は、新年を迎えた今もまだ継続中です。近い将来、人類がこのような愚行の繰り返しを回避できる日がくることを心より念じております。

 今年は、永らくの懸案となっておりました第2論文集『京都都市史の研究(仮題)』の刊行をようやく果たせる見込みとなりました。また、それに引き続いていくつかの研究成果も開陳できると思います。牛歩のような歩みではありますが、着実に進んでいきたいと思っております。

 今年一年が、皆様にとっても良い年となりますように・・・・・・ m(_ _)m。 

2008.12.31

2008年もおしまい、の巻

2008年12月31日(水)
P1100316 大晦日。今年もおしまい。恒例の「第9」を聞きながら、しみじみと今年一年を偲ぼう。今年の「第9」は、ちょっと珍しいものを、と思って、フランツ・リストによる2台のピアノ編曲版を選んだ。第1ピアノがレオン・マッコーリー、第2ピアノがアシュリー・ウェイスによるナクソス盤である。もちろん、ピアノ編曲版なのでオーケストラも合唱もはいらない。しかし、これがなかなかの聴きものである。ピアノの名人であるリストの手によるものだけあって、豪壮華麗な仕上がりになっていて、よくもまあピアノだけでここまでできたものだと唸るほどのできばえである。

 実家の店の大掃除を手伝いに行って、それから下御霊神社にお詣り。境内に護摩壇のようなものがしつらえてあって、あれっ?、と思ったら、そこで儀式が始まった(写真)。信者から供えられた人形<ひとがた>を火にくべて、今年の穢れを払う「大祓<おおはらえ>」であった。これはちょうど良いところに出くわした。私も参列して、今年の厄払いをさせてもらう。

 年越し蕎麦を食べた後、義弟といっしょに祇園さん(八坂神社)の白朮参<おけらまいり>に出かける。ここでも、一年の厄を落とし、新年の多幸を祈る。帰り道で知恩院さんの前を通りかかると、三門が荘厳にライトアップされており(写真)、しばし、みとれる。

 それにしても、今年は時間のたつのがえらく早かったように思う。その割にまとまったことができていないので、これはやっぱり来年に向けて反省、である。

 それでは皆様、どうかよいお年をお迎えください o(_ _)oペコッ。P1100373

2008.12.29

2008年にやったこと、の巻

 2008年12月29日(月)

 2008年ももう暮れようとしている。恒例によって、今年やったことを振り返っておこう。
【著書(分担執筆)】
■京都新聞出版センター編、井上由理子・今西健二・河村吉宏・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・中村勝・永守淳爾・西村彰朗・藤慶之・山田邦和執筆『第4回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2008年4月)(分担頁不記載)
【論文】
■山田邦和「中世京都の被差別民空間—清水坂と鳥部野—」(花園大学人権教育研究センター編『個の自立と他者への眼差し—時代の風を読み込もう—』〔花園大学人権論集15〕所収、東京、批評社、2008年3月)、193〜223頁。
【その他の著作】
■山田邦和「聖武・天武両天皇の首都構想」(第10回考古学研究会東海例会資料集『古代東海と奈良時代王権』所収、津、考古学研究会東海例会、2008年2月)、88〜90頁。
■山田邦和「考古学者スウェーデン皇太子入洛」(丸山宏・伊従勉・高木博志編『みやこの近代』所収、京都、思文閣出版、2008年3月)222〜225頁(「みやこの近代(84)(85)スウェーデン皇太子来洛す(上)(下)」〈『京都新聞』2004年〈平成16年〉7月1日号〈朝刊〉・7月8日号〈朝刊〉掲載、京都、京都新聞社、2004年7月〉の補訂再録)。
■山田邦和「コンスタンティノポリスの思い出」「ニュース」(『土車』第116号掲載、京都、古代学協会、2008年3月)3頁・5頁。
■山田邦和「『源氏物語』の平安京—固定概念にとらわれない真実の姿求めて—」(『京都民報』第2336号〈2008年5月25日号〉掲載、京都、京都民報社、2008年5月)5頁。
■山田邦和「学界消息〜角田文衞氏の訃」(『日本歴史』第724号掲載、東京、吉川弘文館、2008年9月)、139頁。
■山田邦和(監修・文)「リアルイラスト 【鳥瞰】秀吉時代の京都」(『決定版 図説 戦国合戦地図集』〈「歴史群像シリーズ」特別編集〉所収、東京、学習研究社、発行年不記載〈2008年〉)、93〜96頁(「鳥瞰イラスト 秀吉の京都」〈歴史群像シリーズ 戦国セレクション『驀進 豊臣秀吉』所収、東京、学習研究社、2002年4月〉の再録)。
■山田邦和「民族で見る貴州」(西幹夫〈写真〉、黒川美富子〈紀行文編集〉『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』所収、京都、文理閣、2008年9月)、213〜222頁。
■山田邦和「平安京大図解」(村井康彦監修、京都新聞出版センター編『平安京と王朝びと—源氏物語の雅び—』所収、京都、京都新聞出版センター、2008年10月)。
■山田邦和「例会要旨 中世都市嵯峨の復元」(『人文地理』第60巻第4号掲載、京都、人文地理学会、2008年)
■山田邦和「森浩一先生の知的格闘技」(『森浩一先生傘寿記念 大寿祝賀文集』所収、枚方、古代学研究会、2008年11月)34頁
■山田邦和「第4回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol4.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年1月)
■山田邦和「第5回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol5.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年4月)
■山田邦和「第6回 平安京創生館クイズ」(『まなびすと』Vol6.掲載、京都、京都市生涯学習総合センター、2008年9月)

【学会・研究会報告】
◎山田邦和「仁明天皇陵とその関連陵墓」(古代学協会「仁明朝史の研究」第2回研究会、於思文閣会館、2008年1月20日)
◎山田邦和「コメント 聖武・天武両天皇の首都構想」、山中章司会、榎村寛之・天野三恵子・大崎哲人・山田邦和「ミニシンポ 文献・考古資料からみた聖武東国行幸」(第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」、於三重大学、2008年2月2日)
◎山田邦和「中世都市嵯峨の復元」(人文地理学会第263回例会「歴史都市の景観復元研究」、於佛教大学四条センター、2008年4月12日)
◎山田邦和「タンロン皇城遺跡出土須恵質円筒形土器の型式変化について」(「GISを用いた東アジア都市・王城遺跡形成史の比較研究」2008年度第1回研究会、於三重大学、2008年6月1日)
【講演、その他】
□「東山地区の歴史」(於ハイアットリージェンシー京都、2008年1月9日)
□「戦国武将ゆかりの地を訪ねる」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社と巡検、2008年1月12日)
□「  同  」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社と巡検、2008年1月26日)
□「嵯峨は平安〜室町時代にかけて政治の中心だった!」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於嵯峨野コミュニティプラザと巡検、2008年3月22日)
□「  同  」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於嵯峨野コミュニティプラザと巡検、2008年3月29日)
□「山田先生の平安京講座」(JR東海「そうだ 京都、行こう!」イヴェント、於京都アスニーと巡検、2008年3月23日)
□「平安京・京都の歴史を歩く」(京都SKY大学「総合活動コース」、於京都新聞文化ホール、2008年3月25日)
□「京都・歴史から未来へ」(京都市職員研修センター 平成20年度「京都市職員研修」、於京都会館会議場、2008年4月1日)
□「平安京への道」(ラボール学園〈京都勤労者学園〉「日本史講座—歴史のなかの京都と他所(古代・中世)—」、於同学園、2008年4月28日)
□「平安京の天皇陵—大規模陵墓から仏式陵墓へ—」(京都アスニー「ゴールデン・エイジ・アカデミー講座」、於同センター、2008年5月16日)
□「平安京の世界」(京都府立嵯峨野高校社会人講師の講義、2008年6月3日、於京都府立嵯峨野高校)
□「奈良山丘陵の天皇陵」(木津川市・木津の文化財と緑を守る会・興福寺「第5回木津川市ふれあい文化講座」、於木津川市中央交流会館、2008年6月28日)
□「京都の歴史(1)(2)」(京都SKY観光ガイド協会「京都SKY観光ガイド養成講座」、於はーとぴあ京都、2008年7月4日)
□「ブライトンから見る平安京と源氏物語」(京都ブライトンホテル「第20回京都ブライトンホテル協力会 定期総会」、於同ホテル、2008年8月26日)
□「洛中洛外図に見る京都」(京都SKYセンター、於京都新聞文化ホール、2008年9月10日)
□「清水寺・地主神社」(姫路市教育委員会「平成20年度市民教養講座・歴史講座Cコース 世界遺産の寺社を訪ねる 第6回」、於姫路市文化会館、2008年9月22日)
□「伏見城と城下町を復元する」(聖母女学院短期大学「秋の公開講座・伏見学」、於同大学、2008年10月18日)
□「王朝貴族と平安京」(下京区身体障害者団体連合会「平成20年度福祉のつどい」、於京都東急ホテル、2008年11月2日)
□「現地見学」(姫路市教育委員会「平成20年度市民教養講座・歴史講座Cコース 世界遺産の寺社を訪ねる 現地見学」、清水寺・醍醐寺・東寺巡検、2008年11月7日)
□「平安京」(於祇園「福島」、2008年11月18日)
□「源氏物語を歩く 第4回 源氏・別れの舞台」(京都新聞文化センター、嵯峨野方面巡検、2008年11月22日)
□「源氏物語を歩く 第5回 千年の時空を超えて・平安宮の旧跡を辿る」(京都新聞文化センター、平安宮跡巡検、2008年12月20日)
□「日本国第一の大天狗・後白河院の謎多き肖像に迫る!」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於今熊野観音寺と法住寺殿跡巡検、2008年12月21日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第6期「平安王朝の諸相」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年1月25日、2月8日、3月28日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第7期「院政期の京都」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年4月25日、5月23日、6月27日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第8期「保元・平治の乱」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年7月25日、9月26日、10月3日)
□「京都検定・京都学講座『京都の原点を探る』第9期「平治の乱と源平合戦」(京都新聞文化センター、於同センター、2008年10月17日、12月26日)(2009年に継続)
□「平安京・京都の歴史を歩く(20)初期摂関時代の京都」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年1月11日、2月1日、3月14日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(21)初期摂関時代の展開と御室仁和寺」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年4月11日、5月9日、6月13日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(22)平安王朝の爛熟」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年7月11日、9月12日、9月19日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(23)藤原道長の栄華」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年10月10日、11月14日、12月12日)
【展覧会担当】
△「DWCLAの誕生—今に受け継がれるリベラル・アーツの精神」(同志社女子大学史料室第14回企画展示、於同志社女子大学今出川キャンパス ジェームズ館・史料室、2008年11月21日〜2009年7月31日)(2008年度同志社女子大学史料室運営委員会委員としての分担)
【社会活動】
▼財団法人古代學協會 評議員
▼財団法人古代學協會 古代文化刊行委員会 編集委員
▼平安京・京都研究集会世話人
▼文化史学会監事
▼京都民俗学会監事
▼有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会全国委員
▼京都市環境影響評価委員

 うう〜〜〜。これはヤバイ。「論文」が1本キリに終わってしまった(しかも、これも、純粋な学術論文とは言い難い・・(゚ー゚;)。一昨年は4本、昨年は6本だったから、明らかに失速である。成稿した論文ならば何本かある、とか、単著の論文集の刊行のメドがついた、というのは言い訳にはならないだろうな。確かに、今年はスランプ状態に陥っていたような気がする(´・ω・`)ショボーン。
 来年はひとつ、褌を締め直してがんばろう!!!

2008.12.22

朽木の池の沢遺跡から若狭へ、の巻

12月13日(土)
Ikenosawa いささか二日酔気味で寝過ごしていたら、ウチの奥様がどうしても、滋賀県高島市朽木の「池の沢遺跡」の現説に行きたい、と言い出す。たしかに、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃に作られた庭園遺跡の傑作だということは、地元出身のHK君から以前に聞いた事がある。よし、行くか、ということで京都から若狭へ通じる、いわゆる「鯖街道」に沿った朽木とでかける。
 行ってみて、確かに良かった。これはすばらしい遺跡である。古代末〜中世初期の大規模な庭園遺跡が、そっくりそのままといってよいほど良好な状態で残っている。平安京内の貴族邸宅の庭園遺跡はズタズタになっているものがほとんどであるし、寺院の庭園は後世に改変されているものが多い。その点、この池の沢遺跡は、池の跡は窪地となって明瞭に判別できるし、庭石も露出していたらしい。要は、落ち葉とわずかな表土を掻き分ける程度で庭園遺構を検出することができるのである。それに、池に注ぐ泉はまだ生きていて、清らかな山水をサラサラと生み出している。それが、石組みの水口を経て、数十m下の安曇川に瀧となって落ちていくのも圧巻である。この遺跡は、古代・中世の庭園研究の基本となるに違いない。
 この遺跡はおそらく平安貴族の山荘だったのであろうが、いったい誰がこんな庭園を築いたのだろうか。興味津々である。

 池の沢遺跡見学を終えて、朽木で「十割蕎麦」と鯖寿司のセットを頼む。値段は張ったが、味はよかった。それから、朽木陣屋跡と資料館を見学。
 そのまま帰洛しても良いのだが、急に気が変わった。ここまで来たのだから、ひさしぶりに若狭に抜けてみよう。と、いうことで、昔ながらの街道町の面影を残す若狭熊川宿で遊びながら、たらたらと山越えをする。いぜんの上中町の役場の一部を改装した若狭町歴史文化館では、有名な十善の森古墳の冠帽に出会う。それから、須恵器の「脚付連結壺」の新例にも出会う。東海地方特産の脚付連結壺がこんなところにも出ているなんて知らなかったぞ。さらに、若狭の一宮の若狭姫神社に参拝、ひさしぶりの福井県立若狭歴史民俗資料館を見学する。

Tutimikado 京都へ抜けるために、福井県おおい町の旧・名田庄村を通ることにする。名田庄というと、昔なつかしい高石ともやとザ・ナターシャ・セブンを思い出してしまうが、それとともにこの地は陰陽道の土御門家関連史跡の宝庫である(写真)。前から行ってみたかったのだが、やっと念願が果たせた。資料館である暦会館では、京都の梅小路の土御門家の邸宅指図の存在を知る。うんうん、なかなか収穫だぞ。実務家貴族である土御門家が室町時代にこの地に下向して荘園経営をおこない、しかもまったく土着するのではなくてしばしば京都と往復していたというのは、中世の京都の貴族のありかたに面白い示唆を与えるものだと思う。

2008.12.21

河内大塚山古墳を見る、の巻

 12月10日(水)
P1090531
 考古学・歴史学の16の学会連合の要望に応えて、宮内庁も陵墓の調査の公開に少しづつ前向きにとりくんでくれるようになってきている。もちろん、私たちの立場からしたらまだまだ不十分ではあるのだが、それでも以前に比べると隔世の感であることは確かである。今回、大阪府松原市の河内大塚山古墳(大塚陵墓参考地)の立会調査の見学が許されることになった。
 この古墳は全長330mの超巨大古墳で、従来から「謎の前方後円墳」と言われてきた。以前はこれを雄略天皇の真陵に宛てる説がほぼ通説となっていたが、雄略天皇陵だとすると古墳時代中期の5世紀後半だということになる。最近では、それよりも古墳時代後期後半の6世紀後半に降るとする説が有力となってきているし、私もそれが正しいと思う。そうすると、奈良県橿原市五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)と並んで、古墳時代後期後半に築造された、ただふたつの超巨大前方後円墳ということになり、その時代の歴史を考える上で最重要の古墳だということになる(ついでに言ってしまおう。よく、河内大塚山古墳を大阪府高槻市今城塚古墳と奈良県五条野丸山古墳の間に編年している考古学の本があるが、これは根拠薄弱である。知られている資料による限り、五条野丸山古墳と河内大塚山古墳の間にはそんなに時期差を考えることはできないと思う。それから「江戸時代、河内大塚山古墳の前方部の上には村があった。だからこの古墳の前方部は大幅に削平されている」とされることも多いのであるが、私見では、これも、ムリ。)。しかし、この古墳についてはほとんどデータが無く、その位置づけについては従来から頭を悩ませてきたのである。
 行ってみると、前方部の西端にあって周濠をまたぐ渡り堤の部分が調査されている。ちゃんとした検討は宮内庁の正式報告と、来年度に予定されている反対側の渡り堤の調査の成果を待たねばならないので、まだ軽卒なことをいうべきではないが、この発掘の結果には仰天した! この謎の古墳の位置づけが、よりはっきりしたように思う。 

 それから、地元研究者のNT氏のご案内で、河内大塚山古墳周辺のあちこちを見学。山中章博士に捧げた柴籬神社(しばがきじんじゃ)の「歯磨き面」はこの時に行ったものである。
 皆さんと別れてからは、大阪市立美術館での「三井寺展」を見学。会場への道で同僚のRT客員教授と、また会場内ではR大学のFK客員教授と、それぞれバッタリ。今後数十年は見る事ができないかもしれない秘仏群との出会いに、感動する。

2008.12.18

その時歴史が動いた第346回「平安京誕生」の巻

12月18日(水)
Captur1 NHKの「その時歴史が動いた」、今回は「平安京誕生—千年の都に秘められた苦闘—」でした。どなたはんが出はるんかいな、と思っていたら、山中章博士だったんですね。ををっ! カッコいい〜〜〜!!(^Д^)。いつもはこの番組、ゲストと称してケッタイな作家はんとかを出すことが多いのですが、今回は専門家の中の専門家の井上満郎先生(京都産業大学教授)で、結構なことでした。さらに、書架の前で研究にいそしむSM博士のお姿まで拝見することができました。

Capture6←しかし、早良親王の怨霊のこの無惨な姿は、ちょっと酷いと思います・・・・

2008.12.10

文化史学会大会で高橋昌明先生を聞く、の巻

 12月6日(土)
Takahasi 恒例の「文化史学会」大会。つまり、同志社大学文学部文化史学科が母体となって結成している学会である。小さいけれども、雑誌『文化史学』の刊行を着実に続けているし、同志社大学の文化史の卒業生の懇親を深める場としても機能している。私は監事を仰せつかっているので、数日前には事務局にでかけていって領収書と帳簿の首っ引きをやった。どちらも完璧で、めでたしめでたし。
 例年ならばこの大会では研究発表も聞くのだが、所用のためそちらは欠席。公開講演だけにかけつける。どうしても聞き逃せないのは、神戸大学名誉教授・高橋昌明先生が御登壇で、「平家都落ちの諸相を話されることになったのである。高橋先生、滋賀大学から神戸大学という国立大学の教授を永く勤められていた(今春、無事退官されて名誉教授となられた)のであるが、御出身は同志社大学の文化史であり、滋賀大学に迎えられる前には同志社高校でも教鞭をとっておられた。私にとっては、母校での大々々先輩ということになる。先生、普段は口に出されないのであるが、お酒が進んだ時などには同志社に対する熱い想いを語ってくださることがある。
 会場には早く着きすぎたが、しばらく待つと、KJ大学のNM教授も聞きにこられる。ウチの奥様もやや遅れて合流。
 高橋先生の御講演は、さすがにリキの入ったものである。平家都落ちという、わずか一ヶ月程度の大激震を、ひとつひとつ克明に分析される。その中で、あらゆる障害をモノともしない後白河法皇の強烈な意思の貫徹を強調されたところなど、従来の優柔不断な後白河法皇像を一変させるものではなかろうか。「朝敵」という言葉が本来の漢語ではなく、おそらく源頼朝の造語だなんて、まさに目からウロコ、である。終了後は、懇親会。高橋先生は、ここぞとばかり待ち構えていた大学院生連中に取り囲まれて質問攻めにあい、ちょっとしたスター並みである。とっても満足の日、だった。
 
Ts2d0032_2←12/9。ウチの奥さんと食事に出ようと思ったら、お気に入りの中華料理屋さんはもう閉まっていた(;ω;)。しかたないので奥様御勧めのフレンチにしようとしたら、そちらも臨時休業。あらら。ふと見ると、そのフレンチの隣にインド料理(+ネパール料理)レストランのTAJ MAHALという店がある。たまにはインド料理もいいか、というのではいってみる。おおきなおおきなナン。焼きたてで、とっても美味。左側は、ネパール風のシューマイ。
P1090359←これは、裏寺町の四条にあるフランス料理店、キッチン今村亭。ダンナさんと女将さんのふたりだけでやっている小さな小さなお店である。昔々はよく行ったのだが、どういうわけか足が遠のいており、今回は久しぶりの訪問となった。昔と味が変わっていたらどうしよう、と思ったのだが、杞憂だった。決してゴージャスではないが、心のこもった絶品のフランス料理を出してくれる。おいしかった〜〜(o^-^o)

2008.12.05

西大寺で遊ぶ、の巻

山中章博士も中国から無事に帰国し、バリバリと仕事を片付けていっている御様子、まったく御同慶のいたりである(^Д^)。この分だと未来は明るいぞ。

 12月1日(月)
 出勤するために近鉄電車に乗ったら、ついウトウトとしてしまい、ハッと目を覚ますと新田辺駅でドアが閉まるところだった(つд⊂)。授業疲れで帰りの電車で寝過ごすことはしばしば経験しているが、往路でこんなことは始めてだ。これも、復路であれば京都駅が終点だから、そんなに実害はない。しかし往路となると、この電車は急行だから、次の新祝園駅で降りて引き返さなくてはならないことになる。
P1090374_2 しかし、転んでもタダで起きず、地頭は倒るるところに土を掴め、崖から落ちてもキノコを採って這い上がれ、と、いうほど大げさではないのだが、せっかく乗り過ごしたし、今日の授業にはまだ時間があるから、そのまま奈良まで行ってしまうことにした。最近、直木孝次郎氏の論文を読んで称徳天皇陵についてちょっと勉強してみたので、久しぶりに西大寺を訪れる。いうまでもなく、これは奈良時代後期に称徳天皇が創建した巨大寺院である。
 やっぱり行ってみるもんだね。もちろん、始めて来たというわけではないのだが、今まで知らなかったことばかり。愛染堂では、叡尊上人サマ(興正菩薩、というそうだ)の木像にお目にかかる。中世前期に大活躍したお坊さんであり、京都でもあちこちでこの方の事績に出会うことができる。現境内から少しはなれたところの奥の院は、この人の墓所。堂々とした立派な五輪塔に感銘を受ける。
 本堂の前の巨大な東塔の基壇(写真)を眺めていて、周囲に八角形の石列が並んでいることに気づいた。ふ〜ん、と思いながら説明板を読んで、たまげた。この塔、もともとは八角九重塔として建て始められ、それが途中で方形塔に変更されたのだという。八角九重塔といえば平安時代後期に建てられた京都の法勝寺のものが有名なのだが、それより数百年前に西大寺には同様の巨大タワーが計画されていたのである! 称徳天皇という人、単なる異常性格の困ったバアさんかと思っていたのだが、それだけで済ませたら気の毒だということがよくわかった。
 それから、四天王堂にはいる。薄暗い中に安置されている四天王像の邪鬼は称徳天皇時代のものだという。ほうほう、なるほど。その真ん中の十一面観音像を見て、圧倒された。身長6mを超える巨大像である。これは凄い。しかし、解説を読んで、またまたぶっ飛んだ。この像、もともとは鳥羽法皇が造らせて京都の法勝寺に安置していたものを、亀山上皇の命によってこの西大寺に移したのだという。つまりこれは、院政期の白河・六勝寺の重要な構成要素の仏像なのである。偶然とはいえ、またまたここで法勝寺が出てきた! この巨大な彫刻、やっぱり院政期の破天荒な文化的風潮が生み出したものなんだな。
 こんなことがあると、電車の乗り過ごしも悪くないな。これからちょくちょく寝過ごしてみよう( ̄▽ ̄)。もっとも、授業に遅刻すると困るけれども。

2008.12.01

百舌鳥御廟山古墳を見、ゲルギエフを聴く、の巻

P109031311月28日(金)
 現在も、宮内庁によって天皇・皇后や皇族の陵墓に治定(「ちてい」ではなく「じじょう」と訓む)されている古墳や遺跡や建造物には、原則として立ち入ることはできない。これが考古学・歴史学研究への大きな障害となっているのは周知の事実である。そこで、考古学や歴史学の学会では、この30年の間、共同して宮内庁に陵墓公開を求めてきた。なかなか宮内庁のガードは固いのだが、最近では少しそれに変化も見えてきた。
 と、いうことで、今回は宮内庁の「陵墓限定公開」として、大阪府堺市の百舌鳥古墳群にある百舌鳥御廟山古墳(宮内庁では「百舌鳥陵墓参考地」と呼ぶ)が選ばれた。各学会から合計40数人が参加。私は、(財)古代学協会の陵墓担当の資格での参加である。
 今回の陵墓限定公開の特徴は、百舌鳥御廟山古墳の墳丘裾部の発掘調査を、宮内庁と堺市埋蔵文化財センターが「同時調査」をおこなっており、堺市による調査地は市民への公開がなされる、ということである。なぜこんなことになったかというと、百舌鳥御廟山古墳は墳丘部だけが宮内庁管理であり、周濠は堺市管理の民有地であるからである。宮内庁と堺市は綿密に打ち合わせして調査にはいったということであり、一本のトレンチ(試掘溝)が、境界線を境にして宮内庁分と堺市分とに分かれている。この場合、もちろん土層断面図などは一続きになるものが作成されるはずだし、遺物も場合によっては両者の調査のものが接合するということもありうる。そして、墳丘に接した部分に堺市が見学用の仮設通路を設置しており、11月29・30日にはこれを市民の方々にも公開する、ということになっている。
 我々も、この仮設通路からの見学ということになり、トレンチに近づくことに限界があったので、いささか隔靴掻痒の気分である。このことを陵墓公開の退歩とみるか、堺市との同時調査と市民公開という点を評価して陵墓公開の進歩と見るか、いささか悩ましいところである。でも、埴輪列や葺石が綺麗にでているところがあり、これは堪能する。
 見学終了後には、みんなで堺市博物館を見学し、その一室をお借りして討論会をおこなう。
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 さて、討論会終了後には、ビールの誘惑に後ろ髪を引かれながらも帰洛を急ぐ。京都コンサートホールに滑り込み、頭を古墳から音楽に切り替える。「京都の秋音楽祭」の掉尾を飾るロンドン交響楽団の演奏会があるのである。指揮は、今、人気絶頂のワレリー・ゲルギエフ。曲目は、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第3番」(ピアノ:アレクセイ・ヴォロディン)とプロコフィエフ「ロメオとジュリエット」組曲である。あれっ、と思うと、私の目の前の席にはKF大学のIN教授が座られる。幕間にロビーに出ると、某古代史研究者ことKMさんに声をかけられる。NHさんとご夫婦で来られているとのこと。
 ヴァイオリンを両翼に配置し、チェロやコントラバスを向かって左手に、金管楽器を向かって右手奥に島状にかためるのはゲルギエフの趣味だろうか? あんまり見たことのない楽器配置である。オーケストラはやっぱり凄い。クライマックスでは身震いがするほどの迫力である。ラフマニノフでのピアノは若いピアニスト。初めて聞く名前なのだが、ゲルギエフに同行するくらいだから注目株なんだろうな。ただ、ちょっとピアノがオケに呑まれてしまったような感を受けたのは残念(ピアノのアンコールのショパンのマズルカのロマンティックな演奏は良かった)。ゲルギエフの指揮は指揮棒が無く、10本の指をヒラヒラさせながらなので、なんだかピアニストがふたりいるようなイメージを受けてしまった。プロコフィエフは管楽器が活躍する曲だけに、ロンドン響の名手の妙技が炸裂。チューバなんか、度肝を抜かれるほどの圧倒的な存在感だった。
 どうでもいいことだが、チェロの真ん中の黒髪の女性奏者、なかなかの別嬪さんだった。また、コンサートマスターはなんだか若き日のウラディーミル・ホロヴィッツを想わせる風貌の人。ホロヴィッツがヴァイオリンを引きまくっているようで、なんだか可笑しかったヘ(゚∀゚ヘ)。

 ロンドン交響楽団を聞くのは、実は約30年ぶり。ただ、前の機会の指揮者は、当時は「幻の指揮者」と言われていた故セルジュ・チェリビダッケだった。チェリさんを聞いたことがある、というのは、今ではちょっとした自慢かもしれないな┗(^o^ )┓。
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P1080987←11月18日、祇園のお茶屋「福島」に招いてもらって「平安京」のミニ講演。祇園だということで、祇園歌舞練場の裏側の崇徳天皇廟をネタにすると、聞いてくれた人の中に「自分の先祖は崇徳上皇が讃岐に流された時に同道した従者だったと伝えられている」という方がおられて、びっくりびっくり。拙い講演の後は、すばらしい京料理と舞妓・芸妓さんの踊りを堪能。

2008.11.24

森浩一先生、傘寿おめでとうございます、の巻

P1080958←京都は紅葉まっさかり。あちこちの名所は押すなへすなの大混雑である。でも、穴場はある。これは比叡山西麓の赤山禅院。真っ赤な紅葉と珍しい寒桜のコラボレーションがうつくしい。

11月23日(日)
 四苦八苦していた原稿のひとつがやっと完成。NJ大学のT先生のもとに発送し、ちょっと一息。しかし、まだまだ未成原稿の山は低くならないぞ・・・(´Д⊂グスン
 夕方、京都タワーホテルで、「森浩一先生傘寿をお祝いする会」。昨年の11月にも傘寿記念会がおこなわれているが、それは同志社大学考古学研究室の主催であり、今回は先生が若い頃から手塩にかけて育ててこられた古代学研究会の主催である。ようやくぎりぎりで滑り込む。まずは先生が、「古代学研究会の出発と膨らみ」という講演をおこなわれる。先生、体調を崩されてからは、必要不可欠な以外は講演をセーブしてこられたから、私も先生の講演を聞くのは久しぶりである。改めて聞かせていただくと、森先生が古代学研究会と雑誌「古代学研究」をいかに大事にされてきたかということと、古代学研究会の活動を自分の青年期から壮年期にかけての基軸とされてきたかということがよくわかる。嬉しかったのは、体調がすごくよさそうにお見受けしたこと。昨年とか一昨年はかなりお痩せになっておられて、ちょっと心配した。今日はお顔の艶もよく、話も絶好調である。
 そのあとは、会場を移動しての祝宴が始まる。古代学研究会の菅谷文則代表(滋賀県立大学名誉教授)が軽妙な開会挨拶。先生も、奥様(森淑子同志社女子大学名誉教授)とともに微笑みながら聞いておられる。菅谷さんのおっしゃる「文人考古学」、まさに森先生にぴったりの言葉だと思う。
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書いたもの
◎山田邦和「森浩一先生の知的格闘技」(『森浩一先生傘寿記念 大寿祝賀文集』所収、枚方、古代学研究会、2008年11月)34頁

2008.11.09

日本考古学協会2008年度大会、の巻

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 11月8・9日(土・日)
 日本考古学協会の大会。今回は愛知県名古屋市の南山大学が会場となる。開会までちょっと時間があったので、名古屋のど真ん中の愛知県芸術文化センターに行って、愛知県美術館を見学。パリのポンピドゥー・センターをモデルにしたというだけあって、巨大な芸術の複合施設である。
 ぎりぎりで考古学協会大会に滑り込み。今回は、「縄文時代晩期の貝塚」「農耕社会の民族考古学」「東海地方の窯業生産」の三つのシンポジウムが併行する。縄文は割愛するとして、まずは窯業生産の会場に潜り込む。東海地方の窯についてはしばらくご無沙汰だったので、思い出しながら最新の研究成果を聞く。また、民族考古学シンポでは、ウチの大学に先年まで在職されていたGA教授がコーディネイターを務められるとともに、私の同僚のOH准教授、さらに同志社大学のWK准教授の報告があるので、それをお目当てに聞きにいく。専門外だが、民族考古学ってなかなか面白いものだな。
 夜の懇親会は、名古屋中心部のホテル。この時にしかお目にかかれない方々が多いので、挨拶回りに飛びまわる。S県立大学に行かれた、私の元同僚のSH教授とも久しぶりの再会を果たす。同大学のSF名誉教授は、「最近の考古学はデータばかりになっている。昔ながらの『文人考古学』を復興させよう!」と怪気炎。どうやら、私も「文人考古学」のお仲間に入れていただいているようで、光栄の限りであるψ(`∇´)ψ。そんなことをしながら二次会までいくと、例によって例のごとしのぐでんぐでん。

 いささか二日酔いの頭を振りながら二日目の会場に行くと、受付に若い女性歌手のCDとチラシが置いてある。あれっ?と思って側を見ると、その御本人が座っておられた。長野県を拠点にして活躍しておられるシンガー・ソング・ライターの美咲さんとおっしゃる方で、長い髪が印象的な、とっても綺麗な女性である。この方、遺跡や文化財に大変々々関心がおありで、信州では現代と古代のコラボレーションを目指した「縄文の女神LIVE」という活動を続けておられるそうで、それがご縁で今回の日本考古学協会大会に呼ばれたのだという。おやおや、お固いばかりが取り柄かと思っていた我が日本考古学協会、なかなか味なことをやるようになったじゃないか( ̄ー ̄)ニヤリ。これは聞き逃せないので、昼休みはライヴの会場に席をとる。美咲さん、縄文時代をイメージした貫頭衣ふうの衣装にギターを持ち、透き通るような爽やかな歌声を響かせる(写真)。うん、これは良いじゃないか。うん、大変に良いぞ。
 せっかくだからCDを手に入れようと思って受付に急ぐと、東アジア考古学の権威として知られるMK教授が先に並んでおられた。彼も大変に気に入ったようで、CDを三枚も購入、愛娘の名前を入れたサインまでしてもらっていたぞ(おやおや、なかなか娘さん想いの良いお父さんじゃないか(・∀・)ニヤニヤ)。私も彼につられて、サインをねだる。
 
 午後は、考古学協会の埋蔵文化財対策委員会の連絡会に出席。3時から白熱の討論が続き、予定を大幅に超過して、終わったのは六時過ぎ。くたびれたけれども、各地の最新の問題点の情報を得ることができる。

2008.09.22

清水寺を語り、書写山に登る、の巻

 9月19日(金)
 朝日カルチャーセンター京都の巡見で、醍醐寺の見学会。しかし、台風が接近しているというので気が気ではない。あんのじょう、ポツリポツリと降り出したかと思うと五重塔の前で大雨になる。あわてて三宝院に駆け込んで、庭園を眺めながら雨宿り。
 先日、上醍醐の准胝堂<じゅんていどう>が落雷で火災となり、全焼した。現在、上醍醐への入山は全面禁止となっている。自然災害ではあるし、上醍醐の重要文化財建築は難を逃れたとはいえ、なんとも心痛むことである。

 9月20日(土)
 明後日の予習を兼ねて、清水寺の拝観。ものすごい数の観光客に圧倒される。ちょうど、花山法皇1千年の御遠忌ということで、秘仏のご本尊・十一面千手観音菩薩像の御開帳がおこなわれている。

 9月21日(日)
 伯父の誕生祝い会。90歳の高齢であるが、まだまだカクシャクとして元気でいてくれるのが嬉しい。どうかいつまでも健康で長寿を保たれんことを・・・

P1080171 9月22日(月)
 姫路市教育委員会主催の「平成20年度市民教養講座 歴史遺産Cコース・世界遺産の寺社を訪ねる」の第6回「清水寺・地主神社」に出講。中世史の大家・UM先生から御指名をいただいたので、喜んで出かける。会場は姫路市市民会館の大ホール。驚くべきことに、600人くらいの参加者がおられるという。10時から11時50分までの2時間近くという長講一席だが、それもみなさん熱心に聞いていただく。姫路市民の旺盛な知的好奇心には、まさに脱帽である。
 午後から時間が空いたので、せっかく姫路まで来たのだから、書写山円教寺(えんきょうじ、だと思っていたら、えんぎょうじ、なのだという)に登ることにする。これまで行きたい行きたいと思っていたのだが、なかなかその機会に恵まれなかった。ロープウェーで山上まで上がったのでもうすぐだと思ったらとんでもない。さすがは播磨の名刹、巨大な境内地と伽藍を持つ大寺院である。山道をふうふう言いながら中心伽藍にたどりつき、摩尼殿(写真)や大講堂(本堂)の壮麗さに見とれる。

2008.09.21

『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り』、の巻

Kisyuu ステキな本ができあがった。西幹夫(写真)、黒川美富子(紀行文編集)『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』(文理閣)。中国・貴州省の写真集・紀行文集である。私も、「民族で見る貴州」という一文を寄稿させてもらった。
 とにかく、写真がすばらしい。著者の西幹夫さんという方、普通のサラリーマン生活を送ってこられたのだが、50歳の時にふと思い立って写真教室に通い始めたという。そして、特に中国の周縁地域に魅せられて取材旅行を続けて来られた。こんな言い方をすると失礼ではあるが、大器晩成、という言葉がピッタリくる。この本のどの頁からも、貴州省の土の匂い、人々の息吹がただよってくるのを感じざるをえない。その1コマ1コマを丹念に切り取った西さんの才能には、まさに脱帽である。
 そもそも日本では貴州省はあんまり知られていないし、貴州をテーマとした単独の書物もほとんど見られないはずだ。その意味でもこの本は貴重な存在になったと思う。

 私が貴州に行ったのは、2002年の年末から翌年の正月までのことだった。西さん・黒川さんのお供をさせていただいて、始めて異国の地で大晦日と正月を過ごした。しかし、暖かいはずの貴州に大雪が降るという、何十年に一度の異常気象を体験した。その顛末は本書所収の紀行文に書いたので、ご興味のある方は御覧いただければ幸いです。ただ、今年の初めの「チベット騒乱」などの事件によって、中国の少数民族政策の矛盾と問題点が白日のもとに晒された。そうした危惧も盛り込んだので、紀行としてはちょっと毛色の変わった内容かもしれない。

 本書のお問い合わせは、書店または、「図書出版・文理閣」(京都市下京区七条河原町西南角、電話075-351-7553)へどうぞ。

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【書いたもの】
■山田邦和「民族で見る貴州」(西幹夫〈写真〉、黒川美富子〈紀行文編集〉『中国貴州省 少数民族の暮らしと祭り—苗族・トン族・プイ族・老漢族の村々を行く—』所収、京都、文理閣、2008年9月)、213〜222頁。
■山田邦和(監修・文)「リアルイラスト 【鳥瞰】秀吉時代の京都」(『決定版 図説 戦国合戦地図集』〈「歴史群像シリーズ」特別編集〉所収、東京、学習研究社、発行年不記載〈2008年〉)、93〜96頁(「鳥瞰イラスト 秀吉の京都」〈歴史群像シリーズ 戦国セレクション『驀進 豊臣秀吉』所収、東京、学習研究社、2002年4月〉の再録)。
■山田邦和「学界消息〜角田文衞氏の訃」(『日本歴史』第724号掲載、東京、吉川弘文館、2008年9月)、139頁。

2008.09.08

中世都市研究会大会、の巻

 9月4日(木)
 井上道義指揮京都市交響楽団の演奏会。曲目は、モーツァルト:アダージョとロンド、クセナキス:ノモス・ガンマ、ホルスト:組曲「惑星」。実はこれ、1990~1998年に京響音楽監督&第9代常任指揮者を務めた井上さんが、1990年7月に音楽監督&常任指揮者就任披露演奏会(京響第326回定期)で演奏したプログラムをそっくりそのまま再現したものだそうだ。モーツァルトは、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの四重奏曲で、井上さんは指揮とチェレスタを兼ねている。クセナキスの曲は、オーケストラが指揮者を取り巻くサラウンド形式で、一番外周には四組の打楽器が配され、迫力満点の音を出す。
 聞き物はなんといっても「惑星」。私の大好きな曲である。この曲での井上さん、いつものようなケレン味をいささか押さえて、着実な音づくりをやっている。「惑星」といえば金管群の見せ場が多いので、ちょっと心配していた。しかし、この期待は良い意味で裏切られた。いゃあ、京響の金管がこんなにウマかったなんて! 特にチューバの活躍がすばらしい。さらに、京都コンサートホール自慢の、日本最大級のパイプオルガンが加わって、迫力満点の合奏を聴かせてくれる。

P10709589月6・7日(土・日)(上:方形周溝墓の表示、下左:弥生2丁目遺跡、下右:弥生式土器発掘ゆかりの地の石碑)
 東京で、2008年度中世都市研究会「都市を比較するーー東アジアの都市と住宅」。行きたいとは思っていたのだが最後まで予定がたたず、ほとんど諦めていた。しかし、ウチの奥さんが背中を押してくれて、やっと出かける決意がつく。
 会場は東大だとしか聞いていなかったので、地下鉄の本郷3丁目駅で降りる。東大の赤門まで行って係の学生さんに聞くと、なんと、赤門からは正反対の浅野キャンパスだという。ぐるっと回り道をして、やっと到着。しかし、このあたりは日本考古学にとっては記念的な遺跡、つまり「弥生式土器」「弥生時代」の名祖<なおや>となった旧・本郷弥生町の向ヶ岡貝塚である。浅野キャンパスの隅には「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑(写真)が立っている。会場の綺麗な建物の隅には、発掘された方形周溝墓が表示されている(東大のTS准教授が案内してくれた。TSさん、ありがとうございましたm(_ _)m)。さらに、キャンパスの隅っこには「弥生2丁目遺跡」の一部が残されている(写真)。
 今回の中世都市研究会は、東アジア各地の都市と住宅がテーマ。朝鮮半島、中国大陸、ベトナム、鎌倉、十三湊、益田、博多、豊後府内の、それぞれ最新の成果を勉強させてもらう。懇親会ではひさしぶりの先生方に御挨拶。二次会はKRM博物館のMJさんと痛飲。

2008.09.04

ひとつの仕事、完了、の巻

 9月3日(水)
 ずっとずっと懸案になっていた(と、いうよりも、ズルズルと遅れていた)大きな仕事がある。今度こそなんとかしなくては、ということで、一気にとりかかることにした。問題になるのは図面。昔々に作った図面が沢山あるし、それをそのまま使っても良いのだが、やはり、せっかくだからもっと綺麗なものを、という欲がでる。これが間違いのもとで、結局は図面の山を前にして歎息を続けるだけということになってしまった。気を取り直してひとつづつ片づけていくのだが、文章を綴るのではなく、図面というのはやっぱり肩が凝る。ホント、身体を壊す寸前まで行った気がするぞ(>_<)。
 まだまだ不都合は残っているような気がするが、いつまでもそんなことを言っていたらまたズルズルと延びることは必定である。目をつぶってエイヤッと完了し、小包にして発送。ふぅ・・・・ くたびれた・・・

2008.08.18

北野天満宮の神像群、の巻

Daimonzi8月16日(土)
 今年も、大文字。3匹の犬君たちとともに、送り火に向かって手を合わせる。ルークにとっては始めての経験である。

 8月17日(日)
 新聞で見たので、北野天満宮にでかけて、宝物館で開催中の「神々の群像—一千年の時をこえて—」を拝見。本殿の奥の箱の中に平安時代中期の鬼神像群が眠っていたというから、ホント、まだまだ何が出てくるかわからないね。このたび、めでたく再び日の目をみて修理され、国の重要文化財指定という晴れ着をまとっての一般公開である。公式見解では「岐神<くなどのかみ、ふなどのかみ、ちまたのかみ>」の像とされている。私はその見解にはちょっと異論を差し挟みたいが、それでも平安時代の民衆の信仰を知るための一級史料であることは疑いない。彫刻としては稚拙だが、大きな目を見開いてどこかユーモラスな神像群に見入る。

2008.08.16

ウナギとハモと焼肉、の巻

P1070619_3←〔下鴨神社の御手洗祭〕 まだまだ暑い日が続きますね。う〜。原稿が進まないよ〜〜〜。
 
 8月2日(土)
 京都市埋蔵文化財研究所の平安京左京八条三坊四・五町跡発掘調査の現地説明会。場所はなんと!京都駅のまっただ中である。いつも近鉄電車を使う時に、近鉄京都駅とJRの線路に挟まれた細長い空間で発掘調査がおこなわれているのがよく見えていた。なんでも、近鉄がここにホテルを建てるということらしい。駅直結なので確かに利便性は良いが、この土地ではほとんど屏風のような感じの建物になってしまうだろうな。しかし、わずかな空間も有効活用しようという、なかなかに商魂たくましいことである。
 現在は京都駅の中にとりこまれてしまっているからよくわからなくなっているが、このあたりは平安時代末期〜鎌倉時代の京都を語る場合に見逃すことができない、八条院暲子内親王御所の周辺である。八条女院は鳥羽上皇と美福門院藤原得子の皇女で、両親から莫大な量の荘園を受け継ぎ、王家の資産管理者ともいえる日本最大の財産家であった。現在の新幹線の京都駅のあたりが八条院御所の跡地にあたる。今回の発掘調査地の八条三坊五町を見てみると、なんと、女院とも関係が深かった平頼盛の「池殿」の跡地である。いうまでもなく頼盛は清盛の異母弟で、平氏の中で清盛と並ぶ勢力を持っていた人物である。今回の発掘では頼盛に直接結びつくことが確実な遺構は見られないようであるが、やや時期の降る精美な泉が検出されていて、この地の邸宅が「池殿」と呼ばれた由来をうかがうことができる。最近では私も、平氏政権期を含む院政期を勉強する機会が増えてきたから、感慨深く眺める。
 それにしても、この暑い中で、しかも近鉄と新幹線の駅とJRの線路に挟まれた細い細い空間での発掘調査は大変なことである。調査担当者の皆さん、ご苦労様です!

 8月8日(金)
 某出版社でK大学JK研究所のTH氏と、次の企画の打ち合わせ。楽しい本になりますように・・・

 その後、久しぶりに大阪府枚方市にでかける。京都府立大学、京都橘大学、大阪大学の各考古学研究室が合同で、禁野車塚古墳<きんやくるまづか>の測量調査をおこなっているのである。高校生の時、学校の近くだったので、帰宅途中に枚方市のあたりの遺跡にはよく寄り道をしていた。禁野車塚古墳は京阪電車の宮之阪駅の隣だったし、また枚方市駅からもそんなに遠くなかったので、繰り返し繰り返し訪れたものである。最近では行く機会がなかったし、今年度は京都府立大学に出講させていただいているので、同大学で私の授業をとっている学生さんも参加しているというので、せっかくだから見学させてもらうことにした。
 残念ながら府立大学のHT准教授は不在であったが、枚方市文化財研究調査会のN氏が迎えてくれる。禁野車塚は、前方部の西端を現在の天野川がかすめている。もちろん流路は変わっているだろうが、この古墳の被葬者が川と密接な関係を持っていたことは疑いない。古墳は、後円部が高い割には前方部が低く真っ平ら。しかも現状で見る限り、前方部は三味線撥形に開いている。これも、後世の改変が加わっている可能性はあるが、それでも基本的な形はこの通りで良いのではないかと思う。撥形前方部を持つ前方後円墳を考える上でも、重要な古墳だと思う。
 N氏に聞いてみると、すぐ近くの特別史跡・百済寺跡でも枚方市教育委員会が発掘調査をおこなっている最中だという。担当者は私の大学での先輩であるOH氏なので、突然ではあるが覗かせてもらうことにする。大阪府には国の特別史跡はこの百済寺跡と大阪城のたったふたつしかない。また、史跡公園として整備されたパイオニア的存在としても学界では著名な遺跡である。ただ、整備から何十年もたっているので、確かに公園のあちこちが痛んできている。今回、その再整備の方針を立てるために調査を進めているのだという。
 すぐに失礼するつもりだったが、久しぶりにOH氏とお会いできたので、つい話し込んでしまい、結局は仕事終了後に飲みに行くことになる。途中からN氏にも加わってもらい、楽しい時間を過ごす。Oさん、Nさん、ありがとうございましたm(_ _)m。

 8月9日(土)
  京都市埋蔵文化財研究所の平安京左京五条三坊九町跡発掘調査の現地説明会。2週続けての現説というのもめずらしいな。今度は、四条烏丸からほど近い市街地のど真ん中である。ハイライトは室町時代の埋甕の大群で、おそらくは酒屋の跡で間違いない。埋甕の直前と推定される土葬墓が検出されていることも興味深い。

P1070733_3P1070736_2 8月10日(日)
 図書出版文理閣のKM代表の御自宅で、校正に取り組む。と、いうのは表向き(いや、そんなことはないです。ちゃんと仕事もしました。写真左の左隅に、ちゃんと校正刷が写っているでしょ(^^;))で、実はごちそう。舌の上に乗せるとそのままとろけてしまうようなウナギの白焼き、そしてカツオのタタキ、締めはハモとお素麺のお鍋。どうです、おいしそうでしょう・・・

 8月14日(木)
 同志社女子大学の朧谷寿先生の古稀記念論文集の打ち合わせという名目で、10年会。いえいえ、名目ではないです。これもちゃんと仕事をしました。山中章博士とSM博士に、早く原稿を書くようにネジを巻く。祗園の焼肉屋で、めったに口にできない高級なお肉〔写真右〕。私たちの大切な仲間のAEさんが元気な姿を見せてくれ、しかも夜遅くまで付き合ってくれたことに感謝。
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【書いたもの】
 ■山田邦和「コンスタンティノポリスの思い出」「ニュース」(『土車』第116号掲載、京都、古代学協会、2008年3月)3頁・5頁。

2008.07.26

皆様お久しぶり、の巻

 書き込みが長らく中断していました。山田はもう死んでいるんじゃないかという観測が飛び交っていたようですが、それに近かったのは確かです。先月は、O先生の古稀記念論文集の原稿書きで煮詰まっておりました。前からモヤモヤと考えていたテーマですが、いざ書き出すと問題続出で、1行書いては2行消し、こっちの史料を引用してはあっちの史料でそれを打ち消す、ということの繰り返しでした。ああしんどかった・・・ 実は、テーマは「保元の乱」。なんでそんなテーマを、と言われそうですが、京女(きょうおんな、ではない。京都女子大学の略称)の野口実教授の研究会で、K大学のMY教授やSN大学のMK教授に教えていただきながら考えたことをまとめてみました。
 とにかく、その間、ほとんど他の仕事に対応できませんでした。御迷惑をかけた皆様方に深くお詫び申し上げますm(_ _)m。
 でも、ひとつ終わってホッとしたと思うと、タイミング良く次の催促が舞い込んできます。今年はこれで夏休みはすべて潰れそうだな・・・(>_<)

 もう時季はずれですが、日記、少し取り戻しておきます。
 
 5月31日(土)・6月1日(日)
 太秦映画村近くの常盤仲ノ町遺跡の現地説明会を見学した後、三重大学の科研費の研究会へ。ヴェトナム・タンロン皇城跡の調査報告会である。私は、例の、須恵器のような「円筒形土器」の編年についての予察を発表する。

 6月7日(土)
 (財)古代学協会の「仁明朝史研究会」。

 6月15日(日)
 前近代都市論研究会。船場のまんなかの大阪市中央センターで、KMさんとNHさんの報告を聞く。

 6月20日(金)
 全国大学博物館学講座連絡協議会の全国大会で、愛知県豊橋市の愛知大学に出かける。
 ちょっと早い目に出発して、豊橋市動植物公園「のんほいパーク」とその中にある豊橋市自然史博物館を見学。いやぁ、話には聞いていたが、すばらしい博物館だ。設備も充実しているし、何よりも、学芸員の皆さんの意欲がビンビンと伝わってくるような展示がおこなわれているのが感動的である。豊橋市、凄いぞ! 「文化施設なんかいらない」と声高に叫んでいるどこかの地方公共団体の首長に見せてやりたいものである。
 全博協の大会では、現在の博物館業界の問題点があぶり出され、勉強になる。ただ、今後、大学にも博物館を附設する方向性が推奨されていきそうだという感触を得、これは心強い限りである。

 6月21日(土)
 忙しい一日。ゼミのフィールドワークで、伏見の町を巡検。そのあと、ゼミのコンパ。それから、途中退席して、「10年会」。すばらしく美味しいグジ(甘鯛)の酒蒸しの大半を山中章博士にとられたのはちょっと悔しいが、巨大な牡蠣、満願寺唐辛子のスープ、極上のトロを堪能する。何よりも嬉しかったのは私たちの大切な大切な仲間で、難病と闘っているAEさんが元気な姿を見せてくれたことである。忙しかったが、幸せな一日である。

 6月26日(木)
 学校法人同志社の組合の団交。私はどういうわけか、今年の同志社女子大学単組の委員を仰せつかっている。

 6月28日(土)
 京都府木津川市の「木津川市ふれあい文化講座」に出講。会場となった木津川市中央交流会館のいずみホールの内部は、桟敷席なんかがあつて江戸時代の芝居小屋を彷彿とさせる面白い造りである。私の「奈良山丘陵の天皇陵」と、堺女子短期大学の塚口義信学長の「聖徳太子の虚像と実像」の二本立てである。

 6月29日(日)
 同志社女子大学社会システム学会の京都研究会の巡検で、宇治。あいにくの雨模様で、すっかり私が「雨男」にされてしまう。

 7月4日(金)
 京都SKY観光ガイド協会「京都SKY観光ガイド養成講座」に出講。夜は京田辺で、ウチの大学の音楽学科管弦楽団の演奏会を聞く。なかなかの力演。

 7月6日(日)
 大阪・和泉市で「和泉黄金塚古墳を考える」のシンポジウムがあるので、でかけていく。森浩一先生が基調講演をされるので、これは聞き逃せない。大きなホールがいっぱいになっているのは御同慶のいたりである。

 7月12日(土)
 オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席奏者たちが結成したロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団ブラス・クインテットを聞きに行く。世界第一級のオケの奏者の妙技を楽しむ。

 7月13日(日)
 日本史研究会の市民講演会「祇園祭―よみがえる歴史とイメージ―」に出る。河内将芳氏(奈良大学)の「冬の祇園祭―戦国時代祇園会の実像―」と、田中聡氏(立命館大学)の「紙芝居『祇園祭』の再発見」。特に、半世紀ぶりに甦った「紙芝居・祇園祭」の実演が聞き物である。

 7月20日(日)
 オープンキャンパス。ウチの学科のミニ講義を仰せつかっており、「史跡が語る京都の歴史」を午前と午後に開陳。

 7月23日(水)
 やっと、前期の授業の最終。夜はMK氏が東京から来られたので、D大学のMK教授とともにD大学内のフレンチ・レストランで歓談。

 7月25日(金)
 東京より、平家琵琶のSMさんが上洛。下鴨神社のみたらし祭に同道して、清らかな御手洗川の水に足をつける。

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【書いたもの】
 ■山田邦和「『源氏物語』の平安京—固定概念にとらわれない真実の姿求めて—」(『京都民報』第2336号〈2008年5月25日号〉掲載、京都、京都民報社、2008年5月)5頁。
【講演その他】
 □「平安京の天皇陵—大規模陵墓から仏式陵墓へ—」(京都アスニー「ゴールデン・エイジ・アカデミー講座」、於同センター、2008年5月16日)
 □「平安京への道」(ラボール学園〈京都勤労者学園〉「日本史講座—歴史のなかの京都と他所(古代・中世)—」、於同学園、2008年4月28日)
 □「平安京の世界」(京都府立嵯峨野高校社会人講師の講義、2008年6月3日、於京都府立嵯峨野高校)
 □「平安京・京都の歴史を歩く(21)初期摂関時代の展開と御室仁和寺」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2008年4月11日、5月9日、6月13日)
 □「京都の原点を探る 第7期 院政期の京都」(京都新聞文化センター〈京都検定・京都学講座〉、於同センター、2008年4月25日、5月23日、6月27日)
 □「奈良山丘陵の天皇陵」(木津川市・木津の文化財と緑を守る会・興福寺「第5回木津川市ふれあい文化講座」、於木津川市中央交流会館、2008年6月28日)
 □「京都の歴史(1)(2)」(京都SKY観光ガイド協会「京都SKY観光ガイド養成講座」、於はーとぴあ京都、2008年7月4日)

2008.05.28

平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」、の巻

5月25日(日)
 第17回 平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」を開催いたしました。多数のご来場、ありがとうございました。

 午前中は本能寺跡などを巡検。集合場所の阪急大宮駅に、どんどん人が集まってくる。問い合わせもかなりあったのである程度予想はしていたが、それでも嬉しい悲鳴である。山本雅和氏の解説付きで、大宮六角の本能寺跡、西洞院六角の本能寺跡(「本能寺の変」がおこった場所)、南蛮寺跡、妙覚寺跡、二条新造御所(二条殿)跡などを廻る。いつも通っている場所なのだが、やはり問題意識を持って見ると勉強になる。
 午後はシンポジウム。とうてい座席が足りないと予想できたので、急遽、新たな椅子をたくさん運び込む。吉川義彦、河内将芳、仁木宏、山本雅和の各氏による報告とコメントも充実したものとなった。私は仁木さんと共にシンポジウムの共同司会を担当。ちょっと討論の時間が足りなかったが、なかなか問題点があぶり出されてきたぞ。
 充実した研究会が終わったあとは、例によっての「打ち上げ」懇親会。受付に座っていただいたウチのゼミ生のKTさん・KCさんも参加してくれる(ご苦労様でしたm(_ _)m)。おそらく彼女らにとっては、こういう研究会も懇親会も始めての経験だったと思う。最新の研究成果がぶつかりあい、新たな問題意識に向かって止揚していく現場を経験することは、学問の素晴らしさを感じる一番の方法だと思う。これからも、できるだけ学生諸君にこうした現場を見てもらいたいと思う。

2008.05.21

平安京・京都研究集会「本能寺」予告、の巻

下記の通り、第17回「平安京・京都研究集会」を開催いたします。ふるってご参加ください。

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第17回 平安京・京都研究集会「戦国時代の本能寺と織田信長」
 ご無沙汰してしまい、申し訳ありません。平安京・京都の歴史の学際的研究を積み重ねてきた「平安京・京都研究集会」を久々に再開いたします。
 織田信長が思いがけない最期を遂げた本能寺の変は、戦国の世を揺るがす大事件として、天下統一への歩みを大きく塗り替えました。近年、本能寺跡の発掘調査がめざましい進展を見、従来では考えられなかったような新知見が続々と提示されつつあります。この機会に、本能寺の変の解明を単なる「謎解きゲーム」に終わらせるのではなく、京都の都市史の中に的確に位置づけようとする試みに挑戦いたします。考古学と文献史学のコラボレーションによる新しい歴史像の表出にご期待ください。

日 時 2008年5月25日(日)
現地巡見 午前10時、阪急電車大宮駅改札口集合(本能寺跡、南蛮寺跡、妙覚寺跡、二条御所跡など)         案内:山本雅和氏(京都市埋蔵文化財研究所)
シンポジウム  午後1時半〜午後5時
  場 所 機関誌会館5階大会議室(京都市上京区新町通丸太町上ル東側。市バス府庁前下車すぐ。または地下鉄丸太町駅下車2番出口より西へ2筋目を北へ、徒歩5分)
  報 告   吉川義彦氏(関西文化財調査会、考古学) 「本能寺跡の発掘調査」
        河内将芳氏(奈良大学、日本中世史) 「文献史料からみた中世の本能寺」
  コメント  仁木 宏氏(大阪市立大学、日本中世史) 「都市京都と本能寺・信長」 
        山本雅和氏(京都市埋蔵文化財研究所、考古学) 「本能寺の発掘調査への所見」
主催  平安京・京都研究集会   後援  日本史研究会
要資料代。一般来聴歓迎。
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皆様へお願い
 平安京・京都研究集会の案内は、従来は郵便でおこなってきましたが、省力化と会計の簡素化のため、今後はできるだけ、電子メールの利用に切り替えていきたいと考えます。電子メールでの連絡は無料とさせていただきますので、できるだけこちらのご利用をお願い申し上げます。下記のアドレスに、住所・氏名・所属を明記の上、「電子メールでの連絡希望」と書いてお送りいただければ、会員名簿に登録いたしますので、よろしくお願い申し上げます。
平安京・京都研究集会 事務局 山田邦和 FZK06736アットマークnifty.ne.jp(スパムメール防止のため、一部変更しております。「アットマーク」は「@」です)

2008.05.20

角田文衞先生御葬儀、の巻

Hon〈←角田文衞先生の御著書・編纂書の数々。圧倒される・・・〉

 5月14日に95歳で御逝去された角田文衞先生の御葬儀は、通夜が18日(日)18時〜19時、告別式が19日(月)12時半〜14時半に、いずれも、京都駅八条口からほど近い公益社京都南ブライトホールにおいておこなわれた。私は受付の隅っこでお手伝いをさせていただく。さすがに大先生の御葬儀だけあって、ホールは満杯である。告別式での弔辞は作家・瀬戸内寂聴さん、京都大学名誉教授・樋口隆康先生が読まれた。最後のお別れを、ということで棺の中に花を捧げると、そこには小さく小さくなられた先生が眠っておられた。感謝の言葉をつぶやきながら合掌するが、思わず目頭が潤んでくる。

 私が始めて角田先生の御名前を知ったのは、小学校六年生の時であった。町を自転車で走っていた私は、『紫式部邸宅跡』という看板を掲げた廬山寺というお寺を見つけた。あれっ、紫式部はウチの近所に住んでいたんだ、と思ってなんだか嬉しくなった私は、早速、寺の境内に入ってみた。本堂の前には白砂と苔で造られた清楚な庭があり、そこに紫式部の邸宅跡を示す大きな石碑が据わっていた。本堂の長押の上には、ここに式部邸が存在したことを考証した壮年の学者の写真がかかっていた。キリリとひきしまった端正な容姿が、子供心にも強い印象を与えずにはいなかった。お寺の人が「これは平安博物館館長の角田文衞先生といい、ここに紫式部が住んでいたことを証明してくださった偉い先生なんです」と説明してくれた。これが、私と角田先生との『出会い』だった。
 後年、この話を先生にすると、「あなたはそんな早くから私の名を知っていてくれたのですか」と、逆に感激していただいた。光栄なことである。

 廬山寺ではさらに、平安博物館は三条高倉にあるということを教えてもらった。ヘェ、三条高倉ならばウチのすぐ近所だ、と思うと、私は今度は平安博物館の探検にでかけた。重厚な赤煉瓦の建物の入口をくぐると、展示室はひっそりと静まりかえっていた。京都の人にとって「博物館」というのはまず京都国立博物館のことであるし、私も同博物館には行ったことがあった。しかし、平安博物館は私がそれまで知っていた博物館像とはまったく異なった博物館であった。過去の文化財を単なる美術品として並べるのではなく、そのひとつひとつに歴史を語らせようとする意図が痛いほど伝わってきた。特に、中央ホールの実物大の平安宮内裏清凉殿復元模型は圧巻だった。平安博物館は日本の「歴史博物館」のパイオニアであったのである。私はすっかり魅了されてしまった。こんな博物館を造りあげた角田先生とはどんな人なのだろうか。それ以来、私の心には先生の名前がくっきりと刻み込まれることになった。

 高校時代には、清水睦夫先生「世界史」の講義を受けることができた。清水先生は当時の日本では珍しいロシア・東欧史の学者で、角田先生の高弟であった。私は清水先生の名講義(明らかに、高校の授業のレヴェルをはるかに突き抜けていた)を通じて、「角田史学」の真髄に触れたのである。それに刺激された私は、角田先生がローマ帝国の章を執筆された山川出版社の『世界各国史・東欧史』(旧版)を紐解いた。この本は、帝国の東西分裂を認めず、古典ローマ帝国→中世ローマ帝国という体系でヨーロッパ史を理解しようとする史観で貫かれていた。そこにあったのは、教科書的なヨーロッパ史とはまったく違った世界だった。歴史とは視点を変えることによってどんなに魅力的になるものなのか、それを私は始めて教えられたのである。
 清水先生は、私の家が京都の中京にあることを知り、時々、『古代文化』への起稿論文を平安博物館に届けて欲しい、と頼まれるようになった。郵送すれば済むことなのであるが、それをわざわざ私に命じられるのは、私が考古学に志していることを知っておられたから、平安博物館とのつながりを作ってやろうというお気持ちだったのだと思う。そうして改めて訪ねてみた平安博物館は、高校生の私にとってはまさに見上げるような学問の殿堂であった。当時の私にとって、平安博物館というのは憧れの的であった。

 大学進学が決まる頃、私は『古代学序説』の読破に挑戦した。この名著の『凄さ』については既に語り尽くされている。考古学・文献史学等の統合の上に立ち、世界史的な視野にもとづいた『古代学』の偉容! それは、まさに圧倒的な感銘を私の心に残すものであった。
 当時、平安博物館では大学の授業に準じた「古代学講座」を開催していた。平安博物館の研究員がそれぞれ自分の分野の講義をおこなうのである。館長・角田先生御自身は、土曜日の午前の授業を担当しておられた。大学2回生の時、私は角田先生の講義の受講を申し込んだ。驚いたことに、館外からの受講生は私ひとりで、他は平安博物館の研究員(学界の第一線で活躍されている早々たる先生方である)が受講されるのである。角田先生の講義は、独特の東北弁の訥々としたものであったが、内容は厳しかった。角田先生は絶えず研究員を指名して質問をあびせかけ、答えられないと「あなた、こんなことも知らないのですか」「考古学をやっている以上、こんなことは常識です」などとキツイことを言われるのである(その実況中継の一部は、語りぐさになっている「設問・平安博物館研究員諸氏との対話」〈『古代文化』第32巻第12号〉に見ることができる)。

 駆け出しの時代にこうした高い理想を持つ史観に触れたことは、その後の私の歩む道を決定した。私は今までにさまざまな細かい研究にとりくんだが、そのそれぞれが私なりの『古代学』のテスト・ケースであるという意識は失っていないつもりである。ある人は私の研究を、考古学者としては珍しく文献史学の成果の吸収に積極的だ、と評してくれる。もし本当にそうだとすると、それは私が、『角田史学』から学んだ通り、考古学者である以前になによりもまず歴史学者でありたい、という願いを常に持ち続けているからだと思う。その意味で、『角田史学』に触れることがなければ今の私は存在しなかったであろう。

 大学院博士課程前期を修了した後、私は平安博物館研究嘱託(非常勤)・同館発掘調査部調査員として半年過ごし、それから(財)古代学協会研究員・平安博物館助手に正式採用された。平安博物館への就職が決まった時の嬉しさを、私は生涯忘れないであろう。古代学協会での仕事で最も思い出深いのは、『平安京提要』の編纂事業であった。これを私に命じられた時に角田先生は微笑みながら「この仕事をやりとげることができたならば、『平安京の権威』になれますよ」と言われた。駆け出しの私にとってこれは確かに大きなチャンスをいただいたことであった。もちろん、今でも「平安京の権威」になれたわけではないのであるが、この仕事をやったことによって暗中模索だった私の平安京研究に大きな曙光が指したことは間違いない。ありがたいことであった。

 角田先生に会うたびに言われるのは、「研究者は著書を出さねばなりません」「本を出す予定はどうですか」ということであった。だから、私が博士号を取得し、博士論文を公刊した時には大変々々喜んでいただいた。しかし、その後も会うたびにそう言われるのはなかなか辛いものがあった。最近になってようやく、平安京・京都都市史関係の論文をまとめた論文集を公刊する予定となり、そのことを申し上げるとこれも大変喜んでいただけた。しかし、私の怠惰から同論文集はまだ刊行できず、ついに先生の生前にお目にかけることができなくなってしまった。痛恨事である。

 最近では、さすがにお身体が弱られ、目が見えにくくて本が読めない、とボヤいてられたし、また脚も弱って歩行が困難になっておられた。しかし、古代学協会の「仁明朝史の研究」を始めとして、色々な企画を考え出されては矢継ぎ早に指示を出しておられることは変わりなかった。
 先月の9日、先生の95歳の誕生日に協会の西井芳子・鈴木忠司両氏とともに御自宅にうかがった。ベッドに横たわったまま起きあがることができなくなっておられたことは、なんとも悲しかった。それでも驚いたのは、頭脳は最期まで明晰で、小さな声で「私はまだまだやりたいことがあるのです」とおっしゃっておられたことであった。この時が、私にとって生前の先生との最期の別れになった。

 考古学と文献史学を総合し、洋の東西を問わず世界史の全分野を対象とされた大学者。自力で資金を集めて研究機関を設立・運営していくという離れ業を続けてこられたことも驚嘆に値する。もう、こんなスケールと行動力を兼ね備えた学者は出てこないかもしれない。角田先生の御冥福をお祈りし、先生の「理想」のたとえ万分の一であっても引き継いでいくことを誓いたいと思う。

2008.05.15

巨星墜つ

財団法人古代学協会名誉会長・社団法人紫式部顕彰会会長、文学博士
角田文衞先生におかれましては、
5月14日午後11時59分、御逝去になられました。
95歳でした。

謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。

2008.04.18

人文地理学会例会と授業開始、の巻

 4月11日(金)
 朝日カルチャーセンターへ出講。
 午後は、京都大学構内遺跡の「吉田泉殿町遺跡」の現地説明会にでかける。鎌倉時代の京都朝廷の重鎮で従一位太政大臣にまで昇った西園寺家の藤原公経の別業「吉田泉殿」の推定地ということで、これは見逃せない。担当者である京都大学文化財総合研究センター(旧・埋蔵文化財研究センター)のIA助教の解説のもと、見事な石敷の雨落溝を持つ建物跡が検出されており、興味深くながめる。京都市文化財保護課の課長に就任されたKT氏や京都市埋蔵文化財研究所の皆さんとともに、遺跡の評価について議論する。

 4月12日〈土〉
 人文地理学会第263回例会「歴史都市の景観復元研究」(於佛教大学四条センター)に出席。私は人文地理学会の会員ではないのだが、幹事をつとめられるB大学のWH教授から、報告を依頼された。私の「中世都市嵯峨の復元」、奈良女子大学の中西和子氏の「伏見城下における都市構造の変遷」の報告と、神戸大学の藤田裕嗣教授の「コメント」がおこなわれる。他分野の研究者の方々の前で喋るのは勝手が違うものだし、学界の重鎮であり、我が国を代表する巨大研究機関のチーフに就任されて御多忙を極めているKA先生までも御出席になっており、いささか緊張する。しかし、討論は大変有益。皆様方からの御教示に多謝。場所を変えての懇親会では、KA先生、OG大学のMS教授らと共に、おいしいワインで乾杯。さらに河岸を変えて、ホテル・グランヴィアのバーで、またまたワイン。

 4月13日(日)
 3回生ゼミの今年始めてのフィールドワークとして、京都御所の一般公開にでかける。桜花は盛りをすぎていたが、しだれ桜で満開のものもまだまだあり、新春の御所を皆と一緒に楽しむ。ついでに、京都府庁本館の一般公開に足をのばす。

 今年度春学期の授業(特記なきものは、同志社女子大学現代社会学部)
〔月〕2講時 「専門基礎演習」(2回生ゼミ)
   3講時 「基礎演習」(1回生ゼミ)
   7講時 同志社大学「日本史」
〔火〕2講時 京都府立大学大学院文学研究科「日本考古学講義IA」
〔水〕2講時 「卒業研究」(4回生ゼミ)
   3講時 「博物館概論」
〔木〕2講時 「応用演習」(3回生ゼミ)
   4講時 「考古学I」

 この他、大学の授業ではないが、金曜の午前には毎月各一回づつ、朝日カルチャーセンターと京都新聞文化センターの講座がはいる。なお、本来は同志社女子大学大学院文学研究科「考古学特論」も予定されていたが、登録をしてみると今年は受講生がゼロとなり(3年に一度くらい、こういうことがある)、残念ながら休講(>_<)。
 同志社大学の「日本史」は夜の授業。昨年は金曜6講時(18時25分〜19時55分)だったが、今年は月曜の7講時、つまり20時05分〜21時25分という遅い時間になった。そんな時間まで学生は学校には残っていないだろう、受講生はせいぜい十数人くらいだろうと予想していたが、フタをあけてみると登録者は180人にのぼっている。何がおこったのだ? 最近の学生さんは夜遅くの授業を苦にしないのかもしれない。
 「応用演習」は3回生ゼミ、「卒業研究」が4回生ゼミ、つまりこのふたつが同志社女子大学でのメインの「山田ゼミ」ということになる。去年は新人ということで少なかったが、今年の応用演習は17人となる。さあ、どういうことを学んでもらうか、授業の前日まで考えあぐねる。とにかく、京都の史跡を見てくれなくては話にならないので、最初から「フィールドワーク重視」を宣言しておき、今年は5回くらいの巡検とゼミ合宿を予定することにする。また、「博物館概論」も、一年たってようやく知名度がでてきたのか、去年よりは受講生が増加。

2008.04.07

「陵墓」シンポジウム、の巻

Ts2d0018_2〔昼食の親子丼を食べに行ったついでに寄った西陣聖天さん(雨宝院)のしだれ桜=「歓喜桜」も満開。今回は、平安時代の重要文化財・十一面千手観音像も拝観することができた\(^o^)/〕

 4月3日(木)
 新入生のオリエンテーションの開始。このあたり、ウチの大学はなかなか懇切丁寧なところである。
P1060376 夕方、四条で、帰国されたばかりの山中章博士と、SM博士とまちあわせ。ひさしぶりに京都で呑むことになる。場所は祇園の炭火焼肉店。焼肉は久しぶりだな。ワインとビールで、痛飲。帰り際に、木屋町四条の高瀬川沿いに咲く、見事な桜をながめる。ちょっとしたお花見気分である。

 4月5日(土)
 16学協会シンポジウム「『陵墓』研究のいま—神功皇后陵から五社神古墳へ—」(於奈良県文化会館)にでかける。歴史学関係の学会が16集まって、宮内庁に対して天皇陵の公開を要望し続けてきた。今年にはいってちょっとした前進があり、2月22日に奈良市の五社神<ごさし>古墳、つまり宮内庁治定の「神功皇后佐紀池上陵」が限定的に公開されたのである。16学会のひとつに(財)古代学協会がはいっているので、私はそこの「陵墓問題担当」になっている。ただ、私は残念なことに、2月22日の公開日にはヴェトナムに行っており、公開に参加することができなかった。せめてもの、ということで、今回のシンポジウムで公開の成果を学ぶことにする。
 定刻10分前に会場に着くと、受付で「もう席がありませんよ」と言われる。仰天。確かに、中に入ってみると、300人の会場が超満員である。陵墓問題がこんなに市民の方々の関心を集めているとは知らなかった。しかし、立ち見はカンベンして欲しい。会場を見回すと、幸いなことに、前列の中央にひとつだけ空いているところがあった。ありがたい。身を小さくして、椅子にすべりこむ。
 日本考古学協会の西谷正会長の挨拶の後、日本考古学協会の高橋浩二氏(富山大学准教授)の「陵墓公開運動と歴史資料としての陵墓」、古代学研究会の今尾文昭氏(奈良県立橿原考古学研究所総括研究員)の「佐紀古墳群の構成と課題」、大阪歴史学会の岸本直文氏(大阪市立大学准教授)の「五社神古墳の概要」と、考古学研究会の大久保徹也氏(徳島文理大学教授)と日本史研究会の福島幸宏氏(京都府立総合資料館)が司会をされるシンポジウムが続く。シンポジウムでは、文化財保存全国協議会の宮川徏氏の「五社神古墳の築造企画と二系列併立していた大王墓」のコメントがある。今尾・岸本両氏の御報告は、いずれも精緻にして「過激」。これからの古墳研究の方向性のひとつが見えるような気がする。それ以上に重大だったのは、とにかく、陵墓の中に研究者が立ち入ることで、ここまでの情報を引き出すことができる、という事実である。この限定公開は、わずか2時間半くらいのものだったという。それでもこれだけの成果があがる、ということを示したことは、今後の陵墓公開運動に大きな刺激を与えるものとなろう。
 終了後の打ち上げに、私も誘っていただく。近鉄奈良駅近くの呑み屋にくりこんで、例によって大騒ぎ。帰りの電車では知らず知らずのうちに寝込んでしまい、京都駅で別の乗客の方におこしていただく。
 聞いたところでは、この、陵墓の限定公開は多方面の非常な関心を集めたようで、公開日にはマスコミだけではなく、たくさんの市民の方々が遠巻きに「見学」しておられたという。驚いたのは、その中には「御皇室の尊厳と陵墓の安寧を護る国民の会」という数人のグループがあって、日の丸を振りながら「何人も聖域に立ち入るな!宮内庁は陵墓をしっかりと守れ!」というスローガンを掲げてシュプレヒコールをされていたという。しかし、今回のシンポジウムでも、西谷正先生が「私たちの運動は、陵墓を発掘せよ、ということではない。発掘は破壊なのであるから、むしろ陵墓を発掘することには反対である」と表明されていたり、会場から発言された岡山大学の新納泉教授が「陵墓公開運動を政治的な対立にすりかえてはならない」という趣旨を述べられたりしていた。私もまったく同感である。政治的な立場としては、「右」も「左」もあってもよい。天皇制護持を真情とする人がいても良いし、また天皇制撲滅を信念とする人がいても、それはすべて思想信条の自由なのである。私は以前から主張しているのだが、陵墓公開の議論の中に、いわゆる「右翼」の人も積極的に入ってもらったら良いと思う。彼らとも充分な議論をして、陵墓の静謐と立ち入り調査との妥協点をどこで見いだすか、真剣に模索していったら良いと思う。重要なのは、よりたくさんの人々が真の情報に接することができるための環境を作っていく、という一点なのである。

2008.03.31

年度末いろいろ、の巻

 今日で2007年度もおしまい。明日からは新学期である。

 3月20日(木・祝)
 (財)古代学協会の「仁明朝史研究会」。

 3月21日(金)
 今年度最後の、わが学部の教員会議。

 3月22日(土)29日(土)
 JR西日本「京都おこしやす大学」の「京の魅力・探訪ウォーク」で、「中世都市嵯峨コース」を担当する(同一内容で2回)。午前中はJR嵯峨嵐山駅前のコミュニティ嵯峨野で私が講演。午後は、皆さんと一緒に中世都市嵯峨の巡見。ありがたかったのは、事務局が交渉していただき、大堰川の川岸に臨む名刹、臨川寺に入らせてもらったことである。このお寺、後醍醐天皇皇子世良親王のために建てられた臨済宗の名刹であるが、ここ数十年は拝観を停止しており、私も入ったことがなかったのである。堂々たる本堂の裏側には、開山の夢窓国師の墓が眠る。開山堂の地下に国師の遺体が埋葬されており、床下をのぞき込むと国師の石室の上端部を見ることができる。その横には、世良親王墓の石塔が建つ。本堂には足利歴代将軍の位牌が安置されており、その中には有名な足利義満の「鹿苑院太上法皇」の位牌もある。とにかく、めったに入ることができないお寺を見せていただき、大満足。

 3月23日(日)
 JR東海「そうだ 京都、行こう!」のイヴェントに出講。京都アスニーで「平安京」講座。午後は平安宮跡を巡見。

 3月24日(月)
 花園大学人権教育研究センターの懇親会。花園会館の「花ごころ」で、豚の鍋に舌鼓を打つ。私は今年度は同センターの「委嘱研究員」であったが、その任期が切れるので、いわば「お別れ会」である。私の論考も載せていただいた「花園大学人権論集」15『個の自立と他者への眼差し』も無事に刊行される。
 この日の産経新聞京都版の「きょうと 京人」に「奥深い歴史の町を楽しもう」と題して、私のインタヴュー記事が掲載される。

 3月25日(火)
 京都SKYセンター主催の「平成19年度 新・京都SKY大学」の「総合活動コースA」に出講。京都新聞社の文化ホールで「平安京・京都の歴史を歩く」を話す。

 3月28日(金)
 京都新聞文化センターに出講。「王朝時代」の3回目で、「宇治の王朝文化—頼通から忠実へ—」を話す。
 夜は、伏見の老舗料亭・魚三楼で、同志社女子大学現代社会学部の歓送迎会。去っていく方々を見送り、新年度から新たにお迎えする方々と歓談する。

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■山田邦和「中世京都の被差別民空間—清水坂と鳥部野—」(花園大学人権教育研究センター編『個の自立と他者への眼差し—時代の風を読み込もう—』〔花園大学人権論集15〕所収、東京、批評社、2008年3月)、193〜223頁。

2008.03.06

ヴェトナム(9)、の巻

 無事に日本に帰国しました。みなさま、ありがとうございましたm(_ _)m。

 0000001〈タンロン皇城跡発掘調査現場で、塼<セン>積みの宮殿遺構の観察〉

 3月4日(火)(続き)
 山中博士からは、「お土産が必要なら、午後は発掘を休んで市内で買い物をしていただいても良いですよ」と、めずらしく(?!)優しい言葉を掛けていただく。しかし、なんだかやっぱり遺跡のことが気になって、結局は最後まで現場でウロウロしていた(写真)。そうすると、やはり今まで気がつかなかったことに目を開かされる。刑事ではないが、現場百遍、というのは考古学でもまさに真理だな。
 17時半、作業終了。18時、ホテル帰着。シャワーを浴びてさっぱりする。このホテル、シングル・ルームにはシャワーだけで浴槽は設置していない(学生が宿泊していたツイン・ルームには浴槽がある)。私としては、それはまったく苦にならない。トイレとシャワーがひとつの洗面所の中にあるのは通例であるが、シャワーの部分がガラスの扉で仕切れるようになっていることは大変大変ありがたい。私は、シャワーがカーテンで仕切られているヤツが、濡れたカーテンが身体に触れたり、シャワーのあとに用を足そうとするとトイレまで湯気でもうもうとしていたりというので、大嫌いなのである。おかげで、仕事帰りのシャワーを日課にすることができた。
 あわてて荷物を部屋中にぶちまけるが、なかなか整理はつかない。18時半、皆さんとともに夕食。持ってきたポカリスエットの粉末や液体石鹸の余りを学生たちにさしあげる。
 20時、やっと整理が完了。近くのシェラトン・ホテルまで行ってタクシーを拾う。ここで、山中博士と学生さんとはお別れである。夜の高速道路を疾走して、ハノイの国際空港に到着する。夜の空港は気が滅入るようで嫌いなのであるが、これはやむをえない。チェック・イン・カウンターのところで並んでいると、あちらから大きな荷物をひっぱった日本人男性が近づいてきて私の後ろに並ぶ。あれっ?、と思うと、大学の先輩にあたるNI氏であった。N市教育委員会に所属なのだが、今はそこからユネスコの関連組織に派遣されて国際交流業務を担当しておられる。今回はヴェトナムの農村との交流事業のために来越されたのだという。日本では近くにいるのにいつもお目にかかる機会を逸しているのに、こんなところでバッタリとは面白いことである。お互いに、奇遇を喜ぶ。
 チェック・インは思ったよりも簡単にすみ、あとはひたすらに飛行機を待つ。しかし、眠たくて仕方ない。何でも良いからとにかく早く乗せてよ、と言いたくなる。23時15分、やっとゲートが開き、飛行機に乗り込む。
 23時30分、離陸。やっとウトウトとしたと思ったら、2時間余りでもう朝食が出る。けっきょく、ほとんど寝られなかった。ボーッとした頭を振る中、5時30分(ヴェトナム時間ではまだ夜中の3時30分)、無事に関西国際空港に着陸。6時半の関空特急「はるか」を待ち、8時過ぎに京都に帰ってくる。
 私がいなくなった途端に山中博士は豪華な洋風居酒屋なんぞでグルメと洒落込んでいるようである。私は、久しぶりに和風中華料理屋にでかける。その後、ウチの奥さんが行きたがっていた新開店の居酒屋で日本酒。しかし、やはり寝不足が祟っているようで、一杯飲むともう眠気が襲ってくる。早々に帰宅し、そのまま布団にもぐりこんで、爆睡。そのおかげで、やっと元気を取り戻す。

2008.03.04

ヴェトナム(8)、の巻

 3月4日(火)
P1060249 私のヴェトナム滞在最終日。山中博士らはあと2週間、発掘を継続されるが、私は一足お先に帰国である。今はヴェトナム時間19時(日本時間21時)。これから空港に向かい、深夜の飛行機に乗り込み、日本到着は明日の早朝となる。
 発掘現場で記念写真。両脇は、ヴェトナム在住の考古学者、西村昌也氏・西野範子氏の御夫妻。西村さん、西野さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。そしてもちろん、今回の得難い機会を与えてくださった、山中章博士に、深謝。

2008.03.03

ヴェトナム(7)、の巻

P1050944<>〔コーロア城跡の城壁遺構〕
 3月2日(日)
 この数日、ハノイの気温は変化が激しい。朝がたは結構冷え込むのでセーターなどを着ていくと、昼頃には暑くなってしまい、上着を脱ぎ捨てる、ということになっている。
 さて、発掘もエンジンがかかってきたのであるが、私はあと数日で帰国である。2週間というとかなりの長い時間のように思っていたが、実際には早いものだな。
 この日は、みんなでハノイ北郊のコーロア城跡の見学にでかけることになる。全員そろっての遠出は初めてなので、なんとなくウキウキする。朝8時、われわれのホテルに、ヴェトナム考古学研究所のヒープ氏と、コーロア城跡の発掘調査にとりくんでいるアメリカ・イリノイ大学大学院生のナム氏とが迎えにきてくれる。おふたりとも実に気さくで誠実な方々で、車中でも会話が弾む。
 30分くらいで、コーロアの遺跡に到着する。周囲8kmの大遺跡で、外城・中城・内城の3重の城壁が実によく残っているのに驚愕!! ヴェトナム学界の定説では、これがなんと、紀元前3世紀に構築されたという。もしこの時期比定が本当ならば凄い事である。それを批判する能力はもちあわせていないが、いずれにしても東アジアでは中国文明に比肩する巨大な都市を築いていたことになる。これは見逃せない遺跡である。
 遺跡中心部にある小さなお寺で内城壁を見た後、中城壁と外城壁を踏む。それから、中城壁の北端のナム氏の発掘現場を見学させてもらう。城壁の複雑な構造がよくわかる、きわめて興味深い成果が得られる。その後、もう一度、遺跡中心部に戻って、村の集会所に附設された展示室を観覧。
 ハノイに戻る途中でちょっと豪華な昼御飯をよばれて、われわれの現場まで送ってもらう。ここでヒープ氏とナム氏とはお別れ。お世話になりました。

2008.03.02

ヴェトナム(6)、の巻

 2月29日(金)
 現場を見渡すと、いろいろな土器が露出している。施釉陶器もあるけれども、多くは素焼きの硬質土器で、還元焔焼成の暗灰色の焼物である。ということは、日本の須恵器に該当する焼物だということになる。須恵器の研究ならば、私は専門家の部類に属するはずである。
 と、いうことで、現場やその隣の発掘区に点在する土器を注意してきた。まだはっきりしたことはわからないが、どうも型式変遷が追えそうなものがある。ウチの現場での層位関係と対応させると、うまく編年が組めそうに思える。ヴェトナム考古学界でこういう地味な土器の研究がどこまで進んでいるのか知らないのであるが、自分なりに考えをまとめて見たいものである。
 夜、共同研究者の西村昌也氏・西野範子氏御夫妻のご自宅にうかがい、検討会。

 3月1日(土)
 午前中、山中章博士は三重大学の卒論発表会にインターネット参加されるとかで、現場を離れられる。それにしても、ハノイから日本に電子会議で参加できるとは、時代も変われば変わったものである。昔、私がエジプトの発掘調査に行った時など、日本とはほとんど音信不通。唯一の通信手段はカイロの日本大使館の御厚意で預かってくれる郵便だけだったもんな・・・ しかし、逆に、世界のどこに居ても仕事が追いかけてくるというのは、便利なようでまったく難儀ものでもある。

2008.02.29

ヴェトナム(5)、の巻

 2月28日(木)P1050821 〔ハノイの歴史博物館〕
 ヴェトナムに来て、一週間がすぎた。なんだか、もう何ヶ月もこちらにいるような気がするな・・・
 ようやく、発掘区全体の土層堆積の概要がつかめてくる。とにかく、15〜16世紀頃に、遺物が大量にはいった土で2m以上も分厚く埋め尽くしているようで、しかもその土が北から南へと斜めに傾斜している。
 午後からは、山中博士のお許しを得て、はじめてひとりでハノイの市内にでかけることにする。今まで一週間、ほとんどホテルと現場の往復だけだったから、そろそろ外出がしたかったのである。第一の目的はやはり、ハノイの旧市街に位置する、歴史博物館である。大学で博物館学芸員課程を担当するわが身としては、外国に出かけて博物館を見ずに帰ってはまったく立つ瀬がないのである。
 歴史博物館はヴェトナム語では「Bao tang Lich Su」。なるほど、「リクスー」というのが「歴史」で、「バオタン」が「博物館」だな。フランス支配時代の1932年に建てられた美しく風格ある建物(写真)である。入場料は1万5千ドン、別にカメラ持込代として1万5千ドンが必要だから、合わせて3万ドン。だいたい2百数十円、といったところである。考古学遺物を中心として、ヴェトナムの通史が展示されている。やはり、目玉となるのはドンソン文化の銅鼓であろう。ごくおおざっぱであるが、ヴェトナムの考古学資料を堪能することができた。もっとも、もうすこし展示に地図とか復元図を活用して欲しいとは思うが、それはないものねだりだろうな。図録が売ってなかったのは少し肩すかしだった。
 歴史博物館を出た後、少し時間があるので、隣の「革命博物館」を見て(ガイドブックには有料だとされていたのだが、行ってみるとどういうわけかタダだった)、インディラ・ガンジー公園に立つ李朝大越国の初代皇帝・太祖李公蘊(リー・タイトー)の銅像を眺める。それから、ホアンキエム湖を回り込んで、チャンティエン通の商店街を冷やかす。大きな書店があったので、精密な地図が欲しいと思って入ってみたが、これはかなえられなかった。
 タクシーに乗り込んで、旧市街の中心にある「東河門」へ向かう。阮朝時代のタンロン城の東城壁の門として唯一現存しているものである。ところが、タクシーが悪かった。一昨日もそんなのに乗り合わせてしまったのだが、メーターが見る見るうちにカシャカシャと上がっていく。普通の倍近い値段を払わされてしまったのだが、どういうことかよくわからない。タクシーにも何種類かあって、やたらに高いメーターをつけているものもあるのかもしれない。まあ、日本円に直せばたかが知れている額なのであるが・・・・
 東河門は思ったよりもこじんまりとした可愛らしい城門であった。その周囲はまったくの庶民の街。狭い道路の周りにいっぱいのお店屋さんが並んでいる。その近くには、ハノイを代表する市場であるドンスアン市場もあった。
 くたびれて、やっとタクシーをつかまえると、これがなんと、メーターを使わないタクシーだった。これは危ないのであわてて降りると、逆に、タクシーの兄ちゃんがえらく安いことを言いだす。半信半疑、ドキドキものでもう一度乗り込んだのだが、結局はその安い金額で済んだ。まったく、わけがわからないものである。

2008.02.27

ヴェトナム(4)、の巻

P1050714〔← 山中博士の人生は、このようにたくさんの人たちに支えられているのです〕
 2月26日(火)
 この季節のヴェトナムではしばしばあることらしいが、朝から天気が悪い。雨とはいっても、日本風にいうならば「霧雨」である。巨大な噴霧器で空中全体に霧を吹きかけているようなものである。なるほど、これでは洗濯物が乾かないのもさもありなん。しかし、ヴェトナムの作業員の人たちは勤勉で、この霧雨の中でも黙々と仕事をつづけている。私たちも、100円ショップで買ってきた簡易レインコートに身を包んで、現場に立つ。とはいっても、雨は雨。地面が泥濘んで、歩きにくいことはこのうえない。
 困ったことに、学生諸君が次々に体調を悪くする。女子学生のひとりはホテルで寝ているし、男子学生のひとりは現場の簡易ベッドに身体を沈める。疲れが出てきたのだろうな・・・
 夕方、A地区にある研究所での会議に臨む。重要な点でかなりの駆け引きがあったが、結果としては山中博士の粘り勝ちとなる。最低限ではあるが、うまくいけばヴェトナム考古学の都市遺跡調査に新たな画期となるかもしれない。
 晩にはN氏の友人の日本人がやっている日本食レストラン「紀伊」に連れて行ってもらう。南郊殿の遺跡のすぐそばの場所である。ホヤのシオカラやウニなんて、ヴェトナムで食べられるとは思わなかったぞ。

 2月27日(水)
 現場の土層の認識はほぼできつつある。もう少しすれば、掘り下げにかかれるだろう。それに備えて、現場の地区割と基本的層序を決定する。
 それにしても、ヴェトナム側の作業員の皆さんは実に勤勉である。我々が現場入りする前の、朝の7時からもう作業を開始しており、昼の11時半まで、まとまった休憩無しに黙々と働き続ける。午後も、2時間の休みを挟んで、13時半から17時までが仕事である。私たちとは言葉が通じないのがもどかしいのであるが、こちらがあいさつするとこの上ない親しげな笑顔がかえってくる。こんな笑顔を見ていると、ヴェトナム人には悪い人はいないような気がしてくる。
 びっくりしたこと。現場の付近の樹木、青々とした葉っぱを豊かにたくわえているのは良いのであるが、風が吹くと、葉っぱがまるで嵐のように降り注ぐ。現場の写真撮影しようとしてせっかく奇麗に掃除しても、すぐに葉っぱの嵐となる。あとからあとから、まったくキリがないのである。なかなか、難儀なことである。

2008.02.25

ヴェトナム調査は続く、の巻

 2月25日(月)
P1050586
 23日(土)には、調査区の西壁を精査と掘り下げ。要は、堆積層の状況を確認しなくてはどないもこないもならないのである。しかし、堆積の状況は近世の京都都市遺跡(平安京左京)に似ている‼ 大量の遺物を含む土で、分厚い埋土が形成されているのである。違いといえば、こちらの埋土にはイヤになるほど大量の塼(レンガ)が含まれているということくらいである。
 この日の夜は、ヴェトナム側のご招待による宴会(写真)。ホテルの近くのシーフード・レストランで、貝とカニに舌鼓をうつ。
 ところが、どうも疲れが出てきたようである。宴会の最後の頃から、どうも調子が悪い。ホテルに帰ってすぐに寝るのだが、お腹がシクシクと痛みだして、眠れない。
 
 2月24日(土)
 ふらふらしながら起床。外国に来て体調を崩すのは例のごとしとはいえ、どうにも気分が滅入るものである。山中博士にいたわられながら、なんとか出立。まずは、ハノイ南部にあるタンロン城の「南郊殿」跡の発掘現場に向かう。これはぜひ見たかった。行ってみてびっくり!! 巨大な工事現場のようなところに、一辺1.5mくらいの木箱が数えきれないほどに列をなしている。なんと!!、現地保存ができないとかで、遺構を切り取って移設する作業をしているというのである。日本でも小規模な遺構を切り取り保存することはあるけれども、ここではいわば、ひとつの遺跡を丸ごと、バラバラに分解して切り取っていこうとしているのである。しばし、絶句。
 われわれの現場にもどるが、やはり調子悪い。微熱もあるようで、ほとんど立っていられないのは情けない限りである。なんとか現場作業を終えてからホテルに戻り、薬をしこたま飲んで、布団にもぐりこむ。

 2月25日(月)
 やはり疲れがたまっていたようである。こんな時にはなによりの薬は睡眠。一晩ぐっすりと寝たおかげで、なんとか回復した。ご心配おかけしました(山中博士は、山田が調子が悪いのは自分がイジめたためではないとか、毒をもったわけではないと強調しておられるが、これはウソではないだろう。犯罪には必ず動機がある。今、私に毒を飲ませても、山中博士には一文の得にもならないのである。念のため・・・)。
 午前中、われわれの現場の東側に隣接する「A区」を見学。タンロン皇城跡でも最も調査が進んでいる地区である。ちょうど現地指導に来ておられたN研究所のI氏にお目にかかり、遺跡について意見交換。そして、A区をじっくりと見学。
 われわれの現場の南側では、旧・国会議事堂の建物を壊している。ここも近く発掘調査が開始されるはずである。ふと覗いてみると、敷地の真ん中に机を持ち出して、地鎮祭の祭壇が設けられている。かわいらしい馬の作り物、花、お菓子、お酒、紙銭、鶏肉などが捧げられている。終わった後は、敷地の隅っこで作り物や紙銭を燃やして煙にする。面白い場面に出会うことができた。

2008.02.23

ヴェトナム2日目、の巻

 2月22日(金)
 ゆっくり寝て、6時起床。朝はホテルでヴェトナム式のウドンをすする。なかなかに美味なものである。外国に行って現地の食事をおいしく食べられるというのは、幸先の良いものである。
 現地の共同研究者のN氏御夫妻に出迎えていただき、さっそく現場へ。ヴェトナムの大統領官邸の目の前という、日本で言うと霞ヶ関のど真ん中という信じられないところにある遺跡である。ヴェトナム側の責任者のT氏のご案内で、遺跡をじっくりと見学する。
 実は、今日は遺跡の見学と調査計画立案だけでのんびりできるだろうと思っていたのであるが、これは甘かった。なんのなんの、山中章博士をボスとする調査がそんなことで済むはずはないのである。しごく自然な流れとして、現場作業が開始される。私も手ガリを手にして、あわてて現場にとびこむ。まずは既掘部分の土層断面の精査である。最初は何がどうなっているか検討もつかなかったが、削っていくうちに、なんとなく遺構全体の雰囲気がつかめてくる。
 夜は、ホテル近くのヴェトナム料理店で乾杯。ヴェトナム料理といえば香草がギンギンきいているようなイメージでちょっと心配していたのだが、案ずるより産むが易しだった。これくらいの香草ならば、刺激物嫌いの私にもまったく問題はなくおいしく食べられる。カエル料理やイノシシ料理など、めずらしいものも堪能させてもらう。

2008.02.22

ヴェトナム入り、の巻

 2月21日(木)
 ヴェトナム・ハノイのタンロン城調査プロジェクトに参加の1日目。
 早朝5時に起きて、そのまま関西国際空港へ。9時に山中章博士御一行と合流。11時のホーチミン行き飛行機に乗り込む。ホーチミン経由で、ハノイ着は現地時間夜の19時半。ホテルはハノイ北郊の、小さいがなかなか奇麗なところで、ほっと一安心である。インターネットも無事つながるようで、これもありがたい。さあ、明日からは現地調査の開始である。

2008.02.20

明日からヴェトナム、の巻

 しばらくブログを休んだから、どうしてるのか?と思ってくれた方もいると思う。何のタタリか、この3週間、タチの悪いカゼに取り憑かれて難渋していた。治ったと思うとまたぶり返しという連続で、エライ目にあってしまった。今日もまだボーッとしているのだが、とにかく明日からはヴェトナムに行くことになっている。とにかく今日は早く寝て、明日に備えねばならない。

 1月23日(水)
 古い友人のOHさんが九州より久しぶりの上洛。MS氏・NJ氏御夫妻とともに、歓迎の宴。西陣の小洒落た料亭でのひとときを過ごす。

 1月27日(日)〜30日(水)
 入学試験の前期日程。ひたすら、襟を正して待機。

 1月29日(火)
 脇田修・脇田晴子両先生の『物語京都の歴史—花の都の二千年—』ができあがった。私は、同志社大学の鋤柄俊夫准教授とともにこの本の巻頭図版の歴史地図の作成に協力させていただいた。新書としてはムリを言って、歴史地図はすべてカラー印刷にしてもらう。でも、なかなかの出来上がりとなった。今日はその打ち上げの宴。国登録有形文化財にも指定されている洛中の料亭・近又で、ゆっくりとした時間を過ごさせていただく。ありがたや。

 2月1日(金)
 久々の、平安京・京都研究集会の準備会。五月開催予定です。皆様、お楽しみに。

 2月2日(土)・3日(日)
 山中章博士のお膝元、三重大学に出向く。第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」が開かれるのである。のんびりと近鉄特急に乗っていたら、山中博士から電話。なんと、打ち合わせ会はもう始まっているという。あわてて電車を飛び降り、三重大学に滑り込む。
 私に当てられたのは、初日のシンポジウムで「コメント」をやること。例によって何も考えずに行こうかと思ったのだが、山中博士の怒顔を想像するとそういうわけにもいかない。温めていた「聖武・天武両天皇の首都構想」のサワリを話させてもらう。私の持論なのだが、要するに、聖武天皇と天武天皇は難波宮を正都(第1首都)と構想していた、という結論である。思いがけずも山中博士からは、「めずらしくふたりの意見が一致しましたね」との評をいただく。コメントをしてしまうと、あとはひたすらに勉強させてもらう。頭がいっぱいになったところで、おいしいお酒。
 3日の朝、おきると、窓の外は一面の銀世界であった。この日は私の誕生日。ついに49歳になってしまった・・・・
 
 ◎山田邦和「聖武・天武両天皇の首都構想」(第10回考古学研究会東海例会資料集『古代東海と奈良時代王権』所収、津、考古学研究会東海例会、2008年2月)、88〜90頁。
 ○山田邦和「コメント 聖武・天武両天皇の首都構想」 山中章司会、榎村寛之・天野三恵子・大崎哲人・山田邦和「ミニシンポ 文献・考古資料からみた聖武東国行幸」(第10回考古学研究会東海例会「古代東海と奈良時代王権」、於三重大学共通教育190番教室、2008年2月2日)。

 2月10日(日)
 前近代都市論研究会。アスニー山科で、SK大学のKM氏の「平安京都市文化とニオイ」、H大学のFA氏の「五・六世紀の王宮をめぐる基礎的問題」を学ぶ。懇親会は琵琶湖畔に立つドイツからの移築民家のドイツレストラン・ヴュルツブルグで、ドイツ料理。間もなくドイツに遊学される仁木宏さんの壮行会を兼ねる、ということだったが、何か雰囲気がおかしい。ありゃ?と思っていると、おもむろにサープライズ発表がある。いや、おどろきましたが、でも実にめでたい。次のサープライズの時には「3悪トリオ筆頭」某古代史研究者のフレンチカンカン踊りが見られるという約束までとりつけたので、ますますめでたい。

 2月11日(月・祝)
 東京からSH先生が来られるので、じっくりと相談事。

 2月12日(火)
 花園大学の修士論文の口頭試問。私は、四人の主査ということになる。夜は、審査を終わったばかりの院生5人(考古学4、古代史1)と、古代史担当のFA先生、考古学担当のTK先生をお招きして、我が家でささやかな「打ち上げ」をやる。試問が終わったから、みんなホッとしている。巣立っていく彼ら彼女らの前途に幸いあれ!

 さあ、明日は早起き。2月21日(木)〜3月5日(水)の2週間、山中博士のプロジェクト、ヴェトナム・ハノイのタンロン城(昇竜城)の遺跡調査へ参加させていただくのである。はてさて、どうなることか? (うまくインターネットにつながれば、向こうから更新することもありえます。でも保証はできませんので、本格更新は帰国後になります。それでは・・・m(_ _)m) 

2008.01.23

「岩手日報」に載る、の巻

 時々、インターネットの検索エンジンに自分の名前を打ち込んでみることがある。中には、思いもしないところに自分が登場していることがあって、なかなかに面白い。以前には、「天漢日乗」というブログで、「最近、山田邦和先生経由で、与那原家という沖縄そば屋を知った。早速注文すると、もの凄い太っ腹なお店であった(以下略)」という書き込みに出会って驚いたことがある(私がご紹介した沖縄そばに満足していただけたようで、大変結構でした(^o^))。

 昨日、そうしてやってみると、岩手県の地方紙である「岩手日報」がでてきた。あれっ?、ということで接続してみると、同紙の2008年1月7日号に掲載された「埋文行政の未来 発掘から活用に重点を」(中村紀顕執筆)という記事がでてきた。現在、埋蔵文化財行政は「危機」的な状況にある。バブル崩壊後の不況と小泉改革が相まって、埋蔵文化財調査専門機関はどこもかしこも経営難と行政からの締め付けに喘いでいる。さらに、民間企業も遺跡発掘調査に乗り出しており(いわゆる「発掘会社」)、それが自治体傘下の埋蔵文化財調査専門機関の「パイ」を浸食することにもなっている。学術雑誌『日本史研究』の編集委員会から、こうした現状を考え直すための提言を、という依頼を受けて同誌に執筆したのが、私の「時評 埋蔵文化財をめぐる社会システムの混迷」という一文であった。「岩手日報」はそれに注目し、記事の中でとりあげてくれたのである。

 〔以下、引用〕「行政や関連組織は今後埋蔵文化財に対し、どういう立脚点にあるべきか。貴重な提言が07年10月発行の「日本史研究542号」に掲載された。山田邦和・同志社女子大教授の「時評 埋蔵文化財をめぐる社会システムの混迷」がそれだ。
 「このなかで山田教授は、文化財保護法の<第3条 政府及び地方公共団体の任務>を論拠に「文化財を保存し、国民文化に役立てるという仕事こそ『公』の果たす責務だ」とする。具体的には、目先の発掘調査に追われることから脱して▽遺跡の保護▽民間組織の指導・監督▽出土遺物の保存・管理・研究・活用-こそ重要だ、としている。国民のためにある文化財保護という考え方で、多くの賛同を得られる示唆だ。」〔引用終わり〕

 私の提言の主旨を正確に紹介してくれており、ありがたい限りである。私の現状認識としては、自治体や自治体傘下の埋蔵文化財調査専門機関が民間の「発掘会社」と、少なくなった「パイ」を奪い合うだけでは考古学界の未来はない。バブル期のように、自治体や自治体傘下の埋蔵文化財調査専門機関が休む間もなく遺跡の発掘に追いまくられるという方が異常だったのである。これから絶対にやらねばならないのは、埋蔵文化財の調査研究にとって、民間に委ねても良い部分は何か、その一方で「公」が絶対に果たさなければならない責任とは何か、ということを充分に見極めることなのである。拙文の締めくくりに記した「たとえ政府や地方自治体が財政難に苦しんでいるとしても、それは、このような『公』の責任を放棄することの理由にはならないのである」という文章には、こうした想いをこめたつもりでいる。
 ささやかな提言であるが、それに注目してくださった「岩手日報」に、深謝 m(_ _)m m(_ _)m。

2008.01.22

仁明朝史研究会始動、の巻

2008年1月9日(水)
 法住寺殿の跡に建つ高級ホテル・ハイアットリージェンシー京都で、京都・大阪のホテルマン・ホテルウーマンを対象の研修会。「東山地区の歴史」を話す。ホテルの最前線で接客をやっておられる方ばかり。こういう方々こそ、京都の史跡の魅力を発信する先頭に立っていただかなくてはならない。
 終了後は、ハイアットのY総支配人に誘われて、フレンチ。ウチの奥さんまで呼んでいただき、お相伴にあずかる。ちょっとした奥さん孝行の夜であった。

 1月10日(木)
 昨年のこの頃は、一年中で一番ヤキモキする日々であった。前任校の花園大学では卒論・修論の提出と審査があるのである。しかし、現任校の同志社女子大学では、私のゼミは始まったばかり、ということで、今年は卒論はナシ。昨年までのことを考えると何か拍子抜けするというか、申し訳ないような感じである。ただ、今年度一杯は花園大学の大学院の指導が残っている。聞いてみると、私の担当の四人は、なんとか無事に修論を提出できたという。ホッと一安心である。

 1月11日(金)
 朝日カルチャーセンターの出講を終えてから大学へ。在学生への「博物館学芸員課程説明会」をこなす。ただ、同女の学芸員課程は今年始まったばかりのヨチヨチ歩きである。現在の1回生には問題ないのであるが、2回生以上には完全対応することができない。ちょっと気の毒であるとは思うがやむをえない。とにかく、博物館学芸員資格の魅力、を話す。
 終了後は、今出川にとって返して、同志社大学の夜の授業。

 1月12日(土)
 JR西日本「京の魅力探訪ウォーク」で、豊国神社。

 1月15日(火)
 花園大学出講。私にとっては、花園大学での授業は専任8年+非常勤1年の9年間におよんだ。それが、この日で最後となった。特に、花園大学での「京都学概論」は、私が一番力を入れた講義であった(そもそも、この授業は私の着任とともに新設していただいたもの。いわば、私のために作ってくれたような授業だった)。他の大学でも同様の授業はおこなっているのであるが、やはり学生気質に違いがあるというのか、大学によって学生の反応が違う。一概にどこが良くてどこが悪いかということは言えないけれども、花園大学での受講生諸君は反応が一番ストレートだった感じがする。私も、ホームグラウンドということでゆとりをもって話をすることができ、なかなかにやりがいがあったのである。しかし、それも今日でおしまい。いささか感無量である。
 その後、修論を提出したばかりの院生諸君を誘って、いつものお好み焼きとビールでささやかに祝宴。

 1月16日(水)
 文理閣で会議。少しづつ、新しい本の形ができあがってくる。

 1月17日(金)
 同志社女子大学での授業の最終日。一年間、なんとかやってこれたな・・・ ただ、授業によっては、我ながらまだまだ形が整っていないものがある。それをどう再構成してキレイなものにしていくか、来年度の課題だな。

 1月18日(金)
 (財)古代学協会の評議員会。

 1月19日(土)
 OS社のYMさんから京都劇場でやっている劇団四季の「ユタと不思議な仲間たち」のチケットをいただく。実は、今までミュージカルのナマはなんとなく敷居が高くて、見るのはこれが初体験である。楽しみにして行ってみると、これがなかなかに面白い。ミュージカルというのはまさに近世の歌舞伎芝居の伝統の上にたつ芸能である。たっぷりと堪能することができた。YMさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m。

 1月20日(日)
 (財)古代学協会の新しい研究事業である「仁明朝史の研究」の第2回研究会(山中博士、御都合の悪い日での設定となってしまい、どうもスミマセン・・・m(_ _)m)。実は、ここでの報告のことを年明けからずっと考え続けていたが、なかなかまとまらなかった。この研究会、関西で考え得るベスト・メンバーに近い研究者の皆さんが揃っておられる。そこでの報告だけに、胃が痛くなる思いをしたのである。なんとか「仁明天皇陵とその関連陵墓」という報告をまとめる。しかし、まだまだ未完成で不充分なところだらけ。出席の先生方からは痛いところを突く質問が続出で、冷や汗三寸とはこのことである。でも、勉強になることはこの上ない。
 O大学のY氏の日中交流についての報告を聞いた後には、緊張を一気に解き放つように、百万遍の呑み屋で騒ぐ。

2008.01.06

年始年末、の巻

 2008年1月6日(日)
 正月休みも、今日でおしまい。なんともぐうたらした正月だった。

 年末はテレビ朝日のドラマスペシャル「吉原炎上」ですごす。主人公の遊女・内田久野を演じた観月ありさも熱演だったが、その友人でライバルの遊女・浅井雪乃役の星野真里がなかなか良い味を出していた。何の気なしに見ていると、主人公が失恋して倒れ付す川岸が、明らかに伏見の濠川だったのにびっくり。そう気づいてよく見ていると、「外務省」に扮していたのは京都府庁の本館(明治37年竣工)だった。なるほど。東京で撮っているのかと思ったらそうではなかった。東映の太秦撮影所で撮影しているんだな・・・ 正月の新春スペシャルの「のだめカンタービレ ヨーロッパ編」も涙と笑いの感動モノ。存分に楽しめた。のだめ役の上野樹里、千秋真一役の玉木宏、これ以上は考えられない適役だな。なお、年末を、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の「第9」で過ごした、といったら、セル・ファンのMK教授からお褒めにあずかった(リンク先のNo.6061)。光栄である\(^o^)/。それから、山中章博士はまたまた病院通いをされている、とのことである。どうぞお大事に、といいたいところであるが、ブログの絶好調ぶりからすると心配はないのだろうな・・・

 年末に、森浩一先生から「宿題」をいただいた。京都の某寺に、ある時代の年号の入った重要な遺品があるから調べてほしい、というのである。ん? この某寺、私はよくよく知っている。また、京都のその時代についても、私は専門家の部類に入るはずである。しかし、その寺にそんな遺品があったということはまったく記憶にない。あわてて資料をあたってみても、そんな遺品のことについてはまったくどこにも触れられていない。ともあれ実地確認だ、ということで、でかけてみる。しかし、どこにもそれらしき物はみあたらない。なにかの間違いだっただろう、と独り決めして帰ろうとすると、なんと!視野の隅っこに何かがとびこんできた。あった! まちがいなく、森先生ご指摘のその遺品だった。
 なんたることだ。私はこれまで、その品のそばを何回も何回も通ってきているのである。しかし、今までまったく、「見えていなかった」のである。恥ずかしや。穴があったら入りたい、というのはこういうことである。落語によく出てくる、「お前の眉毛<まみげ>の下にふたつ光っているのは何だ? 目だろ? 目だったら良く見ろ! 見て見えないような目なら、刳り抜いて、後、銀紙でも貼っておけ!」という啖呵を思い出してしまった。何回も実地を踏むことの大切さ、細部までじっくりと観察することの大事さを、改めて胸に刻み込む。それにしても、森先生の非凡な観察力の鋭さに、改めて、驚愕。

2008.01.04

藤森神社に初詣、の巻

 2008年1月2日(水)
Inosisi 元旦は呑みすぎで、2日は昼前までぐうたらと寝ている。2日は、わが家恒例の、一族を集めてのボタン鍋(写真上)。寺町の改進亭で厳選された、特上の猪肉をはりこむ。当然、またまた呑みすぎ。

 1月3日(木)
 今日こそ、初詣。どこに行こうかと迷ったのだが、今年はちょっと目先を変えてみよう、ということで、伏見の藤森神社へ向かう。この神社の現在の御祭神は素盞鳴命、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰、舎人親王、天武天皇、早良親王、伊豫親王、井上内親王の十二座であるが、この中で「主祭神」格とでもいえるのは神功皇后である。面白いのは、参集殿前に「力石」が並べられていること。上杉本「洛中洛外図屏風」の中の、三条の「弁慶石」を彷彿とさせる光景で、なんだか嬉しくなる。本殿裏側にある摂社の八幡社と大将軍社(写真中)の建物は、いずれも室町幕府第6代将軍足利義教によって造営されたもので、国の重要文化財に指定されている。応仁の乱以前の建造物は京都には本当に数少ないから、貴重な遺産である。
Huzinomori_2 森浩一先生も近著『京都の歴史を足元からさぐる〔洛東の巻〕』でも触れておられるし、私も前から気になっていたことは、この中に早良親王(光仁天皇皇子、追尊崇道天皇)と舎人親王(天武天皇皇子、追尊崇道尽敬皇帝)が含まれていることである。私が興味深いと思っているのは、早良親王が蝦夷征討の大将軍となった、とか、同親王が蒙古襲来を迎え撃つために出陣した、とかいう、奇妙な伝承が伝えられていることである。崇道天皇を祀っていた社はもともとこの北方の小古墳(塚本古墳)の上にあり、そこは現在は宮内庁管理の「東山本町陵墓参考地」となっている。崇道天皇=早良親王とはいうまでもなく、その怨霊が長岡京廃都・平安京遷都に大きくかかわったのであり、その点では京都に所在する崇道天皇伝承は無視できない、と思っているのである。
Toneri 新たな「発見」もある。日本書紀の編者としても知られる舎人親王=崇道尽敬皇帝、通常は「とねりしんのう」と発音しているし、私もその他の発音があるとは思ってもみなかった。しかし、この神社では伝統的に「いえひとしんのう」と発音しているというのである(写真下)。確かに「舎人」は「いえひと」とも訓める。なるほどね・・・

2007.12.28

2007年にやったこと、の巻

2007年12月28日(金)
 京都新聞文化センターに出講。これで、今年の仕事、おわり。

 恒例によって、2007年にやったことをまとめておこう。

【著書(分担執筆・監修)】
■京都新聞出版センター編、井上由理子・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・永守淳爾・西村彰朗・藤慶之・山田邦和・山中英之執筆『第3回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2007年4月)(分担頁不記載)
■山田邦和監修『とらべる京都 虎の巻—ツアーリーダーうんちくブック—』(改訂版)(〈東京〉、〈JR東海「そうだ京都、行こう」〉、〈2007年〉)〜山田邦和「京都 歴史のおさらい」

【論文】
■山田邦和「中世都市嵯峨の変遷」(金田章裕編『平安京—京都 都市図と都市構造』所収、京都、京都大学学術出版会、2007年2月)153〜181頁
■山田邦和「桓武朝における楼閣附設建築」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第134集〈山中章・仁藤敦史編「律令国家転換期の王権と都市」論考編〉所収、佐倉、国立歴史民俗博物館、2007年3月)155〜177頁
■山田邦和「太皇太后藤原順子の後山階陵」(「王権とモニュメント」研究会〈上原真人〉編『皇太后の山寺—山科安祥寺の創建と古代山林寺院—』所収、京都、柳原出版、2007年3月)84〜112頁
■山田邦和「京都市遠山黄金塚1号墳の再検討」(松藤和人編『同志社大学考古学シリーズIX』「考古学に学ぶ(III)」所収、京都、同志社大学考古学シリーズ刊行会、2007年7月)275〜284頁
■山田邦和「中世都市の考古学」(『季刊考古学』第100号「特集・21世紀の日本考古学」掲載、東京、雄山閣出版、2007年8月)108〜111頁
■山田邦和「埋蔵文化財をめぐる社会システムの混迷」(『日本史研究』第542号掲載、京都、日本史研究会、2007年10月)74〜79頁

【その他の著作】
■山田邦和「平安京の須恵器」(京都市生涯学習振興財団編『京都市平安京創生館ガイドブック 平安京講話』所収、京都、同財団、2007年1月)78〜83頁
■山田邦和「かんぎこういん 歓喜光院」「じゅらくてい 聚楽第」「しょうかどう 松花堂」「ずいしんいん 随心院」「せんにゅうじ 泉涌寺」「ふくちやまじょう 福知山城」「へいあんきゅう 平安宮」「へいあんきょう 平安京」「へいあんつうし 平安通志」「へぬし 戸主」「ほ 保」(小野正敏・佐藤信・舘野和己・田辺征夫編『歴史考古学大辞典』所収、東京、吉川弘文館、2007年2月)、300・589・601・643・687・1004〜1005・1031〜1032・1032・1034・1042・1044頁
■西本昌弘・仁藤敦史・北村優季・村木二郎・山田邦和・山中章(司会)、仁藤敦史・北村優季・西本昌弘・山田邦和・山中章・中島信親・吉川真司・榎村寛之・鈴木拓也・三上喜孝・高橋美久二・網伸也・北野博司・村木二郎(発言)「シンポジウム『律令国家転換期の王権と都市』」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第134集〈「律令国家転換期の王権と都市」論考編〉所収、佐倉、国立歴史民俗博物館、2007年3月)357〜414頁
■山田邦和「暮らしと葬送の遺跡〜福井遺跡、大虫神社経塚」(加悦町史編纂委員会編『加悦町史』資料編 第1巻所収、京都府与謝野町、与謝野町役場、2007年3月)343〜344、381〜390頁
■山田邦和「退任の辞」(『花園大学考古学研究室だより』特別号掲載、京都、花園大学考古学研究室、2007年4月)1頁
■山田邦和「地名を殺すな!」(『花園大学人権教育研究センター報』第11号〈通巻30号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2007年4月)55・56頁
■山田邦和「桓武伝承〜桓武陵」(国立歴史民俗博物館編『長岡京遷都—桓武と激動の時代—』図録 所収、佐倉、同博物館、2007年10月)26〜27頁
■「平安京創世館クイズ」(『まなびすと』、〈京都〉、〈京都市生涯学習総合センター〉)

【インターネット配信】
■山田邦和(講演)「江戸時代の平安京研究」(京都府企画環境部スポーツ生涯学習室「生涯学習総合ネット」http://kyo-own.kyoto-be.ne.jp/js/user/run_pageopen_action.do?areaid=01&menuid=193&servicekb=0&routetype=1&pgmode=guest)88分
■山田邦和(出演)『ポッドウォーク Pod Walk』「大塚由美が歩く メイド in ニッポン!~平安王朝絵巻 宇治のまちへGO!~」
 ファイル2(http://www.mbs1179.com/podcast/p0412/archives/10669.html)、
 ファイル4(http://www.mbs1179.com/podcast/p0412/archives/10702.html)、
 ファイル5(http://www.mbs1179.com/podcast/p0412/archives/10733.html)、
 ファイル6(http://www.mbs1179.com/podcast/p0412/archives/10742.html)

【学会発表】
□"KYOTO, the Capital of Medieval Japan" International Medieval Congress, Session 122 "The Features of the Medieval Cities in Japan" (in Common Room of Seton House, Bodington Hall, University of LEEDS) Monday 09 July 2007
 
【講演】
□「平安京・京都の歴史を歩く(16)初期の平安京を訪ねて」(前年度より継続)(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2007年1月12日、3月9日、3月16日)
□「京都の原点を探る 第2期 日本古代都城の展開」(前年度より継続)(京都新聞文化センター〈京都検定・京都学講座〉、於同センター、2007年1月26日、2月23日)
□「遷都以前・古墳時代の京都」(京都アスニー「京都市平安京創生館」開館記念「平安京講座」、於京都アスニー、2007年2月17日)
□「平家物語と長岡京—長岡京と福原の都—」(長岡京市中央生涯学習センター「長岡京カルチャーカレッジ!〜名作古典の中の長岡京」、於同センター、2007年2月18日)
□「京都御所の変遷」(京都館・kissポート財団特別連携講座「京都学講座」「知られざる京都の魅力VIII〜京都・宮廷文化編〜」於赤坂区民センター、2007年3月2日)
□「後野福井遺跡と幾地地蔵山遺跡—墓地からみた中世鎌倉から室町時代の歴史像—」(京都府与謝野町「与謝野町文化財講座」、於与謝野町加悦地域公民館、2007年3月11日)
□「江戸時代の平安京研究」(京都府立総合資料館「企画展 先人達の京都研究」記念講演、於同資料館、2007年3月15日)
□「王朝貴族と平安京」(アリエル「ことえりサロン 1DAY<ワンデイ>セミナー」『雅の平安京VSお江戸の旅』、於京都タワーホテル、2007年3月21日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(17)王朝の都を訪ねて」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2007年4月13日、5月11日、6月8日)
□「中世の首都・京都」(「国際中世史学会」準備会、於大阪市立青少年会館、2007年4月21日)
□「京都の原点を探る 第3期 平安京前夜」(京都新聞文化センター〈京都検定・京都学講座〉、於同センター、2007年3月23日、4月27日、5月25日)
□「京都の墓地」(ラボール学園〔京都勤労者学園〕「日本史講座〜史跡からみる京都の歴史—古代・中世—」第7回、於同学園、2007年5月28日)
□「京都の原点を探る 第4期 平安京の誕生」(京都新聞文化センター〈京都検定・京都学講座〉、於同センター、2007年6月22日、7月27日、9月28日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(18)聖武天皇遷都の謎—恭仁京・難波宮・紫香楽宮—」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2007年8月10日、9月14日、9月21日)
□「戦国武将ゆかりの地を訪ねる」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社、2007年7月22日)
□「 同 」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社、2007年8月4日)
□「 同 」(JR西日本『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』、於豊国神社、2007年12月15日)
□「保元の乱」(朝日カルチャーセンター「戦の日本史」第1回、於同センター、2007年9月8日)
□「伏見・巨椋池〈ときめき〉探検—秀吉の町づくりと治水—」、「課外講座 秀吉の伏見城下町探訪と老舗料亭・魚三楼の夕食」(京都観学研究会〔同志社大学・JTB西日本・京都商工会議所〕「楽洛キャンパス」「京の川—鴨川逍遙ガイダンス—」、於同志社大学、2007年9月10日)
□「中世都市としての嵯峨」(京都アスニー「アスニー・セミナー」、於京都アスニー、2007年9月28日)
□「京都の歴史(平安京時代)」、「京都の文化財について」(京都新聞文化センター『京都観光「ガイド塾」』第1・8回、於同センター、2007年10月6日・11月24日)
□「京都の原点を探る 第5期 王朝時代の平安京」(京都新聞文化センター〈京都検定・京都学講座〉、於同センター、2007年10月26日、11月30日、12月28日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(19)弘仁・貞観時代の平安京と嵯峨—桓武天皇の後継者たち—」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2007年10月12日、11月9日、12月14日)
□「戦国時代の京都」(下京区身体障害者団体連合会「平成19年度 福祉のつどい」、於京都東急ホテル、2007年11月4日)
□「長岡京・平安京と陵墓」(国立歴史民俗博物館「歴博講演会第287回 桓武の王権を考える」、於同博物館、2007年11月10日)
□阿部義平・山田邦和「国立歴史民俗博物館『長岡京遷都』展 ギャラリートーク」(於国立歴史民俗博物館特別展示室、2007年11月11日)
□永井路子・朧谷壽(座談会)、山中章・山田邦和(司会)「長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」(国立歴史民俗博物館「歴博フォーラム 激動の長岡京時代」、於東証ホール、2007年11月18日)
□「中世京都の被差別民空間―清水坂と鳥部野―」(花園大学人権教育研究センター「人権教育研究会第62回例会」、於花園大学教堂、2007年12月3日)
□「京都盆地の遺跡と古墳」(京都新聞文化センター「考古学講座」第3回、於同センター、2007年12月8日)
□「渡来系文化と須恵器」(滋賀県竜王町「平成19年度 渡来文化講座・渡来系氏族について考える」第4回、於同町中央図書館、2007年12月9日)


〈社会活動〉
▼財団法人古代學協會 評議員
▼財団法人古代學協會 古代文化刊行委員会 編集委員
▼平安京・京都研究集会世話人
▼文化史学会監事
▼有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会全国委員
▼花園大学人権教育研究センター 委嘱研究員
▼国立歴史民俗博物館「長岡京遷都—桓武と激動の時代」展示プロジェクト委員
▼京都市環境影響評価委員
▼加悦町史編纂委員会執筆委員
▼京都府 天橋立世界遺産登録可能性検討委員会委員
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論文6本のうちの3本が3月までの刊行(つまり、4月以降には3本しか公刊されなかった)である、というのは、ちょっとヤバイかもしれない。そろそろ在庫が枯渇してきていることを示すからである。今年は勤務先が変わったから気持ちが落ち着かなくって、と、いちおう言い訳しておこう。でもこの言い訳は来年は通用しないから、今から次の言い訳を考えておかなくちゃ・・・(^^;)。
 では、宣言。来年こそ、きちんとした本を出版しますッ!(毎年宣言しているような気がするが・・・)

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〔最近、聞いたコンサート〕
12月11日(火)
大阪フィルハーモニー交響楽団京都特別演奏会。於京都コンサートホール。指揮:大植英次、ヴァイオリン:ルノー・カプソン
曲目 ベートーヴェン/序曲「レオノーレ」第3番 ハ長調 作品72b、ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲 第1番 ト短調 作品26、ベートーヴェン/交響曲 第7番 イ長調 作品92
 久しぶりの大フィルを聞く。実は、大植英次さんの指揮を聞くのははじめてである。身振りの大きい、ケレン味の多い指揮姿が印象的だが、音楽の内容は凄い。

12月12日(水)
同志社女子大学音楽学科第37回定期演奏会。於京都コンサートホール。
 〔同志社女子大学音楽学科合唱団〕ジェルジ:Missa Nona(ミサ曲第9番)、三善晃:女声合唱のための「三つの抒情」
 〔同志社女子大学音楽学科管弦楽団〕イベール:寄港地、ブラームス:交響曲第2番ニ長調
 勤務先の大学に音楽の専門の学科があるのは、なんだか「のだめカンタービレ」に迷い込んだみたいで、うれしい。年二回の定期演奏会、春は聞き逃したので、はじめての経験である。あたりまえの話ではあるが、楽員はすべて若い女性。オーケストラとしてはいっぷう変わった風景である。なかには、私の授業をとっている学生さんも混じっているらしい。各パートの首席奏者にはそれぞれ一番達者な人を抜擢しているようで、なかなかの聞き物となった。ウチの大学、なかなか捨てたモンじゃないぞ、ということがよくわかって、嬉しい限りである。とにかく、せっかくのわが大学のオーケストラと合唱団なんだから、末永く応援したいものである。

12月24日(月・祝)
京都フィロムジカ管弦楽団第22回定期演奏会。於長岡京記念文化会館。清水史広指揮。
 曲目:山田耕筰 交響曲ヘ長調、ハチャトゥリアン 組曲「仮面舞踏会」、シベリウス 交響曲第7番ハ長調
 京都で活動するアマチュア・オーケストラ。気に入っている「仮面舞踏会」をやるというので、足をのばしてみた。このオケ、あまり知られない変わった曲に積極的にとりくむことで知られている、らしい。確かに、山田耕筰の交響曲は初めて聞いた。アマ・オケとしてはかなりの水準で、熱演であった。
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〔呑み会〕
12月16日(日)
 ウチの奥さんの勤務先のK代表の御自宅で、KB大学のTM先生の「出版祝賀会」というの名の忘年会。午後3時からはじめて、気が付くと10時。

12月20日(木)
 わが学部の忘年会。西本願寺近くのフレンチ・レストランむとう。実は、いつもお世話になっているD大学のM教授の息子さんの店である。明るく洒落た店で、同僚の教職員の皆さんと、たのしく食事。

 12月21日(金)
 古代学協会「古代文化」編集委員会。そのあとは忘年会。私は同志社大学にかけつけて授業をこなし、終わるとすぐにタクシーにとびのって駆けつける。終盤にまにあったのが何よりである。角田文衞先生も嬉しそうに御出席である。そのあとは、二次会。

 12月25日(火)
 都城史研究者のNY先生の御自宅で、中国から来日中のOI先生を囲んでの、呑み会。都城史に詳しいT氏も一緒だから、呑み会なのかそれとも都城史研究会なのかわからない楽しい場となる。

2007.12.16

文化史学会大会、の巻

 山中章博士からの怨み言にもめげず、日記を取り戻すのに努力(でも、確かに高麗寺、行きたかったな〜(^^;))。

 12月1日(土)
 同志社大学で「文化史学会」の大会。全国学会ではあるのだが、事実上では同志社大学文学部文化史学科(旧・文化学科文化史学専攻)の教員・院生・卒業生が主体で、同窓会を兼ねているようなところもある。私の同志社大学での担当授業は全学共通科目(つまり、受講生のほとんどは文化史学科ではなく、他の学部の学生)なので、文化史学科の「後輩」の皆さんがふだんはどんな研究をされているか、なかなか触れる機会がない。そこで、この文化史学会だけはできるだけでかけていくことにしている。行ったとたん、いくつかの報告の「司会」を仰せつかる。まあ、これも勉強になるから喜んでやらせていただく。
 昼休みには文化史学会の評議員会。私は「監事」として、会計監査の義務がある。その後、公開講演を聴いてから、会場を変えての懇親会。久しぶりの皆さんと懇談。

 12月3日(月)
 同志社大学に出講。オムニバス科目の「学際科目2—シルクロード—」を毎年二回担当しているが、その最終日である。うっかりして映像機械のコードを忘れてきて、あわてて研究室に走って帰る(同志社大学と同志社女子大学は隣接してはいるのだが、やっぱり走って往復すると息が切れる(T_T))。この授業、ここ10年間ほど参加させていただいていたのだが、本務校の都合で今年限りで退任させていただくことになっている。いささか、感無量。

 同女での授業を終えてからあわてて電車にとびのり、今度は花園大学に駆けつける。花園大学人権教育研究センターの「人権教育研究会」の第62回例会で、「中世京都の被差別民空間―清水坂と鳥部野―」を報告する。この報告のために、とにかく画像をたくさんたくさん用意した。まずまず好評だったかな?

 12月8日(土)
 京都新聞文化センターの「考古学講座」。今回の私の担当は、第3回目の「京都盆地の遺跡と古墳」。

 12月9日(日)
 滋賀県竜王町の「平成19年度 渡来文化講座・渡来系氏族について考える」に呼んでいただく。私の担当は、第4回目の「渡来系文化と須恵器」。同町教育委員会のTさんに迎えていただき、同町立図書館へ。なかなか立派な施設である。講座もけっこうな数の人々で、皆さん、大変熱心に聞いていただく。こっちがたじたじとなるような鋭い質問も飛び交う。
 終了後は、Tさんにお願いをして、竜王町教育委員会が以前に発掘調査した鏡山窯址群の出土須恵器を見せていただく。やっぱり、じっくりと見るといろんな地域色が見えてくる。

 12月10日(月)
 夕方、京都駅近くで国立歴史民俗博物館のNA博士と落ち合う。例の「長岡京遷都」展が無事終了して、資料の返却に回られているのである。私はこの展示の委員であるとともに、資料の「出品者」でもある(たしか、この展覧会の唯一の個人出品者)ので、返却いただくことになる。返却は簡単にすませて、そのあとは当然のごとく、飲みにいく(こちらが主目的?(^^;))。NA博士からは、日本古代史研究の最新知見を吸収。楽しかったので、けっきょくはぐでんぐでん。

 12月11日(火)
 朝一番に、同志社女子大学史料室で史料調査。古い駒札で読めないものがある、ということなので、赤外線機能付きのビデオカメラを持ち込んで映し出すと、見事に解読できる。
 昼前、同志社大学に急行し、BJ学部のST博士と落ち合う。東京からCK出版社の編集者Tさんを囲んで、最終の打ち合わせ。

 12月14日(金)・15日(土)
 寒い。寒いぞ。小雨まで降っている。嵯峨野・大覚寺を巡見するが、体力消耗。翌日には豊国神社から豊国廟へ巡見。豊国廟の489段の階段はさすがにしんどい。足がぐたぐた(T_T)。

民博でのオセアニア、の巻

P1040876 11月23日(金・祝)
 古い友人のTHさんと約束があったので、国立民族学博物館開館30周年記念特別展「オセアニア大航海展—ヴァカ モアナ、海の人類大移動—」(2007年9月13日~12月11日)にでかける。日本最高の博物館のひとつであるが、最近はあんまり行っていなかった。特別展と常設展をゆっくりと観覧。常設展での私のお気に入りは、言語展示のコーナーにある「日本の方言」の比較装置である。開館以来のものだからもう撤去されているかも、と心配したが、確かにまだ現役で動いてくれていて、一安心。日本各地の方言で「桃太郎」を話してくれるというスグレモノである。ここに来るたびにボタンを押すのは、もちろん「京都・西陣」の京ことば版「桃太郎」。おちついた熟年男性の渋い声が流れてくるが、この話者、なんと、民博の初代館長にして創設者・梅棹忠夫博士その人なのである。ただ、御大の御自らの御出演だということはあんまり知られていない。
 展示館を出て休憩していたら、突然、後ろから声をかけられる。ありゃりゃ、元の同僚であり、今はTS大学に勤務されているSH氏じゃないか!  連れのTHさんと共に、奇遇を喜ぶ。
 秋の日本庭園での紅葉(写真)を堪能してから、帰洛。ウチの奥さんも誘って、3人で御所の南側のタイ料理。

 11月24日(土)
 オムニバスでやってきた、京都新聞文化センターの「京都ガイド塾(2)」の最終回で、「京都の文化財について」を語る。
 夜、N出版社の編集者IS氏と待ち合わせ。先斗町の鳥料理屋さんでじっくりと話し込む。いろいろと御配慮いただき、ありがたい限りである。

 11月25日(日)
 同志社女子大学の推薦入試。転勤してきてから始めての入試業務(面接)に臨む。

 11月27日(火)
 同志社共済組合の総会。ホテルグランヴィアで、なかなか豪勢なパーティ。

2007.11.21

歴博フォーラム、の巻

11月16日(金)
 大谷大学博物館で開催中の「法隆寺一切経と聖徳太子信仰」展を見る。大規模ではないが、きわめてよく整った大学博物館。うらやましい限りである。展示も、大谷大学の底力を感じさせる内容である。午後は、京都文化博物館の「トプカプ宮殿の秘宝」展を駆け足でみてまわる。私がイスタンブルを旅したのは10数年も前。懐かしく思い出す。
 その後、(財)古代学協会の「古代文化」編集委員会。

11月17日(土)・18日(日)
Rekihaku 国立歴史民俗博物館の「長岡京遷都」展の関連イヴェントの「歴博フォーラム 激動の長岡京時代」のため、東下。朝早くおきて、同志社女子大学の朧谷寿教授と、SM博士とまちあわせ。山中章博士は名古屋駅で合流するが、残念ながら号車が違う。昼前、歴博到着。担当の仁藤敦史准教授が来てくれて、展示を観覧。朧谷先生はまさに嘗めるように展示を御覧になる。さすが、である。その後、東京・秋葉原まで戻って、ホテルで皆さんと落ち合い、大宴会。
 日曜日、いよいよ本番のフォーラムである。大挙して、皇居のお濠ばたの東証ホールにおしよせる。しばしの歓談中、メイン・ゲストの永井路子先生が御登場。お会いできて光栄です。午前中は、永井・朧谷両先生の座談会「長岡京から平安京へ—光仁・桓武・嵯峨朝の世相—」で、山中博士と私とで司会をつとめさせていただく。永井先生の談論風発を朧谷先生が見事にリードされ、和気藹々の楽しい座談会となる。時間厳守を厳命されていたが、数秒と狂わず時間通りきっちり終了。自慢モノである。会場をでると、永井先生の熱狂的ファンが先生をとりまく。
 午後は、この展覧会の展示プロジェクト委員の皆さんの研究報告。なんと12時50分から15時40分まで、休憩無しで6本のマラソン報告となる。最後は総合討論。御指名いただいたので、長岡京廃都の原因について、その場で気が付いたことを述べる。17時すぎ、閉会。楽しく盛り上がり、また、刺激充分のフォーラムだった。(写真=〔上〕総合討論、〔下〕朧谷教授を尊敬の眼差しで見上げる山中博士。右隣は永井先生)。そのあとは、東京駅に場所を移して歴博のHM館長も加わって、最終の宴会。
 この展覧会の母体となった歴博共同研究「律令国家転換期の王権と都市」から数えると、実に6年間におよぶロングランの研究だった。これで一応のキリとはいえ、お名残り惜しいな・・・
 あとはともかく、ひとりでも多くの方がこの「長岡京遷都」展をみていただけるよう、祈るばかりである。みなさん、まだ間に合いますので、ぜひぜひ歴博に足をお運びくださいm(_ _)m

【刊行物】
◎山田邦和「かんぎこういん 歓喜光院」「じゅらくてい 聚楽第」「しょうかどう 松花堂」「ずいしんいん 随心院」「せんにゅうじ 泉涌寺」「ふくちやまじょう 福知山城」「へいあんきゅう 平安宮」「へいあんきょう 平安京」「へいあんつうし 平安通志」「へぬし 戸主」「ほ 保」(小野正敏・佐藤信・舘野和己・田辺征夫編『歴史考古学大辞典』所収、東京、吉川弘文館、2007年2月)、300・589・601・643・687・1004〜1005・1031〜1032・1032・1034・1042・1044頁

2007.11.16

「長岡京遷都」展、宣伝、の巻

Nagaoka
【宣伝】
千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館では、特別展「長岡京遷都—桓武と激動の時代—」を開催中です。会期半ばを過ぎました。長岡京研究の最新の成果を投入した、リキのはいった展覧会になりました。これは、見逃すと一生の損! 12月2日までですので、どうぞ歴博にお急ぎください!

と、いうわけで、この展覧会の関連イベントの「歴博フォーラム」のために、明日は歴博、あさっては東京行きです。

ひこにゃんって何だ?、の巻

さて、急いで日記をとりもどそう。

10月28日(日)
洛中のウィングス京都で、前近代都市論研究会。「Yさん@K研究所」と、「Yさん@AK大学」の報告。従来は「Yさん@K研究所」と「某古代史研究者」こと「Kさん@SK大学」、それに私を加えて「YYK三悪トリオ」とか言われてきた。2次会の席で、ここに「Yさん@AK大学」を(ムリヤリ)加入させて、YYYKとすることを決定。ネパール料理を堪能した後、2次会は焼酎。最近、琵琶湖周辺の某城下町では〝ひこにゃん〟と称する奇妙な動物が跋扈しているという噂を聞きつける。新種の動物であるらしいし、もしかして妖怪なのかもしれないが、詳細はわからない。なんでも、某城下町の駅前を歩いているとこの動物に抱きつかれて顔を嘗められる、らしい〔←ウソ〕。「ひこにゃん? 何、それ?」と言ったら、一斉に笑われて、某古代史研究者のKさんからは「非国民」の称号を賜るにいたる。近江の国の非国民に認定されたからといって痛くも痒くもないのであるが、それでも、あんまりといえばあんまりな言われようである。知らんがな、逢坂山の向こうのことなんか!と強がってはみるが、しかし、他のみんなもひこにゃんを知っている中ではいささか分が悪い。京都生まれの某氏にいたっては、携帯電話の画面にひこにゃんの写真を入れていることが判明。不思議な趣味の持ち主である。隠れ近江国人、ということなのだろうか?

11月2日(金)
少し時間が空いたので、神戸行き。神戸市立博物館で開催中の「失われた文明〜インカ・マヤ・アステカ展」を見学。メソアメリカ文明とアンデス文明については最近は勉強を怠っているので、最新成果に触れることができるのがありがたい。
 市博を出てからは、神戸海洋博物館と神戸華僑博物館を見学、南京町の中華街で食事。しかし、三宮のG書店に行くと、近く店じまいをすると聞かされる。神戸としては数少ない風格ある古書店だっただけに、いささかショック。

11月3日(土・祝)
 ウチのゼミ生をつれて、京都御所一般参観にでかける。京都の歴史のゼミ生なんだから、京都御所を知らないでは恥ずかしいのである。今回は紫宸殿の南庭まではいることができ、ラッキー。京都御苑の南西端の閑院宮邸も近年から見学できるようになったので、上がり込む。終了後は、河原町のお好み焼き屋さんで「宴会」。

11月4日(日)
下京区身体障害者団体連合会の平成19年度「福祉のつどい」(於京都東急ホテル)に呼んでいただき、「戦国時代の京都」を講演する。このところ、この団体にはおなじみさんになっている。席に着くと、隣は某政党の幹事長をつとめる有名政治家だったので、びっくり。
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最近、出たもの。
◎山田邦和「暮らしと葬送の遺跡〜福井遺跡、大虫神社経塚」(加悦町史編纂委員会編『加悦町史』資料編 第1巻所収、京都府与謝野町、与謝野町役場、2007年3月)343〜344、381〜390頁
◎山田邦和「桓武伝承〜桓武陵」(国立歴史民俗博物館編『長岡京遷都—桓武と激動の時代—』図録 所収、佐倉、国立歴史民俗博物館、2007年10月)26〜27頁
◎山田邦和「埋蔵文化財をめぐる社会システムの混迷」(『日本史研究』第542号掲載、京都、日本史研究会、2007年10月)74〜79頁

森浩一先生傘寿記念会、の巻

またまた、ずいぶんのごぶさたである。サボリ癖がついちゃったな・・・・

10月3日(水)
同志社大学文学部文化史学科の嘱託講師の懇親会。

10月6日(土)
京都新聞文化センター『京都観光「ガイド塾」』の第1回で、「京都の歴史(平安京時代)」を話す。
夜は、H大学のY教授の御自宅で、「月見の宴」。

10月9日(火)
国立歴史民俗博物館の「長岡京遷都」展の内覧会に出席。

10月10日(水)
古代学協会の新しい共同研究「仁明朝史の研究」の会合。

10月13日(土)14日(日)
日本史研究会の大会。例によって、夜は、文理閣の黒川代表の御自宅で、痛飲。

10月18日(木)
同志社大学の寒梅館で、映画「武士の一分」を見る。主演は木村拓哉さん。いわずとしれた、工藤静香さんの御主人である。

10月19日(金)
京都市環境評価委員会。

10月26日(金)・27日(土)
全国大学博物館学講座連絡協議会西日本部会の大会が花園大学で開催される。わが大学は、新入会員としての「デビュー」をかざる。

10月27日(土)続き
Morisanzyu森浩一先生の傘寿記念パーティが、京都タワーホテルで開催される。なつかしい顔ぶれが集まって、盛会。森先生も身体には注意に注意を重ねて生活しておられるようで、お元気なご様子。「まだまだ元気で、醍醐寺の裏山もこないだ行ってきた」とおっしゃるので、安心である。「食い物に対する執着がなくなったら早く死ぬ」と、いつもながらの森節がとびだす。
 帰りにいただいたのが、先生の新著『古代史おさらい帖—考古学・古代学課題ノート—』(筑摩書房)である。先生の、学問への変わらぬ情熱に、感動。

2007.10.12

中学校同窓会、の巻

 しばらく時間が空いてしまった・・・・・

 9月22日(土)
 京都市埋蔵文化財研究所が発掘調査している、平安宮豊楽院清暑堂の現地説明会。見事な成果。また、平安宮復元に重要な定点が加わる。
 
Dousoukai 夜、京都ロイヤルホテルで、京都市立銅駝中学校の同窓会。二年前の同窓会は所用で欠席したから、久しぶりである。母校である銅駝中学校は、街中の小さな小さな(1学年2クラスしかない)学校だった。私たちが卒業してからあと、学校統合によってなくなってしまった(跡地は京都市立銅駝美術工芸高等学校になっている)。今回の同窓会には30人くらいが集まったから、半数近くが出席したことになる。卒業後30年以上たったことを思うと、なかなか出席率はよいのではないだろうか。上の写真の真ん中は、私たちの「恩師」である青木稔先生である。今は定年退職されて趣味の絵に打ち込まれ、しばしば個展も開いておられる(先日のNHKのテレビにも出演されていた)。中学校時代というとちょうど、私が考古学に目覚めた頃だった。青木先生は技術科が専門だが社会科も担当されておられたので、いわば、先生は私の最初の歴史の師匠である。
 ショックなこともあった。同級生の女性のうちのひとりが、昨年、急な病で亡くなったというのである。また、昨年大病を患って奇跡的に生還した、とか、大きな手術を受けた、とかいう話がとびかう。
 2次会は、恒例によって同級生のひとりが経営する祇園のバー。大騒ぎ。

 9月23日(日・祝)
 同志社女子大学のオープンキャンパス。ウチの学部の模擬講義を仰せつかったので、「史跡が語る京都の歴史」をやる。終了後、あわてて電車にとびのり、岐阜県大垣市へ。山中章博士の新規の研究会に、息を切らせながら飛び込む。

9月25日(火)
 某機関の方々と、会食。焼肉。

  Hamaguri9月27日(木)
 先月の中国旅行の打ち上げ会。写真は、見たこともないような巨大なハマグリとマツタケの鍋。口に含むのがもったいないような感じである。

 9月28日(金)
 午前、京都新聞文化センターの講座。
 午後、京都アスニーの「アスニー・セミナー」、「中世都市としての嵯峨」を話す。

 9月29日(土)
 午前中の業務を片づけて、午後、日本史研究会例会9月例会にとびこむ。「京都からみた東国武士の展開と鎌倉幕府の草創」として、京都女子大学の野口実教授が「東国武士と京都」を報告、京都大学大学院の元木泰雄教授がコメントをされる。両教授とも絶好調で、ひたすら感心して聞き惚れる。SN大学のMK教授にも、久しぶりに会うことができる。懇親会でじっくりと語った後、元木教授の行きつけのバーで二次会。

2007.09.11

ロック・ライヴと太閤堤、の巻

9月7日(金)
荷物があったので、車で大学に行く(普通は電車通勤)。そこで、昼食には遠出をして、噂のラーメン店「無鉄砲 本店」に足を伸ばす。前から行きたかったのだが、なにせ、京都府木津川市梅谷という、正直いってよくもこんなところに、というような辺鄙な場所である。それでも、噂が噂を呼んで、いつもいつも押すなへすなの大行列だということだから、大したものである。確かに、平日の昼間にもかかわらず、列ができている。Muteppouしばらく並んで、やっとラーメンにありつく。驚いたことに、トロトロの濃厚スープ。さすがに「天下一品」ほどではないが、それでもこれだけのねっとりとしたスープはめったにお目にかかれない代物である。豚骨主体だが、豚骨特有の臭みはまったくないし、ほんのりとした甘みも感じられる。珍品である。麺が繊細さに欠けるのはちょっと減点だが、スープがユニークなので、おもわず「替え玉」を頼んでしまう。

9月8日(土)
朝日カルチャーセンターに出講。これまでの「京都」シリーズとは別に何か新規ものを、ということで、花園大学の松田隆行准教授と古市晃専任講師を誘って、「戦の日本史」という連続講座をやることになる。今日はその一回目、私が「保元の乱」を話す。
講義を終えて、あたふたと京阪電車に乗車。宇治に向かう。「乙方遺跡」において、宇治川に設けられた「太閤堤」のすばらしい遺構が検出された、のである。当てずっぽうで歩いてみると、驚いたことに、宮内庁治定の「莵道稚郎子宇治墓」のすぐ西側の隣接地である。遺構はさすがにすばらしい。伏見城研究・巨椋池研究を再度やりなおしてみたくなる。

9月9日(日)
Snoozer家で寝坊していたら、甥(妹の息子)から電話。彼がやっているロックバンド「SNOOZER」解散ライヴなので、来てくれ、という。彼のグループのステッカーの作成などにはウチのパソコンが奮闘したから、ご招待いただく。夕方、河原町三条のVOX HALLに出かける。耳を貫く大音響がはじまる。甥はベースギター。みんな、解散ライヴだというので、ノリノリの大熱演である。挨拶に感極まって、甥は涙をぼろぼろこぼしている。若いって、やっぱり、いいね。帰りは、妹等といっしょに、その向かい側のイングリッシュ・パブで一杯。

9月10日(月)
同志社大学等が主催する「楽洛キャンパス」(主催:京都観学研究会〈同志社大学・JTB西日本〉・京都商工会議所)に出講。その中の「京の川—鴨川逍遙ガイダンス—」の中の「伏見・巨椋池〈ときめき
〉探検—秀吉の町づくりと治水—」
を担当する。土曜日に見たばかりの「太閤堤」の最新情報がさっそくに役に立つ。午前中は同志社大学今出川キャンパスで講義。15時から現地に場所を移し、課外講座「秀吉の伏見城下町探訪と老舗料亭・魚三楼の夕食」となる。大手筋→伏見銀座跡→御香宮→松平筑前公園→伏見城〈木幡山城〉治部少丸西側→治部池→伏見桃山城公園→伏見城〈指月城〉舟入跡→同城本丸跡→観月橋→向島の太閤堤跡→伏見奉行所跡、と巡見。雨が降らなかったのは幸いだが、暑くてへとへとになる。それから、伏見の老舗(格子戸には鳥羽伏見の戦の弾痕が残る)の京料理「魚三楼」で歓談を兼ねた夕食。

2007.09.09

長岡京展、完成へ!、の巻

9月2日(日)
 京都大学で、国立歴史民俗博物館の特別展「長岡京遷都−桓武と激動の時代−」の展示プロジェクト会議。2002〜2004年にやった共同研究「律令国家転換期の王権と都市」(研究代表 山中章三重大学教授)の成果をわかりやすい形で示す展覧会である。歴博側の担当者である仁藤敦史准教授と村木二郎助教の御努力により、ほぼ、形ができつつある。私も、宿題(単にサボリで遅くなっただけです(^_^;)。村木さん、ご心配をかけてすみませんでしたm(_ _)m )をようやく提出することができる。
 今回はその打ち合わせの最終回。関連催事である講演会などの細部を詰める。私に割り当てられたのは、11月18日に東京でおこなわれる歴博フォーラム第62回「激動の長岡京時代」の、永井路子氏(作家)と朧谷寿先生(同志社女子大学)の対談を、山中博士とともに共同司会すること。11月10日の歴博講演会第287回「桓武の王権を考える」で講演をすること。そして、11月11日に会場でギャラリートークをやること、である。なかなか、出ずっぱりなのである。
 山中博士は常々、山田は機会さえあれば長岡京の評価を貶めてやろうと虎視眈々と狙っている、根性のひん曲がった悪辣な平安京至上主義者である、と宣伝しておられるが、これこそがまったく事実に反する内容であることは、私のブログを読んでいただいている方ならばよくよくご存じのはずである。そもそも、「可愛い妹」の平安京が「頼りになるお兄ちゃん」の長岡京を貶める、なんてことがあるはずがないのである。今回の特別展と関連催事は、長岡京の意義を、特に東京を始めとする関東の方々にアピールする絶好の機会である。ぜひ皆様、展覧会と講演会の両方に、こぞって足をお運びくださいませm(_ _)m。

 終了後は、京都駅前に場所を移して楽しい楽しい飲み会。はっと気が付くと、すでに6時間以上呑んでいる。へべれけになっての帰りは、Y大学の古代史のMY准教授(同病相憐れむの痛風仲間!)と、タクシーに乗り込む。

2007.09.04

中国東北3省を旅する(3)、の巻

Ryozyunn 今回の中国旅行でもうひとつ楽しめたのは、いろいろな博物館を見ることができたことである。中でも、金の上京会寧府に隣接して新築された「金上京会寧府博物館」は瀟洒な建物で、なかなかに立派であった。
 大連市の旅順では、日露戦争の戦跡を訪ねることができるとともに、旅順博物館に行くことができた。そういえば、10年ほど前に、私の勤務していた京都文化博物館で「旅順博物館展」が開催されたことがある。大谷探検隊の収集資料など、貴重な文化財がかなり出品されていた。
 しかし、旅順は、なかなか行きにくいところである。軍港であるため、今も外国人の立ち入りは厳しく制限されている。確かに町の入り口には「許可を得ていない外国人の立ち入り禁止」という中国語と日本語によって記された看板が立っている。それでも、日露戦争戦跡は許可されやすいのだが、博物館は軍事地区にすぐ隣接しているため、なかなか外国人には許可が下りない、のだという。そこに行くことができたのであるから、ありがたい話である。
 旅順博物館の前身は、日本が経営していた「関東庁博物館」(最後の館長は考古学者・島田貞彦)である。行ってみて、驚愕した! 建物は関東庁博物館当時のそのまま。内部の陳列ケースなども、そのままのものが使われている。日本にも東京・京都・奈良の「帝室博物館(現・国立博物館)」があるが、ここでは建物は戦前のものが残っているが、内部はかなり改装されているし、もちろん当時の陳列ケースは使われていない(実は、京都国立博物館本館の戦前のケースの一部は、同志社大学歴史資料館に移されてそこでいまでも使われている。これ自身が今や文化財である)。要するに、旅順博物館には、戦前の日本の「国立」博物館の様相がそのまま残っているのである。これは、日本の博物館史を語る上でも本当に貴重な遺産である。元・京都国立博物館学芸課長であったS先生と、すごいね、すごいね、と囁きあう。
 旅順博物館では、この本館に対して、近年に作られた新館が隣接している。これも面白い。本館の展示が戦前からの伝統を彷彿とさせる「美術史展示(つまり、陶磁器、絵画、彫刻、などという分類)」であるのに対して、新館では「歴史展示(つまり、その地域の歴史を、時代を追って展示する)」であるのも、なかなかに良い対照をつくりあげている。また、新館には関東庁博物館時代からの「日本絵画」「日本・朝鮮陶磁器」などの一大コレクションがある。おそらく、中国では最大の日本の文化財のコレクションではなかろうか。私の知る限り、他の中国の博物館では日本の文化財に独立した展示室を設けているところはないから、これは中国の人たちに日本文化を知ってもらうためにも超重要な施設だということになる。
 せっかくの充実したすばらしい博物館なのに、そこが「未解放地区」であるのは、本当に惜しいと思う。

2007.08.27

中国東北3省を旅する(2)、の巻

 都市史研究にたずさわる私にとって、今回の旅行でのハイライトは、金の都・上京会寧府、渤海の都・上京龍泉府、そして満洲帝国の都・新京という、三つの「首都」を見ることができたことであった。

Kaineiiseki  【上京会寧府】 黒龍江省ハルピン市阿城区に所在する。ハルピン市の中心部からは車で1時間半くらいなのだが、訪れた日本人研究者は決して多くないかもしれない。航空写真で見ると、北・南のふたつの区画からなる都城がよく残っているのがわかる。特に、周囲の城壁がほとんど完全な形で遺存しているのは感激モノである。遺跡の中心部は、「皇城」と呼ばれる部分で、南門から北に向かって、五つ以上の建物の基壇跡が良く残っている。皇城南門は左右に「闕(楼閣)」が附設されていることはよくわかる。時間がないので、南門から北にむかってダッシュ、殿舎跡を踏破する。特筆されるのは、遺跡に隣接して「金上京会寧府博物館」が設置されていること。新しい瀟洒な建築で、展示内容も現代的に工夫がこらされていて、すばらしい。
 都城の西側に隣接して、金王朝の初代皇帝・太祖完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)の陵があることである。これは仰天した。と、いうのは、ここには今、一辺40m、高さ10mの堂々たる方墳がそびえたち、その背後の入り口からは地下の墓室(「地下宮殿」)に入れるようになっているのである。しかし、実はこれは全部ニセモノ。当初の太祖陵は高さ1mくらいの土壇であった(おそらく、本来の太祖陵は、古墳であるというよりも、陵と廟を兼ねたものだったのだろう)のであるが、それを1990年代に整備して今のような堂々たる姿にしてしまった、というのである。さらに、「地下宮殿」は完全な造りモノ。本当の墓室は未発掘であり、まったくわかっていない。これは明らかにやりすぎである。遺跡の捏造であると批判されても抗弁できまい。それにしても、解説を聞いてホントに良かった。現状を見ただけで、金の皇帝陵は堂々たる方墳である、などと思いこんでしまったら、大恥をかくところであった。さらに、模擬「地下宮殿」の内部は地下水が染み出し、モウモウたる水蒸気が充満している。この環境の中に出土品の鉄器などを平然と展示しているのには目が点になった。
 
Ryuusenyamada 【上京龍泉府】 これは日本とも関係の深い渤海の都であるから、行った日本人研究者は多いはず。世界を股にかけた山中章博士などは、何度も訪れているんではないかしら。私はそのたびにヤキモチを焼いていた。唐の長安城を模倣したという点でも、日本の平安京と同時代の都城であるという点でも、行きたくてしかたなかった。今回、ようやく念願がかなった。
 ここも、城壁が本当に良く残っている。時間さえあれば都城の周囲を一周したいところであるが、さすがにそれは果たせなかった(この日、数百キロ離れた吉林に宿泊しなくてはならず、結局、午前中に上京龍泉府跡を見た後、10時間バスに揺られることになってしまった。これはさすがにしんどかった)。
 ここにも博物館があるが、規模も小さく、設備も古ぼけてしまっている。将来、すばらしい博物館が建つといいな。遺跡の中心である宮城の部分は、綺麗に整備されている。宮城南門(長安城の承天門に相当)は、左右に闕(楼閣)を附設している。先ほど、「桓武朝における楼閣附設建築」という論文を書いたばかりなので、感慨深い。ただ、ここでの闕はL字形に突出するのではなく、門の左右に一直線に配置されている。

Sinkyoyamada 【新京】 吉林省の省都・長春は、かつての満洲帝国の首都「新京」である。日本に担がれて皇帝となった康徳帝(清の宣統帝)・愛新覚羅溥儀については、映画「ラストエンペラー」でおなじみである(なお、溥儀の伝記を題材にした映画としては、一市民となってからの彼の後半生を題材とした中国・香港合作「火龍 ザ・ラスト・エンペラー」〔李翰祥監督〕というのも面白かった。小心者のダメ男だがどこか憎めない溥儀と、しっかり者の奥さんの掛け合いが絶品だった)。映画のシーンのあちこちを思い出しながら、溥儀の宮殿をながめる。最近になって改修された展示部分は、博物館として見ても明らかに一級の展示をしている。ただ、宮殿全体は思ったよりもスケールが小さかったのは意外だった。
 ひとつ、疑問があった。溥儀の宮殿は、新京の市街地の中では西北にかたよった町ハズレにあり、どう見ても帝国の中枢にはふさわしくない。おかしいな、と思っていたら、謎が解けた。市街地の一等地に、現在は「文化広場」などになっている広大な土地があり、これが本格的な宮殿建設予定地だったのである。いわば、今見ることのできる「宮殿」は、もともとは「仮御所」だったことになる。そうやって見ると、新京の都市計画を良く理解することができた。宮殿建設予定地の前面にはT字形の「大路」が通り、その周囲には国務院、最高裁判所などがならび、まさに帝国の中枢としての都市が建設されていたのである。もっとも、この新「宮殿」は結局は完成にいたらなかった。日本にしたら、自分たちが支配するための設備は一生懸命造ったが、皇帝の宮殿は最期まで後回しにしていたんだろうな。

 尻の重い私ではあるが、これからも、機会を逃さず、世界の都市と遺跡を歩き回りたいものである。

2007.08.26

中国東北3省を旅する、の巻

 中国から帰ってきました。2ヶ月のうちに2回も外国に行くとは、出不精の私としては新記録である。今回の旅行は、中国の東北の3省、つまり黒龍江省・吉林省・遼寧省の歴史を訪ねる、というものである。「団長」格のO先生を筆頭として、総勢19名。楽しい旅であった。

2007年8月18日(土)
 13時10分、関西国際空港を飛び立ち、中国時間15時10分に黒龍江省の省都・ハルピンに到着。スターリン公園、松花江など、市内を観光。ハルピン泊。

 8月19日(日)
 ハルピン市内観光。松花江クルーズ、中央大街、黒龍江省博物館、聖ソフィア教会、極楽寺と廻る。ハルピン泊。

 8月20日(月)
 ハルピンをたち、金王朝の前期の都である上京会寧府跡を見学。それから牡丹江市へ向かい、同市泊。

 8月21日(火)
 牡丹江市をたち、渤海王朝の都である上京龍泉府跡を見学。それから吉林省の吉林市へ向かい、同市泊。

 8月22日(水)
 吉林市で、高句麗の山城跡の残る龍タン山公園を見学。それから吉林省の省都・長春市へ向かう。長春はいうまでもなく、戦前の満洲帝国の首都・新京である。そこで、満洲帝国の皇帝宮殿(現在の中国では「偽満皇宮」と称している)をゆっくりと見学、さらに市内を回る。空いた時間を利用して、満洲帝国の新宮殿建設予定地であった「文化広場」を散策。同市泊。

 8月23日(木)
 長春で、旧・長春映画製作所を見学。満州帝国時代には、かの甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の映画製作所であったところである。その後、長春から飛行機で遼寧省の大連へ。大連市内(星海公園、老虎灘など)観光。同市泊。

 8月24日(金)
 大連市の旅順口区へ。日露戦争の激戦地である旅順で、東鶏冠山、203高地、水師営会見所を見学した後、旅順博物館へ。それから大連に戻り、同市泊。

 8月25日(土)
 早朝、大連をたち、関西国際空港に13時10分着。

2007.08.16

新生『古代文化』始動、の巻

Kodaibunka
8月15日(水)
 先日、(財)古代学協会の雑誌『古代文化』第59巻第1号ができあがった。いささか感無量である。

 この『古代文化』、50年以上の伝統を持つ学術雑誌なのであるが、2005年12月の「第57巻第12号」をもって、休刊に追い込まれていた。母体である古代学協会の財政難と、それにともなうリストラをめぐっての労使紛争の中での休刊だったのである。以前にも書いたように、古代学協会を古巣とする者のひとりとして、私もこれには心を痛めていた。最終的にはこの「紛争」は、専任職員のほとんどの退職および解雇という結末をむかえることになった。慣れ親しんだ職場を心ならずも去っていかれた皆さん(その多くは私の元の同僚諸氏である)は本当に気の毒だったし、彼らの心中を察すると、私も胸が張り裂ける思いがする。そして、これにともない、(財)古代学協会は、それまで経営していた「古代学研究所」を廃止したのである。
 ただ、世間では、この経緯をもって、(財)古代学協会それ自体が消滅したと受け止める向きもあるが、それは間違っている。確かに事業は縮小したものの、古代学協会自体は存続しているし、今後、どのような活動をおこなっていくかを模索中なのである。

 そもそも、古代学協会の原点は学術雑誌の刊行(当初は季刊誌『古代学』であった)というところにある。それが、協会の図体が大きくなるにしたがって、さまざまな研究事業が付加されてきたのである。今、協会が縮小を余儀なくされたのであれば、原点に戻るしかないと私は考える。さらに、『古代文化』は古代学協会というひとつの団体の機関誌にとどまるものではない。それは、高水準の学術雑誌として、いわば学界全体の財産なのである(若い研究者の中には、『古代文化』に良い論文が掲載されたことが決め手となって、念願だった研究職への就職がかなったという人が何人もいることを、私は知っている)。その点で、古代学協会として最も大事にしなくてはならないのは、学術雑誌『古代文化』だと思うのである。

 『古代文化』の再建にあたって、従来は月刊誌(年12冊)だったのが、季刊誌(年4冊)に改められた(月刊誌を楽しみにしておられた方々には申し訳ないことであるが・・・)。一冊あたりの頁数は3倍に増加したから、年あたりの総頁数に換算すると従来のレベルを保っていることになるのは確かである(写真参照)。従来は(上)(下)に2分割して掲載されざるをえなかった長い論文も、ひとつにおさめることが可能となる。
 
 混乱した『古代文化』の再刊も、緊急避難的ではあったが、2006年度版の第58巻の編集長に山中一郎・京都大学教授が就任され、同編集長の指揮のもとで収拾が図られた。そして、いささか遅れはしたが、現在までに第58巻は3冊が刊行されており、残る一冊(第58巻第3号)もまもなく出来上がると聞いている。そして、今回、山中編集長の後を受ける形で、本格的な編集委員会が結成され、第59巻の編集にあたっていたのである。

 『古代文化』刊行委員会
 委員長 : 角田文衞(古代学協会)
 副委員長: 江谷 寛(古代学協会)
 編集主任: 鈴木忠司(古代学協会)
 編集委員: 角谷常子(奈良大学)、関川尚功(橿原考古学研究所)、野口実(京都女子大学)、門田誠一(佛教大学)、森岡秀人(芦屋市教育委員会)、山田邦和(同志社女子大学)
 編集参与: 桑山由文(京都女子大学)、古藤真平(京都大学)、高橋克壽(花園大学)、田中俊明(滋賀県立大学)、寺前直人(大阪大学)、中村健二(滋賀県文化財保護協会)、西野悠紀子(女性史総合研究会)、古市晃(花園大学)、宮本純二(京都橘大学)
 事務局 : 山崎千春・麻森敦子

 編集委員のひとりとして自画自賛するわけではないが、第59巻第1号は、なかなかヴァラエティに富んだ、『古代文化』らしい内容になったと思う。これも、新・編集主任に就任された鈴木忠司氏と、編集事務局に「復帰」された山崎千春氏の御努力のたまものである。今回の号の中で特に嬉しかったのは、九州国立博物館研究員の市元塁氏が「北魏俑の発生と画期をめぐって」という力作を寄せてくれたこと。実はこの市元氏、8年前に私が花園大学に着任した時に最初に指導した学生のひとりであった。やはり、自分がいささかでも関わった若い研究者が見事に育っていってくれる様子を見るのは、研究者冥利につきるといわねばなるまい。

 今後の『古代文化』の継続的な刊行は、ひとえに、良い論文の掲載、そして、購読者の増加というところにかかっている。どうか研究者の皆さん、新生『古代文化』をあたたかく見守っていただくことをお願いいたしますm(_ _)m。そして、ぜひ、御研究の成果を積極的に御投稿してくださいm(_ _)m。さらには、『古代文化』の応援者として、その講読会員(会友)にもなってくださいませm(_ _)m(今、会友になっていただくと、『古代文化』第51巻〜57巻までのバックナンバー(一部欠号あり)もしくは古代学協会出版物の進呈という豪華特典\(^o^)/が用意されています)。
 投稿・入会の問い合わせは下記にどうぞ。
(財)古代学協会
  〒604-8131 京都市中京区三条高倉
  ℡:075-252-3000 FAX:075-252-3001
   E-mail:kodaigaku@deluxe.ocn.ne.jp

2007.08.13

チベット料理からイタリア料理へ、の巻

最近の講座・講演(予定含む)

◎朝日カルチャーセンター京都『平安京・京都の歴史を歩く』
(17)「王朝の都を訪ねて」
  4月13日 講義「王朝時代の京都」
  5月11日 講義「貴族邸宅の構造」
  6月8日 現地見学「平安貴族の邸宅跡を訪ねて」
(18)「聖武天皇遷都の謎—恭仁京・難波宮・紫香楽宮—」
  8月10日 講義「聖武天皇の遷都騒ぎ」
  9月14日 講義「聖武天皇彷徨5年の謎を解く」
  9月21日 現地見学「難波宮と大阪歴史博物館」

◎京都新聞文化センター〈京都検定・京都学講座〉『京都の原点を探る』
第3期「平安京前夜」
  3月23日 桓武天皇の登場
  4月27日 長岡京遷都
  5月25日 長岡京研究の現段階
第4期「平安京の誕生」
  6月22日 平安京遷都
  7月27日 平安京の構造
  9月28日 前期平安京の実像

◎『京都おこしやす大学〜京の魅力探訪ウォーク』(主催:JR西日本)
  7月22日「戦国武将ゆかりの地を訪ねる」(於豊国神社)
  8月4日「    同        」(於 同神社)

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7月21日(土)
 19日に春学期の授業終了。この日はイギリス行きの分の補講を4コマ続けてやる。土曜日だというのに、出てきてくれる学生諸君は本当にご苦労様。

7月22日(日)
 「京都おこしやす大学」。豊国神社で豊臣秀吉の京都を語る。その後、暑い中、耳塚、方広寺、大仏殿跡、豊国廟、智積院と巡見。豊国廟に登ると、汗だらけ。しばらく動けなくなる。

7月26日(木)
 春学期の試験、終了。

8月2日(木)
 数日前より、腰痛を発症(ギックリ腰では、ない)。情けない(>_<)。湿布をしていたがどうにも一進一退なので、仕方ないから医者に行く。注射からコルセットから血液検査からレントゲンから、えらい騒ぎになる。

8月3日(金)
 京都の埋蔵文化財関係者が集まって、飲み会。京都T大学にI教授、H大学にT准教授が着任され、京都に考古学の仲間がふたり増えた、ということのお祝い。さんざっぱら、騒ぐ。

8月5日(日)
 ウチの奥さんに引っぱっていかれて、京都コンサートホールに能楽の演奏家会「囃子堂」を聞く。帰りは、北区の中華料理「サカイ」で、「日本一」の冷麺

8月7日(火)
 KF大学のHT准教授に誘っていただいて、丹後の宮津行き。天橋立世界遺産登録可能性検討委員会の仕事が進んでいるので、現地見学である。調査現場と遺跡と資料館を駆け足で走り回り、最新の情報を仕入れる。特に、天橋立をのぞむ成相寺における最近の成果に、瞠目する。

8月8日(水)
 ウチの奥さんにねだられて、チベット料理にくりこむ。素朴な家庭料理である。

8月9日(木)
 京都府庁で、天橋立世界遺産登録可能性検討委員会のワーキング・グループ会議。正報告に向けて、いよいよ大詰めである。

8月10日(金)
 朝日カルチャーセンターにでかけたあと、京都文化博物館の「世界遺産 ナスカ展—地上絵の創造者たち—」を見学。アンデス文明の精華を堪能。ヴァーチャル・リアリティによる遺跡鳥瞰映像がすばらしい。
 いったん帰宅して、中国・隋唐洛陽城の復元図を四苦八苦しながらプリントアウト。機械から打ち出されるペーパーを引っ掴んで、とんぼ返り。山中章博士と落ち合う。博士は近く洛陽に調査旅行だということで、なんとか資料を手渡す。先斗町で見つけた落ち着いた鳥料理の店で、ふたりで怪気炎。

8月11日(土)
 午前中は下鴨神社糺の森の「古本祭」。とにかく汗だく。
 夕刻、いつものメンバー(通称3悪トリオ+2名)でのイタリア料理。次から次へと絶品の料理と、これまたすばらしいワイン。おいおい、気が付くと、高級ワインを4本も平らげているぞ! 時計を見るとびっくり。4時間半も騒いでいたことになる。至福の時間がすぎる。

2007.07.27

安朱古墓の被葬者は誰?、の巻

7月27日(金)
 ここ数日で、大小とりまぜ、いくつか書いたものが出た。
■山田邦和「太皇太后藤原順子の後山階陵」(「王権とモニュメント」研究会〈上原真人〉編『皇太后の山寺—山科安祥寺の創建と古代山林寺院—』所収、京都、柳原出版、2007年3月15日)84〜112頁
■山田邦和「京都市遠山黄金塚1号墳の再検討」(松藤和人編『同志社大学考古学シリーズIX』「考古学に学ぶ(III)」所収、京都、同志社大学考古学シリーズ刊行会、2007年7月1日)275〜284頁
■山田邦和「中世都市の考古学」(『季刊考古学』第100号「特集・21世紀の日本考古学」掲載、東京、雄山閣出版、2007年8月1日)108〜111頁
■山田邦和監修『とらべる京都 虎の巻—ツアーリーダーうんちくブック—』(改訂版)(〈東京〉、〈JR東海「そうだ京都、行こう」〉、〈2007年〉)山田邦和「京都 歴史のおさらい」     ←これは、去年出したものをそのまま、装丁を替えて改訂版としたもの

 『皇太后の山寺—山科安祥寺の創建と古代山林寺院—』の本は、2003年〜2005年まで続けられた、京都大学大学院文学研究科21世紀COE 「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」の「王権とモニュメント」研究会の成果である。この共同研究の主体となった山科の安祥寺の調査研究の成果は、これまで『安祥寺の研究 I 』『安祥寺の研究 II 』の二冊の報告書として刊行されているが、今回の本は、一般の方々にもわかりやすいように同研究の成果をとりまとめたものである。私といえば、研究会の楽しさにとりまぎれるだけで、報告書にはついに論文を書くことができなかった。せめて、今回の本には書かなきゃ申し訳ない、と焦っていたのであるが、ようやく念願を果たすことができた。この本のハイライトは、吉川真司・京都大学准教授の論文。ここで吉川さんは、例によっての例のごとしの緻密な研究により、大正年間に発見されていた「西野山古墓」が征夷大将軍・坂上田村麻呂の墓であることを立証している。これはすでに新聞でもとりあげられ、古代史学界に大きな興奮を巻き起こした。さすが、吉川さんである。
 私がここで扱ったのは、安祥寺の創建者である、仁明天皇女御・太皇太后藤原順子<のぶこ>の山陵(後山階陵)のことである。共同研究の親分の上原真人教授から頂戴したテーマは「山科の葬地」であったが、書いているうちに順子陵のことだけでいっぱいになった。でも、本全体のテーマからすると、この方が良かったと思う。順子の後山階陵は、現在は山科駅北方の山間部に治定されている。しかし、私はこれは、証拠に欠けると思っている。
 私の論文で問題としたことのひとつは、JR山科駅前で発掘された「安朱古墓」という平安時代前期の墓のことである。二重の木炭木郭という見事な構造を持つこの墓は、発見当初から話題を呼び、藤原順子の本当の陵である可能性も囁かれてきたのである。
 私も、なんとなく、そうかな、と思ってきたのであるが、今回、この古墓について再検討をおこなった。結論だけからいうと、安朱古墓は藤原順子陵ではない、と思う。それでは安朱古墓の被葬者は誰か? 私見では、順子の妹で、文徳天皇女御であった藤原古子(吉子とも)こそが第一候補だと考える。藤原古子? 誰、それ? と言われても仕方ないが、この女性、これから充分に検討する価値がある人だと思う。まあ、吉川さんの西野山古墓=坂上田村麻呂墓説に比べると見劣りはするし、インパクトにも欠けるけれども、仮説としては充分な有効性を持つ、と思っている。
 順子の「夫」であった仁明天皇の陵に隣接する貞観寺の跡地には、山中章博士の御自宅が所在することは有名?である。しかし、思わぬことであったが、藤原順子陵の位置を推定していくと、京都府立洛東高等学校の北端あたりだということになった。あらら! 洛東高校といえば、まさしく山中博士の母校ではないか! やっぱり、博士は最初から平安時代に憑依されていたんだな・・・・

2007.07.17

イギリスの思い出、の巻

7月17日(火)

 昨日まではカラッと涼しいイギリスで中世都市をめぐっていた。今日は、ねばっこい京都の夏の中で、祇園祭の山鉾巡行をながめている。まったく、不思議な感じがする。
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 今回のセッションの正式の名称は次の通り
International Medieval Congress (9-12 July 2007, University of LEEDS)
Session 122 (in Common Room of Seton House, Bodington Hall, University of LEEDS) Monday 09 July 2007: 11.15-12.45
Title: The Features of the Medieval Cities in Japan : The Present Stage of Research
Organiser: Hirokazu TSURUSHIMA, Faculty of Education, KUMAMOTO University
Moderator: Hirokazu TSURUSHIMA
Paper 122-a: KYOTO, the Capital of Medieval Japan / Kunikazu YAMADA, DOSHISHA Women's College of Liberal Arts
Paper 122-b: The Structure of Medieval Cities and Religion in Japan / Hiroshi NIKI, OSAKA City University
Paper 122-c: The Landscape of Local Political Cities in Medieval Japan / Aki YAMAMURA, AICHI Prefectural University

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Photo_1この地図に星印で示したところが、今回の訪問地です。
 今回はイギリスといっても、ロンドン市内は行っていない。また、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドは圏外。つまり、イギリス(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)を構成する4地方の内、イングランドだけを訪れたことになる。その限りでの印象を書きつづろう。
 行くまでは、なんとなく、日本もイギリスも大陸の端っこにくっついている島であり、面積も似ている(日本の本州は227,963平方キロ、イギリスのグレートブリテン島は219,850平方キロ)から、なんとなく、よく似た地理の場所のように思っていた。しかし、それはまったくの錯覚であったことを思い知らされた。
 イングランドはだだっ広い! これが旅を通じての強烈な印象である。とにかく、どこを走っても、山というものが見えない。どこまで行っても、低い丘が、のたのたのたのたと続いており、そこに広がる牧草地では羊がのんびりと草を食んでいる。関東平野に似ているのかもしれないが、面積からいうととうていそんな規模ではない。
 英語で、「山」Mountain と 「丘」Hill が違うのは知っていた。辞書によると、マウンテンは標高1000m以上の山、ヒルは標高100m程度の丘だと書いてある。なお、大阪府南部窯址群の須恵器編年の6世紀前葉の標式窯として「陶器山15号窯址」というのがある。学界では、この窯を「MT15号窯址」、そこから出土した須恵器を標式とする須恵器型式を「MT15型式」と呼ぶことが通例であるが、これはおそらく、「陶器山」をMt.Tokiと訳したのであろう。しかし、以前にも指摘したことがある通り、陶器山は標高150m程度の低い丘陵Hillであり、これをマウンテンと呼ぶのは明らかに誤訳なのである。そこまでは知っていたのであるが、なぜ英語で、ヒルとマウンテンをそれほど厳密に呼び分けるのか、判らなかった。
 イングランドの地形を見て、その疑問は氷解した。要するに、イングランドにはマウンテンは本当に数が少ないのである。それに対して、ヒルは、イングランド全土を覆い尽くさんばかりに、のたのたのたのたと延びているのである。
 これは、日本とは明らかに違う環境である。要するに、イングランドは「密度」が本当に低い土地なのである。イギリス最大の都市であるロンドンは人口700万を超える巨大都市であるが、第2都市のバーミンガムははるかに落ちて人口100万、それ以下は大都市と呼ばれるものであってもいずれも人口数十万人の規模にすぎない。これは、ロンドンが異常すぎるほどの巨大都市であり、イギリス全土の標準にはならないことを示している。それに比べて、日本はなんと「密度」の高い土地であろうか。日本人は、山地以外で使用可能な平地だけに、きわめて高密度の生活空間を創り上げてきたのである。日本の現代都市とイギリスのそれとを比べて、日本の都市はいかに雑然としているか、ということが指摘されることがある。しかし、これは無理難題というものだ。だいたいが、日本とイギリスではこれだけ「密度」が違うのだから、そもそも同一の土俵での比較はなりたたないのだから。イギリスの歴史や都市を考える場合、また日本とイギリスの文明の比較をするには、この環境の違いを深く認識しておかねばならない、と思う。

2007.07.16

無事帰国、の巻

 7月16日(月)
 台風の影響もなく、予定通り15時45分、無事に関西国際空港に到着いたしました。祈ってくれていた方々(?)、ありがとうございました。ただ、東海道線の人身事故と地震で、関空特急「はるか」が遅延。それに、祇園祭の宵山で渋滞。18時20分、帰宅しました。

2007.07.15

イギリス滞在中(4)、の巻

7月15日
 早いもので、もう帰国の朝である。朝の早い仁木さんが起き出すかすかな音を聞きながら、私はまだ、うとうと。6時45分、目覚まし代わりにしかけておいた私の携帯電話が、ピロピロピロピロと奇妙奇天烈な電子音を鳴らす。
 仁木さんが採ってくれた日本からの情報によると(このあたり、インターネット時代になって本当に便利になったものだ。昔だと、空港にいってから欠航がわかって大慌て、ということがしばしばだったもんな・・・)、なんとか台風は通り過ぎてくれたらしい。と、いうことは、われわれを迎えにきてくれる飛行機も、無事に関西国際空港を飛び立った、ということだ。一安心。
 イギリスに来ておどろいたことのひとつが、気温の低さ。日本でいうならば、まったく晩秋の涼しさである。暑がりの私にとっては、日本の(特に京都の)蒸し暑さに閉口していたことを考えると、まるで夢のようだ。なによりも、湿度が低いのがありがたい。寒い、という人もいるが、私にとっては快適このうえない。
 それに、イギリスの今の季節は夜が短い。夕方19時頃はまだ、日本でいうならば16時頃の明るさである。夜の21時頃まで明るいのだから、なんだか勘が狂う。所変われば環境も変わるものだ、と、しきりに感心。

イギリス滞在中(3)、の巻

7月14日
ラスティンガムの宿舎のみなさんに別れを告げて、三たび、ヨークに入る。とはいっても、あんまり時間はない。自由時間が1時間半だけもらえたので、駆け足でヨーク駅北側のヨーク国立鉄道博物館へ向かう。なんでも世界最大の鉄道博物館だということで、これは立ち寄る価値がある。中身は確かに広い。歴代のイギリスの鉄道客車が一堂に会している。なかに、Japanese SHINKANSENの車両も展示されているのは、ちょっとうれしい。さらに、日本語の旗に、東京の交通科学館と京都の梅小路機関車館とこのヨーク国立鉄道博物館が姉妹館であることが記されている。ちょっと、うれしい。
 ヨークの町を歩いていて、西方に巨大な観覧車が回っているのが見えて、気になっていた。いってみると、実はこの観覧車、鉄道博物館の付属施設であることが判明。時間もあまりないのであるが、せっかくだから、乗り込む。頂上からのヨークの町の全景は、やはり絶景。夢中でシャッターを押しまくる。
 ヨーク駅で、われわれのグループの半数の方々とはお別れ。そのあと、グループ全体の親方のKM大学のT教授、HB大学のA教授、RM博物館のT准教授、KMG大学のO准教授、それから仁木宏さんと私、というチームで、さらに南下。リンカーンLincolonという小さな町にはいる。ここでも、1874年に建てられたという瀟酒な造りの宿舎に、驚愕。それから、町中のパブで、ビールをやりながら食事。

 リンカーンの宿舎は無線ランが完備していて、自由につなぐことができる。ありがたや。

2007.07.14

イギリス滞在中(2)、の巻

7月11日
 チェスター行き。仁木宏さん、山村亜希さん、RM博物館のTさん、KMG大学のOさんという、日本史グループでの小旅行。1日、足が棒になるまでじっくりと歩き回る。帰り道、私だけは曲がり角を間違えて迷子になりかける。
 リーズに帰ると、IMC(国際中世史学会)恒例だという「IMCダンスパーティ」が始まっている。大食堂を会場にしてのディスコ大会である。びっくり。山村さんが、すごいね、すごいねと、感心することしきり。しばし、楽しむ。

7月12日
 国際中世史学会の最終日。午前中、TさんとOさんのグループの日本史の古文書のテーマの報告と、日本人グループの西洋史の報告に出席する。これで、学会終了。
 一足先にロンドンに向かう山村亜希さんを見送り、私たちは2台の車に荷物を山と積み込んで、出発。東へ東へと車を走らせ、夕方、ノース・ヨーク・ムーアズ国立公園の範囲内にあるラスティンガムLastinghamという小さな小さな村に到着する。ここのホテルは、まさに前世紀イギリスの正統的邸宅を改装したもの。豪華このうえなく、しばし、見とれる。ゆっくりと午後のお茶の時間を過ごし、豪勢な夕食とワイン。

 7月13日
 ゆっくりと朝をむかえる。しばらく朝の散策を楽しんだ後、ノース・ヨーク・ムーアズ国立公園を横切り、北海に面したウィットビーWhitbyという小さな港町へ到着。広大な海に感激しながら町を散策。町を見下ろす丘の上にある修道院の廃墟のウットビー・アビーに登る。
 ラスティンガムに戻ってからは、再び豪勢な夕食。


追伸 結局、うまくつながらず。この更新も、仁木さんのパソコンを借りてやることになる。ですから、やはり最低限の内容です。


 最新情報によると、日本は台風のただ中だという。もしかすると、われわれを迎えにきてくれる便が遅れるかもしれない。うまく飛んでくれると良いのだが・・・・ (ところで、日本では台風の神様って誰だっけ? イギリスから祈りを捧げようと思ったが、みんなで頭をひねっても、わからなかった。誰かご存知なら、我々のためにぜひ祈ってください)。

2007.07.09

イギリス到着、の巻

イギリス、無事に到着。
今、インターネット接続の実験中。

2007.07.06

行ってきます、の巻

2007年7月6日(金)
 山中章博士、御退院おめでとうございます \(^o^)/ \(^o^)/。言っておきますが、山中博士は働きすぎだ、と言っているのは、私だけではないですよ。ほとんど学界全体の世論といってもよいほどなんですよ。少しは身体をいたわってくださいね。

 ともあれ。 う〜〜。忙しい〜〜〜。今日までにかたづけなくてはならない仕事がたくさんあった。必死でとりくんだつもりなのだが、半分しか仕上がらず。あちこちに迷惑をかける。ごめんなさい。

明日から7月16日(月)まで、生まれて始めて、イギリスに行きます。イギリス・リーズ大学University of Leedsでおこなわれる、国際中世学会International Medieval Congressで報告することになったのです。とはいうものの、私独自の判断でそんな大それたことをやろうという決意にいたるはずがなく、要するに、仁木宏さんから、一緒に報告しよう、と誘われたからです。私が「中世の首都・京都 KYOTO, the capital of Medieval Japan」、仁木さんが寺内町と戦国都市、愛知県立大学の山村亜希さんが守護所と戦国城下町の報告をします。何が待っているのかわかりませんが、ヨーロッパの研究者に、日本の中世都市研究の一端を紹介できたら、と思っています。
 しかし、日本語原稿を作るのだけでも大変だったのに、それを英語に翻訳してもらい(自分では翻訳できない(>_<))、リハーサルしてみると大幅に時間超過することがわかったので一斗樽ほど汗をかきながら原稿枚数を削減し、発音を調べ、リハーサルをくりかえして時間におさまるように調整し、中世京都の図面をいっぱいつくり、それに英語のキャプションを貼り込み、さらにパワーポイントの発表資料を作る。こんなに大変な報告、初めてだ・・・・
 ともあれ、明日、行ってきます。向こうからはブログの更新ができるかどうかわかりませんので、詳細は帰ってから。

森浩一先生サイン会予告、の巻

Photo
来る7月21日、森浩一先生の新著の出版を記念して、先生のサイン会がおこなわれます。たくさんの本を出してこられた先生ですが、サイン会をされるというのは大変珍しいことです。森先生のファンの方には見逃せないイヴェントとなることと思います。乞うご期待。

2007.06.23

門脇禎二先生、さようなら、の巻

 2007年6月15日(金)
 12日の夜に、衝撃的な知らせを聞いた。日本古代史の泰斗として知られる、京都府立大学名誉教授・京都橘女子大学名誉教授の門脇禎二先生がお亡くなりになられたというのである。 門脇先生は、京都府立大学におられたということもあって、京都文化博物館在籍当時によくお世話になった。特に、「大唐長安展」(1994)では検討委員会の座長をおつとめいただき、現場の我々に対して懇切な御指導を賜った。豪放磊落で、かつ繊細な心遣い、という形容がぴったりあてはまる先生であった。後に知ったのだが、先生は私ごとき者のことまでも気に懸けていただいており、見えないところから援助の手をさしのべてくださっていた。涙がでるほど、ありがたいことであった。
 15日、先生の御通夜。16日に告別式だという。どちらも日程がつまっているのだが、お別れをいわないわけにはいかない。金曜日の夜の授業をそそくさと終えて、京都駅の八条口にある葬祭場に急行。しかし、着いた時にはもう御通夜が終わったところであり、ぞろぞろと参列者の皆さんが帰って行かれる。片づけをしているところになんとか潜り込ませてもらい、祭壇に安置された先生の御棺の前で、しばしの祈りを捧げる。
 門脇先生、本当にありがとうございました。どうか、安らかにお眠りください(合掌)。

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2007年6月18日(月)
 京都府庁にかけつける。天橋立世界遺産登録可能性検討委員会の、ワーキンググループ会議。KF大学のHT准教授を囲んで、うちあわせ。少し、方向性が見え始める。そのあと、久しぶりにHTさんと、痛飲。それぞれの大学で、同じような悩みをかかえながら仕事を進めていた、ということが判明。驚愕。

 2007年6月20日(水)
 夜、京都センチュリーホテルで、同志社女子大学教職員の懇親会「昭四会」(昭和四年設立に由来するという)の大会。180人ほどが集まって、盛会。大きなマグロが登場して、マグロの解体ショー付きである。贅沢に、トロの刺身を頬ばる。利き酒などをしながら、ほどほどによっぱらう。

2007.06.19

ピジョー先生、ようこそ、の巻

 2007年6月9日(土)
 大阪樟蔭女子大学考古学実習室で開かれる、日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会関西連絡会にでかける。とはいっても、最近は、日程が合わずにサボリ続け。申し訳ない次第である。例によって、中身の濃い議論。珍しく、飲み会は欠礼して帰宅、仕事にかかる。

 2007年6月12日(火)
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 花園大学での授業を終え、すぐに木屋町二条。南カリフォルニア大学の日本史のピジョー教授が御夫君とともに来日。SM博士が京都をご案内されたあと、合流ということになる。DJ大学O教授ご推奨のしっとりとした料亭。KR文化館のYEさんは、いつもながらの美しい着物姿の上、流暢な英語で通訳をつとめてくださる。楽しい時間が過ぎる。

 2007年6月14日(木)
 同志社大学考古学実習室の定例研究会に出席。韓国・忠清文化財研究所の若い研究員の方々が来日されているので、その歓迎会。同志社大学寒梅館のレストランで、ワインで乾杯。

 2007年6月16日(土)
 前近代都市論研究会の例会と花園大学考古学研究室総会が重なる。と、いうことで、昼間は前者、夜は後者にでかけることにする。
 前近代都市論研究会は、京都アスニー。その前に、レストランで仁木宏さんと山村亜希さんとで食事をしなから、来月に迫った英国での学会の報告について、うちあわせ。研究会では、ET博物館のSS氏をゲストにおよびし、東国の中世の城館の研究の現状をみっちりと勉強する。
 夜の懇親会は、木屋町の飲み屋で、花園大学考古学研究室総会の懇親会。懐かしい皆さんが揃う。高橋克壽准教授が、花大考古学の新しい時代に向けて、着々と仕事を進めておられる。安堵。

2007.06.05

天橋立を世界遺産に!、の巻

またまたサボり癖がついている。我ながら、仕方ないな。

 2007年5月19日(土)
 京都文化博物館のOB会の設立総会。私が博物館を離れて、もう8年がたつ。懐かしい顔が集まる。
 懇親会は失礼して、日本史研究会の五月例会に出席。「前方後円墳体制の再検討」をテーマに、東海大学の北條芳隆教授と大阪大学の寺前直人氏の御報告を聞く。北條教授の大胆な仮説に目を見開く。そのあとは、当然のごとく、飲み会。 

 2007年5月20日(日)
 夏に行く、英国での「国際中世史学会」に関係される先生方が来日。KM大学のT教授のご案内で、東京→京都→熊本と列島横断されるそうで、京都の案内役を仰せつかった。京都駅でお出迎えをして、広隆寺の前の料亭で昼食。みなさん、日本ははじめてだというのに、お箸を上手に使われる。広隆寺をご案内してから、嵐電で天龍寺へ。天龍寺境内では、今まで気づかなかった石碑を「発見」。何回行っても、やっぱり何か新たな発見があるものだ。夕食は、先斗町のしっぽりとしたお店。

 2007年5月22日(火)
Cimg_0102_1 去年に引き続き、森浩一先生がプライヴェート展「森浩一のささやかな歩み展」(5/22〜5/27)を開かれるので、お邪魔する。森先生と奥様が、にこやかに迎えてくださる(写真)。松本清張氏・司馬遼太郎氏との交流関係を中心に、心温まる内容である。感動。24日には、ウチの奥さんを連れて、再訪。

 2007年5月25日(金)
 (財)古代学協会の学術雑誌「古代文化」編集委員会。新しく編集主任に就任されたS氏と、事務局を担当されるY氏の奮闘により、新生に向けて、序々に形が出きていく。ありがたいことである。
 夜は、花園大学創立記念日の祝賀会。

 2007年5月26日(土)
 東国行き。上野公園で大道芸のパフォーマンスに見とれる。その後、久しぶりに国立科学博物館を見学。展示がリニューアルされて、すばらしいものになっている。たくさんの家族づれの観客。子供たちも本当に楽しんでいる。企画展「相模湾の生物—きのう・きょう・あす—」では、昭和天皇の海洋生物研究が克明に紹介されており、興味を引かれる。

 2007年5月27日(日)
 国立歴史民俗博物館の展示プロジェクト会議。秋の企画展「長岡京遷都—桓武と激動の時代—」の計画が、いよいよ大詰めである。博物館の仁藤敦史准教授と村木二郎助教の御努力により、すばらしい内容が形作られていく。私も何か見せるものを持っていかねば恥ずかしいので、唐長安城・洛陽城の復元図試案を提示する。予定決定では、10/8-9、11/10-11、11/17-18が割り当てられる。こりゃ、秋は歴博に出ずっぱりとなるな。
 飲み会が楽しく、長引いてしまう。東京駅で最終の新幹線に、なんとか飛び乗る。

 2007年5月28日(月)
 ラボール学園(京都勤労者学園)の「日本史講座〜史跡からみる京都の歴史—古代・中世—」に出講。KK大学のNT准教授のコーディネイトで、14回にわたる興味深い内容となっている。私はその第7回で、「京都の墓地」を話す(マニアックなテーマだ!)。たくさんの方々がお見えで、熱心に聞いていただく。

 2007年6月2日(土)
意を決して、相国寺の「承天閣美術館」にでかける。開基足利義満公600年遠忌記念
『若冲展—釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会—』
が明日限りなのである。意を決して、というのは、この展覧会、凄い人気で超満員の盛況だといい、これまで怖気をふるっていた。しかし、やはり機会をのがすわけにはいかない。朝一番ならまだマシか、と思って、とにかく出かける。
 行ってみると、烏丸今出川の同志社の前にも、ゾロゾロと人が相国寺に向かっていく。承天閣につくと、信じがたいほどの長蛇の列。覚悟して最後尾に並び、用意していたヘッドホンステレオと本を取り出す。結局、1時間半待ちでようやく中に入れる。若冲の絵画は、確かに素晴らしい。
 昼頃に外に出ると、ふだんはひっそりと静まりかえっている相国寺の境内が、人であふれている。行列は承天閣の前から方丈の前を通り過ぎ、壮大な法堂の前で折れ曲がり、後水尾天皇歯髪塚あたりまで続いている。係の人に聞くと、3時間待ちだという。驚愕。
 午後、思い立って、梅小路蒸気機関車館へ(要するに、博物館関係の授業のネタ集めである(^_^;))。ちょうど、蒸気機関車の勇壮な「車庫入れ」に間に合う。黒い鉄の巨体が煙を吐きながらゆっくりと動くのは、鉄道ファンならずとも感動する光景である。
 
 2007年6月3日(日)
 今日は、ウチの奥さんと連れだって、滋賀県甲賀市信楽の山奥にあるMIHO MUSEUMへ。前から見たかった、「中国・山東省の仏像—飛鳥仏の面影—」をやっている。展示されている仏像は南北朝時代(北魏・東魏・北周など)のものが多く、アルカイックな表情を堪能する。
 帰り道では、淳仁天皇の保良宮跡の周辺に立ち寄る。最近、古代都城史の再構成へと試行錯誤しているので、副都・保良宮の位置づけを考え直してみたかった。とはいっても、保良宮の正確な場所はわかっていない。大津の南郊の小さな小さな谷間で、今は住宅地になっている中に「へそ石」と呼ばれる礎石がひとつ、ポツンと置かれている(もっとも、この「へそ石」は保良宮そのものの遺物ではなく、おそらくは関連の寺院のもの)。なぜこんなところに副都が置かれたのか、思いをめぐらす。さらに、近津尾神社(境内に洞<ほら>神社が移されている)と松尾芭蕉の幻住庵、琵琶湖を望む山の上の国分聖徳太子堂にお詣りしてから、帰洛。
 
 2007年6月4日(月)
 暑い日である。大学をとびだして、自宅近くのルビノ堀川へ。京都府が、丹後の天橋立を「世界文化遺産」にすることをめざすということで、天橋立世界遺産登録可能性検討委員会を結成することになり、その委員に御指名いただいた。会場にとびこむと、丹後の市長・町長・副市長・青年会議所理事長など、偉い方々がそろっているし、テレビのカメラも入っている。世界遺産への登録は条件がどんどん厳しくなっているようで、天橋立がその仲間入りができるかどうか、予断を許さない。しかし、私もせっかくの機会だから微力を尽くさせてもらうことにしよう。

2007.05.22

道長と洛中洛外図を見る、の巻

2007年5月14日(月)
花園大学人権教育研究会の第59回例会。授業終了後、すぐに花園大学へとむかい、ギリギリにとびこむ。私の後任として同大学人権教育研究センター副所長に就任された中尾良信教授(文学部国際禅学科)の「内山愚童と武田範之」の報告を聞く。内山と武田の両人は同時代を生きた僧侶でありながら、前者は「大逆事件」に連座して幸徳秋水等とともに処刑され、武田は日韓併合と朝鮮半島の植民地支配の裏側で暗躍するという、対照的な生涯を送った、という。終了後は、ビール。

 5月15日(火)
 ありがたいことに晴れたので、久しぶりに葵祭を見に行く。御所の建礼門前は超満員の人出。しずしずと、行列が通る。やはり、来てみると勉強になる。検非違使の後に山城国司が続くというのは面白い。勅使である近衛中将は騎馬、斎王代は輿に乗るが、彼ら彼女らが本来乗るはずの牛車は、実は空っぽで行進するというのも意味深である。

 5月18日(金)
 京都国立博物館を見学。特別展覧会「金峯山埋経一千年記念・藤原道長—極めた栄華・願った浄土—」が開催中である。これはぜひ見なくてはならない展覧会である。幸いなことに、会場にはこの展覧会の担当者のM室長がおられる。M氏のあとをついていって、詳しい説明を受けることができる。さすがに考古学者が担当されただけあって、ひと味違った面白い展覧会になっている。目玉の金峯山経塚の経筒についてのM氏の新説を聞かせていただく。

 そのあと、いささか強行軍ではあるが、京都工芸繊維大学美術工芸資料館へ。「EXHIBITION 尼崎コレクション−洛中洛外図から大阪万博まで−」が開催中なのである。ぜひ見なくてはならなかったのは、新出の洛中洛外図屏風。豊臣秀吉の建設した聚楽第が克明に描かれているという、なんとも驚天動地の新資料である。伏見城、二条城、聚楽第が同時に配置されているという奇妙な空間に、しばし、遊ぶ。もうひとつありがたかったのは、明治以降の「博覧会」の歴史についての資料が集成されていること。これは、「博物館」を考える場合にも非常に役に立つ。ありがたや。

2007.04.24

最近、書いたもの

最近、書いたもの(〜2007年4月24日)

【著書(分担執筆)】
■京都新聞出版センター編、井上由理子・熊谷栄三郎・黒田正子・高野澄・中村武生・永守淳爾・西村彰朗・藤慶之・山田邦和・山中英之執筆『第3回京都検定 問題と解説』(京都、京都新聞出版センター、2007年4月20日)(分担頁不記載)

【論文】
■山田邦和「中世都市嵯峨の変遷」(金田章裕編『平安京—京都 都市図と都市構造』所収、京都、京都大学学術出版会、2007年2月25日)153〜181頁
■山田邦和「桓武朝における楼閣附設建築」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第134集〈山中章・仁藤敦史編「律令国家転換期の王権と都市」論考編〉所収、佐倉、国立歴史民俗博物館、2007年3月30日)155〜177頁

【その他】
■西本昌弘・仁藤敦史・北村優季・村木二郎・山田邦和・山中章(司会)、仁藤敦史・北村優季・西本昌弘・山田邦和・山中章・中島信親・吉川真司・榎村寛之・鈴木拓也・三上喜孝・高橋美久二・網伸也・北野博司・村木二郎(発言)「シンポジウム『律令国家転換期の王権と都市』」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第134集〈「律令国家転換期の王権と都市」論考編〉所収、佐倉、国立歴史民俗博物館、2007年3月30日)357〜414頁
■山田邦和「退任の辞」(『花園大学考古学研究室だより』特別号掲載、京都、花園大学考古学研究室、2007年4月1日)1頁
■山田邦和「地名を殺すな!」(『花園大学人権教育研究センター報』第11号〈通巻30号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2007年4月1日)55・56頁

【講演のインターネット配信】
■山田邦和「江戸時代の平安京研究」(2007年3月15日講演、於京都府立総合資料館「府民講座」)(京都府企画環境部スポーツ生涯学習室「生涯学習総合ネット」http://kyo-own.kyoto-be.ne.jp/js/user/run_pageopen_action.do?areaid=01&menuid=193&servicekb=0&routetype=1&pgmode=guest)88分

2007.04.12

京女で書評会、の巻

 本年度春学期の授業(特記なきものは同志社女子大学現代社会学部)。
(月)2講時「専門基礎演習」(2回生ゼミ)
   3講時「基礎演習」(1回生ゼミ)
(火)4講時【花園大学文学部】「京都学概論」
   5講時【花園大学大学院文学研究科】「日本史学演習」
(水)2講時【同志社女子大学大学院文学研究科】「考古学特論」
   3講時「博物館概論」
(木)2講時「応用演習 I」(3回生ゼミ)
   4講時「考古学 I」
(金)6講時【同志社大学文学部】「日本史」

 このうち、「博物館概論」と「考古学」は、私の赴任にともなって、同志社女子大学としてはその歴史上で始めて(大袈裟な!(^^)\ )設置された科目である。
 初年度なので同志社女子大学の授業は負担を軽減してくれているが、それでも6コマある。非常勤でも、同志社大学と花園大学でもう3コマ担当しているから、結局、月曜から金曜まで、どこかの大学で講義していることになる。さらに、金曜日は隔週で朝日カルチャーセンターと京都新聞文化センターの講義が入っている。
 来年度にはもう2コマ、3年後にはさらに1コマが追加されることになるから、このままでいくと本務校だけで9コマ?になるのか・・・ う゛〜〜。

 2007年4月6日(金)
Sakura_2 同志社女子大学現代社会学部の新入生とともに、同志社の創立者・新島襄先生の墓参。新島先生の墓は、東山の若王子山(にゃくおうじやま〈にゃっこうじやま〉)の山頂にある。山の中の小道を、数百人の女子学生が集団で昇っていく。下山してからは、新しく同僚となった先生方とおしゃべりしながら、久しぶりに「哲学の道」を歩いてみる。疏水のきれいな流れの脇に、桜が満開(写真)。ぽかぽかとした陽気で、おもいがけないお花見ができた。調子に乗って、そのまま百万遍(いわずとしれた、京都大学の側)まで歩いてしまう。
 そうだ、「地図出版の400年」の展覧会をやっている、と気が付いて、京都大学総合博物館に立ち寄る。入場してみると、ちょうど、担当者のUさんがおられる。ありがたい。京都大学の底力を感じさせる展示を堪能する。

 2007年4月7日(土)
 野口実教授が主宰される、京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナールの特別研究会(No.5594以下)。最近出たばかりの、元木泰雄京都大学大学院教授の『源義経』(吉川弘文館)と、美川圭摂南大学外国語学部教授の『院政—もうひとつの天皇制—』(中央公論新社)の書評会である。著者である元木・美川両教授が列席されるとともに、関東からはわざわざ、有職故実と武器武具の専門家である近藤好和神奈川大学特任教授と、N出版のIT氏も駆けつけられるという豪華な研究会である。 著者の両教授を目の前にしながら、密度の濃い議論。
 終了後は、京阪電車七条駅近くの店で懇親会。メニューを指さしながら「ここからここまで、全部」と注文する近藤教授の豪快な食べっ振りに、驚愕。2次会は、元木・美川・近藤各教授とIT氏とで、四条大橋近くのバー(私も含め、年寄りばかりで、学生院生はどこかにいっちゃったぞ)。ここでも、しこたまに呑む。さすがの私も、ダウン寸前。家で待つ犬たちのことが気になりだして、途中退席。それでも、夜中の12時を回っていた。しかし、後で聞くと、近藤教授は3次会で円山公園のお花見へと繰り出したそうである。またまた、驚愕。

 2007年4月8日(日)
 山中章博士、SM博士、DJ大学のO教授で、いつもの会合。ホントは論文集刊行の打ち合わせだが、主体はやはり、お酒。中京の洒落た日本料理の店で、めずらしいものをたらふくいただく。2次会は、河原町三条の地下の隠れ家。

 2007年4月9日(月)
 同志社女子大学の授業開始。2回生と1回生のそれぞれのゼミ。まずは顔合わせである。

 2007年4月10日(火)
 WH先生御夫妻の御著書のお手伝いで、ST博士とともに、京都駅近くの高級中華料理店。フカヒレづくしという、何とも豪勢なお料理である。舌鼓を打つ。

 2007年4月11日(水)
 大学院の授業(これは毎年のことで、慣れている)と、私の主な本務である「博物館概論」の一回目。人数がどれくらいになるか気をもんでいたが、なんとか落ち着く。

 2007年4月12日(木)
 3回生のゼミ。同志社女子大学での、初めての「山田ゼミ」となる。それから、私のために新設していただいたような「考古学」。夕方は、学部の教員会議にはじめて出席し、就任の御挨拶をさせていただく。

2007.03.26

平安博物館同窓会、の巻

 2007年3月24日(土)(続き)
 Heianhaku(上:開会の挨拶をする朧谷寿同志社女子大学教授。下:古代学協会理事長角田文衞先生を囲んで〔角田先生の向かって右が私〕)
 夜、ホテル日航プリンセスにでかける。「設立40周年記念 平安博物館職員同窓会」が開かれることになったのである。ワクワクする。

 平安博物館の名は、今や、だんだん忘れられていっているような気がする。若い研究者には、平安博物館の名前を知らない、という人も多いのではないだろうか(>_<)。世間では、現在の京都文化博物館イコール平安博物館だと思われている節もあるが、それは厳密にいうならば誤っている。京都文化博物館は、平安博物館の土地・建物・職員の大半を継承したけれども、まったく別物の組織であった。平安博物館は(財)古代学協会の特設機関として1967年4月に発足した。そして、19年後の1986年3月に展示部門を閉鎖し、同年9月に実質的な終焉をむかえた(形式上の組織廃止は1988年8月)。
 今思い出しても、平安博物館は驚くべき博物館であった。まだまだ博物館の社会的位置づけは低かった時代だった。その中で、確かに平安博物館は異彩を放つ存在であった。日本最初の研究博物館で、「学芸員」制ではなく、大学と同様の「教授・助教授」制をとっていた(ちなみに、私の在職時の辞令は、「財団法人古代学協会研究員に任じ、平安博物館助手に補し、同館考古学第4研究室勤務を命じる」というものであった)。展示も凄かった。平安博物館の英語名称がHeian Museum of Ancient History(直訳すると、平安古代史博物館)であったように、これは古代史を対照とする「歴史博物館」だった。重要文化財に指定された赤煉瓦の明治建築=旧日本銀行京都支店の重厚な建物の中に、旧石器時代から平安時代にいたる古代史の流れが息づいていた。何よりも圧巻だったのは、展示室の中央大ホールに、平安宮内裏清凉殿の実物大(!)復元模型がおさまっていたことである(なお、この素晴らしい清凉殿復元模型はその後、京都文化博物館の創設を主導した故I・H氏の無理解と無教養により、ズタズタの無惨な姿にされてしまった)。最近では博物館の展示に模型を多用することはあたりまえだし、実物大模型も決して珍しくはない。しかし、今の博物館の話をしているのではない。これは今から40年前、1967年のことなのである。当時の博物館の代表格である東京・京都・奈良の国立博物館は歴史博物館ではなく美術史博物館だったから、まさに平安博物館こそは日本の「歴史博物館」のパイオニアだったのである。このような凄い博物館が、民間の研究団体である古代学協会によって運営されていたのだから、これはほとんど奇跡とでもいうべき存在だった。平安博物館は、館長兼教授であった角田文衞先生の情念の賜物であったといってよい。

 私は、学生時代の1979年頃から平安博物館に出入りし、1983年8月〜1985年9月には同館の研究嘱託(非常勤の研究員)になり、さらに1985年10月に常勤の研究員(助手)に採用され、翌年9月まで勤めた。したがって、私は常勤職員としては、平安博物館最末期の1年だけ在籍したことになる。しかし、そこで得たものははるかに大きかった。なお、平安博物館はその時には停廃されることが決まっていたので、私は「平安博物館最後の職員という栄誉(?)は自分のものだ」と思っていたのであるが、その半年後にそれこそ「最後の職員」が着任された。それが、現・京都女子大学教授の野口実先生であった。したがって、野口先生が平安博物館専任講師として在籍されたのは、半年間である。

 平安博物館は研究博物館として、展示よりも調査研究に力を入れていた。そこで育った研究者は数限りない。今、大家といわれるようになった研究者の中にも、若くてまだ「食えなかった」時代に、平安博物館の仕事をやってなんとか糊口をしのぎ、やがて業績をあげて巣立っていった人が多いのである。平安博物館は、当時の古代史・考古学界にとって、人材をプールし、育て、やがて外に出していく、「人材バンク」とでもいうべき役割を果たしていたのである。

 今、平安博物館の開館から40年、停止から21年の歳月が流れた。この時にあたって、片岡肇・元京都文化博物館学芸第2課長らがお世話していただき、職員同窓会を開くことになった。片岡氏の苦労の産物である「平安博物館常勤職員名簿」によると、19年間に平安博物館に関係した人々は、常勤職だけをとっても実に146人の多数に昇るという(そのうち、研究員は40名弱)。今回の同窓会には、元館長の角田先生を始め、35人が集まった。皆さん、本当に懐かしい顔ばかりである。朧谷寿同志社女子大学教授(古代史)、伊藤玄三法政大学名誉教授(考古学)、近藤喬一山口大学名誉教授(考古学)、下條信行愛媛大学教授(考古学)、飯島武次駒澤大学教授(考古学)、鈴木まどか倉敷芸術工科大学教授(エジプト学)、加納重文京都女子大学教授(国文学)、中谷雅治元京都府教育庁文化財保護課長(考古学)、水口薫大手前大学教授(映像論)、鈴木忠司京都文化博物館参事(考古学)、植山茂同館学芸課長補佐(考古学)・・・・。こうやって集まってみると、平安博物館にはよくもこれだけの人々が参集していたものだと、改めて感心する。

 和気藹々の会が終わると、ホテルのバーで二次会。本当に、楽しい会であった。感謝。感謝。
 わずかではあっても平安博物館にかかわった一人として、いつか私は、考古学・古代史の学史上と、博物館史上における平安博物館の意義をまとめて、後世に伝えるような仕事がしたいものである。

2007.03.18

丹後で中世墓地を、京都で平安京研究史を語る、の巻

 2007年3月9日(金)
 朝日カルチャーセンター京都に出講。「平安京・京都の歴史を歩く(16) 初期の平安京を訪ねて」の第2回目として、「前期平安京の復元」を話す。
 午後、大学で、京都新聞社の取材を受ける。
 夜、木屋町四条の飲み屋で、ウチの研究室の、追い出しコンパ。4回生と在学生ともに、感極まって涙ぐむ学生が続出。こういう風景も、なかなか良いもんだ。

 2007年3月10日(土)
 夕方、W先生御夫妻と会食。お相伴にあずかったのは、私とST氏。和気藹々の楽しい時間となる。御夫妻が執筆最中の京都の歴史の本について、お手伝いさせていただくこととなる。

 2007年3月11日(日)
 丹後行き。京都府与謝野町(岩滝・野田川・加悦の3町が合併した)の「与謝野町文化財講座」(於与謝野町加悦地域公民館)で、「後野福井遺跡と幾地地蔵山遺跡—墓地からみた中世鎌倉から室町時代の歴史像—」を話す。途中、丹波の山中では吹雪になってちょっと心配したが、幸いなことに講座開始の時には雪は止んでいた。まずは福井遺跡の見学をして、それから講演ということになる。
 帰りは、宮津市の三角五輪塔を見て、天橋立駅前でカニを買う。帰宅してからは、「カニすき」をお腹一杯食べる。

 2007年3月12日(月)
 早朝から大学に行って、ばたばたと、研究室のお引っ越し。移動して、新しい研究室に本を並べる。ただ、思ったより早く仕事を終えることができる。ちょっと安堵。

 2007年3月15日(木)
 京都府立総合資料館で、企画展「先人達の京都研究」という、マニアックではあるが非常に見事な展覧会(〜3月25日)をやっている。ここの記念講演「江戸時代の平安京研究」を依頼された。ふだんは扱っていないテーマなので緊張したが、講堂が満員になっているのがありがたい。平安京研究前史、地誌の中の平安京、「中古京師内外地図」と森幸安、固禅入道・藤原(裏松)光世と「大内裏図考証」、藤原貞幹と古瓦、天皇陵研究と平安京、という内容で話す。
 夕方、D大学大学院生Aさんが来宅。研究の近況を聞く。それから、いきつけの中華料理屋で食事。

 2007年3月16日(金)
 朝日カルチャーセンター京都に出講。「平安京・京都の歴史を歩く(16) 初期の平安京を訪ねて」の第3回目として、「平安京の巨大模型と平安宮内裏」の現地見学。最終は、山中油店の「京町屋文化館・上京歴史探訪館」で、山中恵美子副館主のお話を聞かせてもらう。
 午後、会議ふたつ。

 2007年3月17日(土)
 花園大学の学位授与式(卒業式)。ウチのゼミ生ひとりひとりの顔を確認しながら、学位記を渡す。彼らにとっても、私にとっても、大きな節目である。式の後は、同窓会主催のパーティー、史学科研究室、人権教育研究センター、考古学研究室で、それぞれ乾杯。

名護屋城に立つ、の巻

 2007年3月13日(火)
Karatu_1 京都は寒い。寒すぎるぞ。ふっと思い立って、九州にでかけることにする。新幹線と地下鉄・JRを乗り継いで4時間で、始めての佐賀県唐津市。こちらは暖かくて、良かった。しかし、駅のラーメン屋さんは(>_<)の味。
 まずは、弥生の初期の遺跡として有名な「菜畑遺跡」と、そこに併設された「唐津市立末廬館」を見学。それからバスで市内にもどり、唐津城下町をうろうろ。唐津の祭礼「唐津くんち」の曳山を展示した「曳山展示館」が面白い。「唐津市出土文化財管理センター西ノ門館」では、城下町の遺物をながめる。そこから唐津城の模擬天守閣に登る(山の上まで有料のエレベーターがついており、びっくり)。唐津湾の絶景を飽きもせずにながめる。
 さらに、タクシーを飛ばして唐津市東部に向かう。初期の横穴式石室がある横田下古墳をさがしてうろうろする。石室の内部が良く見えなかったのが残念。さらに、「鏡山」の西麓の「古代の森」へ行く。藤原広嗣を祀っている「鏡神社」(唐津藩主寺沢志摩守広高の墓もある)、市立の「古代の森会館」(考古学資料の展示が充実)、恵日寺、島田塚古墳と歩く。恵日寺では、どぎまぎとしていたら、親切なお坊さんが声をかけてくれる。高麗時代(しかし、年号は遼のものが入っている!)の朝鮮鐘(重文)に感激する。弥生の宇木汲田遺跡にも行きたかったが、そうすると帰れなくなる恐れがあるので、虹の松原を散策してから、唐津市内に戻る。
 夕食は、松浦名産のイカの活け造りにする。本来は私は「動いているものは食べない」のだが、これも経験だと思って意を決する。生け簀で泳いでいたイカがすくい上げられて、あっと言う間にバラバラにされてしまう。足をくねらせながらの刺身が登場。なんとも目が恨めしそうで、哀しい。しかし、透き通った刺身は絶品。そのあとのゲソの天麩羅もすばらしい。可哀想だとは思うが、おいしいのも事実。我ながら、罪深いことだな。

 2007年3月14日(水)
Nagoyazyo
 朝早く起きてバスに飛び乗り、今回の目的地である肥前名護屋城跡に向かう。いうまでもなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の根拠地となった城である。唐津から40分、玄界灘の絶景の中、名護屋城の下につく。まずは本丸に登ってから、佐賀県立名護屋城博物館を見学。すばらしく充実した博物館である。難は交通不便(唐津からのバスは1日に数本しかない)なことであるが、それでも年間12万人の入館者があるという。城跡も、博物館の手によって発掘調査と整備が続けられている。整備も、本当に良く考えられていて、史跡整備の見事なお手本である。感動。
 しかし、織豊期の主要城郭のうち、安土城、大坂城(豊臣期のものは徳川期の地下深くに埋まってしまっているが)、名護屋城は国の特別史跡に指定され、こうして地道な研究と整備がおこなわれている。安土城考古博物館、大阪城天守閣、名護屋城博物館という遺跡博物館も充実している。哀しいのは、同じく秀吉が造った、京都にある聚楽第と伏見城。市街地になっている聚楽第跡はある程度やむをえないが、伏見城跡などは史跡にすら指定されていない。本来ならば、全域の保存とともに、「伏見城博物館」くらいは必要だと思うのだがな・・・(>_<)
 名護屋城に感激したあと、呼子の港を散策。ウチの奥さんのリクエストで、呼子名物のイカシューマイを買い込む。唐津ではさらに、クジラの刺身(こんなのがスーパーマーケットで普通に売られているんだね\(^o^)/)を入手し、一路、帰洛。

2007.03.08

関西文化学術研究都市で夢を見る、の巻

 2007年3月3日(土)
 いささかへたばる。
 夜、親しい、古くからの女性の友人ふたりと会食。心地よく、呑む。

 2007年3月4日(日)
 大学の入試、後期日程。出かけてみると、「山田先生、今日は役目は当たっていませんよ」と言われた。しかたなしに、書類づくり。その後、市内某所で会議。

 2007年3月5日(月)
 大学院入試。ただ、今回は私のゼミ生の受験者は、なし。拍子抜け。夜は、呑み会。

Hatanomae2007年3月6日(火)
 ふと思い立って、京都府精華町の関西文化学術研究都市を訪ねる。今から20年前の1985年、私はこの地で発掘調査をおこなっていた。畑ノ前遺跡と煤谷川窯址である。畑ノ前遺跡では、地表下7メートルに及ぶ、現在までに発掘調査されたものとしては日本最大の奈良時代の井戸を掘った。私にとっては、本当に懐かしい思い出の地である。それから以後、関西文化学術研究都市の建設がだんだん進んでいくのを、私は楽しみにしながら見守っていた。ただ、ここしばらくは、ほとんど行ったことがなかったので、その変貌を見たかったのである。
 私のなつかしの地、畑ノ前遺跡は、「畑ノ前公園 遺跡の杜」という小さな公園になっている(写真)。遺跡の中心部である奈良時代の掘立柱建物群のところが公園化されているのである(残念ながら「私の」井戸は、関西文化学術研究都市のメインストリートである精華大通の下になってしまっている)。ただ、遺跡には説明板はあるものの、遺構の表示はまったくなく、ちょっと見た目には遺跡のイメージをつかむのはむつかしい。遺跡を保存してくれたのはありがたいが、もうちょっと親切にしてくれればよいのに、と思ってしまう。
 それから、国立国会図書館関西館を訪れる。ガラスの巨大な建物。静寂の中の広大な閲覧室。これから、しばしばお世話になることにしよう。

Watasinosigotokan もうひとつ、ぜひ見たかったのは「私のしごと館」(写真)。関西文化学術研究都市は「研究」の方ばかりが先行して、「文化」の部分が立ち後れており、特に、観光客も含めて気軽に訪れることのできる集客施設が少ないことが指摘されている。その中で、「私のしごと館」は、国会図書館と並ぶ、重要な集客施設となっている。
 始めて行ってみて、とにかくその規模に仰天した。建物面積は35,000平方メートル。さすがに世界最大の体験型職業労働博物館と言われるだけのことはある。壮大な規模である。
 実はあんまり期待しないで入ったのだが、展示の内容は、けっこう面白かった。映像ばかりでなんとなく子供だましのような機器があったり、手持ちぶさたの案内役が目についたりして、まだまだ工夫の余地はあるとは思うけれども、「ものづくり」の体験コーナーはいろいろあるし、やってみたならばハマるだろうな。観客も、ガラガラじゃないかという予想していたのであるが、前に観光バスが何台も何台も止まっていて、小学生や中学生の団体が次々と入っていき、みんなそれなりに楽しんでいるようだ。これは、悪くない。むしろ、大学生にも範囲を広げて、じっくりと自分の未来を考える職業体験をやらせることができたならば、もっともっと意義ある施設になると思う。最近では、大学生になっても無気力で、何をやりたいのか定まっていない連中が多いのだから。
 この「私のしごと館」、結構な金をつぎこんでいるようで、金食い虫だ、として批判の波にさらされている。しかし、たとえ金がかかろうとも、日本国家としてはやはりこういうものも持っておかねばならないだろう(文化施設を収支決算だけで測り、「税金の無駄遣いだ」「官僚の天下り先だ」というステレオ・タイプの批判で切り捨てて悦に入る最近の風潮、ホント、なんとかならないのかね・・・・)。

 私は、この地に立って、ひとつの夢を見ている。かつて、比較文明学者梅棹忠夫氏は「新京都国民文化都市構想」という論文を発表し、その中で、京都の郊外に芸術を中心とした壮大な「国民文化都市」を建設することを訴えた。それまで「関西学術研究都市」と呼ばれていた都市構想に「文化」の2字が加わり、「関西文化学術研究都市」となったのは、梅棹博士のこの構想がインパクトを与えたからなのである。この構想は、その後に煮詰められていき、「国立総合芸術センター」の構想となった。
 「国立総合芸術センター」とは、聞くだにキモを潰すような壮大なプロジェクトである。なにしろ、芸術博物館、芸術文化大学校、芸術劇場などからなる巨大な複合施設をこの地に建設しようというのである。そして、中心となる芸術博物館は、ルーヴル美術館の数倍(!)に及ぶという、まさに世界最大規模のものが構想されているのである。世界最大の芸術文化の中心が京都の郊外に出現する!、これは、考えただけでもワクワクするような構想なのである。
 もちろん、昨今の情勢からすると、この構想が早急に実現する可能性はかなり薄い。今の日本は経済効率一点張り(最近の「構造改革」論者はそれが正義だと思っているから始末に悪い・・・)だからである。先日にも書いたように、よく似た名前(The national Art center, Tokyo〔「東京国立美術センター」〕)で新設された東京の「国立新美術館」が、巨大な建築と巨額の建築費をかけながら、中身はまったく空虚なものになってしまったことを考えると、ますます道は暗いといわざるをえない。しかし、そんな我が国も、いつかは舵を切り替えて、文化・芸術・学術を大切にする国へと生まれ変わる日が来るかもしれない。それがいつになるかはわからないが、「国立総合芸術センター」が実現することを夢見たいのである。

 くたびれて、帰宅。夜は、京都市交響楽団の「国連加盟50周年記念」コンサートにでかける。竹本泰蔵さんの指揮で、チャイコフスキー「エフゲニー=オネーギン」より“ポロネーズ”と、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」。そして、小山実稚恵さんのピアノで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。小山さんのピアノはいつも華麗で力強い。京響も頑張っていたが、ホルンが弱体だったのが気になるぞ。それと、せっかくのピアノコンチェルトの第1楽章が終わったところで、オヤジ客の一人が携帯電話のアラームを鳴らす。馬鹿者めが。絞め殺してやりたい。
 「新世界より」は、竹本さんの指揮が乗ってきて、かなり面白い演奏になった。指揮者が時々、ゼロコンマ何秒かの休符を入れるのが、なかなか良い味を出している。それと、第2ヴァイオリンとクラリネットが、ギクリとするほどに艶っぽい音を出してくれる。よい夜になった。

2007.03.07

東京でアートに触れる、の巻

Kokuritusinbizyutukan_1 2007年3月2日(金)
 お江戸に下る。
 夜のお仕事なのでホントは遅く行ったらよいのだが、少し早起きして、午前中には東京に着く。まずは、先日できたばかりの国立新美術館 The national Art center, Tokyo(写真)を訪ねる。別に美術が専門であるわけではないが、大学で博物館学芸員課程を担当している身とてしては、やはり話題になった博物館・美術館は見ておかねばならない。ガラスとコンクリートの巨大な建物。レストランには長蛇の列。広大な展示場に、現代美術の数々。圧倒されるのは事実である。
 しかし、私は、華やかなこの施設の中で、暗澹たる気分に襲われる。これは明らかに「美術館」ではないからである。なぜならば、美術館とは博物館の一種としての「美術博物館」なのであり、博物館というのは、「(1)資料の収集・保管」「(2)展示・普及活動」「(3)調査研究」の3分野が不可分のものとして結びついていなくてはならない施設なのである。ところが、国立新美術館は、始めから、しかも高らかに「資料の収集はやらない」「展覧会だけに特化するのだ」と宣言しており、「(1)」をまったく放棄しているのである。だから、これは「美術館」では、ない。
 もちろん、他人がそうした施設を造りたい、というのならば、どうぞ御勝手に、といわざるをえないのであるが、それが「美術館」(ないしはそれと誤解されるような名称)を名乗るとなると話は別だ。それは明らかに僭称なのであり、許してはならないことである。こうした疑似施設が「美術館」だと世間に誤解されると、本物の「美術館」「博物館」は計り知れない迷惑をこうむってしまうのである。こうしたケッタイな施設が堂々と国立の「美術館」を名乗るのだから、世も末だ、という感じである。

 それから、ホテルオークラの前にある大倉集古館。こちらは、本物の博物館である。
 そして、六本木に戻って、六本木ヒルズの森美術館と廻る(本物の美術館かどうかは、知らない)。森美術館では、「笑い」をテーマとした「日本美術が笑う:縄文から20世紀初頭まで」展と、「笑い展:現代アートにみる「おかしみ」の事情」展が組み合わさっており、さらには隣接の森アーツセンター・ギャラリーで「グレゴリー・コルベール『animal totems: a prelude to ashes and snow』」展をやっている。「日本美術が笑う」展はすばらしい。目玉展示品である新出のふたつ、「病草紙断簡(侏儒の男)」と「洛中洛外図屏風」はやはり見もの。後者はなんともいえない異形の洛中洛外図である。ただ、「笑い展」はどちらかというと現代アート作家の悪ふざけを集めたもので、観客としてはあんまり面白くない。「グレゴリー・コルベール」の情感溢れるモノクロ画像はすばらしい。

 さて、お仕事。
 花園大学が協力している、京都館・kissポート財団特別連携講座「京都学講座」で、「知られざる京都の魅力VIII〜京都・宮廷文化編〜」。会場は赤坂区民センターである。先2回は、同僚の福島恒徳教授と松田隆行助教授がそれぞれ、宮廷美術と和宮降嫁を話された。私は、「京都御所の変遷」とする。平安宮内裏から京都御所にいたる変遷をしゃべる。しかし、どうもノドの調子が悪く、お聞き苦しい講演になってしまった。申し訳ない。
 終了は、20時30分。最終の新幹線にギリギリにとびこみ、なんとか帰洛。

2007.02.21

講演ふたつ、の巻

 山中章先生にご忠告。あんまりムチャをしでかしてはダメですよ。踏切を無視してとびこんで、電車にはねられたりしたらどうするんですか!

 2007年2月17日(土)
 先週と今週、京都アスニーで「京都市平安京創生館」開館記念「平安京講座」が開かれる。村井康彦京都市美術館長、朧谷寿同志社女子大学教授など、そうそうたるメンバーが講演をされるのであるが、私もその一角に入れていただいた。私のテーマは「遷都以前・古墳時代の京都」。桃山の黄金塚2号墳と嵯峨野・太秦古墳群を中心にして、古墳時代の京都を話す。ただ、ちょっと最後が駆け足になってしまった。
 ロビーでは、できあがったばかりの「京都市平安京創生館ガイドブック 平安京講話」も販売中。500円です。京都市生涯学習振興財団の雑誌『創造する市民』に掲載された記事をまとめたもので、私は「平安京の須恵器」を書いている。こういう、手軽なガイドブックが出るのは結構なことである。

 2007年2月18日(土)
 本当は、いつもの前近代都市論研究会に行かねばならなかったのであるが、講演のために欠席とあいなる。彼ら彼女らは通天閣をのぞむにぎやかな巷で、おいしい韓国料理を堪能していた、らしい。ちょっとくやしいぞ。(ホントのホントは、研究会すらもサボって、京都市交響楽団第497回定期演奏会〈なんと、京都初登場の諏訪内晶子さんと、井上道義さんの共演!〉を聞きに行きたかったのだが、それもかなわかなった。ホントに残念!)
 と、いうわけで、あたふたと京都府長岡京市にでかける。長岡京市中央生涯学習センターが主宰する「長岡京カルチャーカレッジ!」で、「名作古典の中の長岡京」の連続講座。私はその6回目で、与えられたテーマは「平家物語と長岡京—長岡京と福原の都—」。長岡京と福原というのはどう考えても無理のあるテーマだが、これは先方からのご指定であって、私の責任ではない。ともあれ、平家都落ちの際のルートとしての乙訓地域(含・長岡京市)をマクラとして、久しぶりに福原の話にもっていき、オチは長岡京をはじめとする古代都城と福原のような中世初期の都市の比較論でなんとかまとめていく。終了後、若いお母さんに連れられた小学生の可愛らしいお嬢ちゃんが質問にくる。ハキハキとしっかりした子で、大したものである。

 2007年2月19日(月)
 山中章博士に負けていることは多いが、これだけは、私が逆立ちしても、足元にひざまずいても絶対に勝てない、ということがある。博士はあのお歳になっても、虫歯が一本もなく、抜けた歯もなく、キレイな歯並びを保っているのである。ご存じの方は少ないかもしれないが、博士の胸ポケットにいつも、小さな歯ブラシがこっそりと忍ばせてある。とにかく、大したモノである。私はそれに比べて歯はガタガタ。結局、歯医者にいくハメになった。今日も、歯医者で歯石取りの苦行。歯茎をつつかれて、拷問にあっているようなものである。しかし、確かに、終わった後はいかにもツルツルの歯になって、爽快。
 午後、大学で会議と教授会。一作年度からの「火中の栗」が、いよいよ花を開かせる時がきたのである。やっと、やっとここまで来た。感無量。

 2007年2月20日(火)
 東京からSH先生がおこしになるので、会いに行く。いろいろと詰めておかねばならないことが多く、えらく長時間、ご一緒させてもらう。夕方はKB博物館で会議。19時まで。その後、KJ大学のNM教授と食事。

2007.02.19

広島で「軍隊」に触れる、の巻

2007年2月13日(火)
 やっと、やっと、卒論・修論の口頭試問が終了。今年は特に長かったような気がする。ともあれ、ほっと一息。Y副学長のお供で、ビール。

 2007年2月14日(水)
 雨。しかし、京都国立博物館の「京都御所障壁画展」にでかける。今週いっぱいまでなので、見逃すわけにはいかない。午後は、某学会の会議。15時から19時までびっしり。くたびれる。

 2007年2月15日(木)〜16日(金)
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 花園大学人権教育研究センターのフィールドワーク。今回は、広島行きである。
 京都から東海道本線新快速と新幹線とを乗り継ぎ、さらにJR呉線に乗って瀬戸内海沿岸を進み、竹原市の忠海(ただのうみ)の港に着く。そこからフェリーに乗って、瀬戸内海の真ん中に浮かぶ小さな小さな島、大久野島に上陸する。現在は国民休暇村になっているが、この島には昭和初期から第二次世界大戦中にかけて、日本陸軍が秘かに毒ガス兵器の研究設備・製造工場を建てていた。このことから、「毒ガス島」の別名で知られている。小さいけれども「大久野島毒ガス資料館」も建てられており、島の歴史をじっくりと学ぶことができる。資料館には、毒ガス製造に使われた陶器製の蒸留装置がある。京都の清水焼で作られたものだという。おもいがけないところに京都が関係していることを知り、驚愕。
 この島の歴史の研究にとりくんでいる民間団体の毒ガス島歴史研究所のYさんの案内で、島中をじっくりと見て回る。島のあちこちには毒ガス工場の跡が残っているし、毒ガス兵器の貯蔵設備跡(写真)も不気味な姿をとどめている。驚いたのは、山の中に、いまだに毒ガス製造に使った攪拌道具の残骸がちらばっていることである(写真)。もう毒性はない、といわれても、やっぱり気持ちのいいものではない。また、今でも時々、海に沈めた毒ガス兵器の破片が海岸にうちあげられることもあるという。その他、島の各所に姿を見せる日本軍の施設の廃墟を観察する。心なごむのは、島中に可愛いウサギがたくさんたくさんいることである。しかし実は、彼らの先祖は毒ガスの実験台として島に連れてこられたものなのだという。

 大久野島からまだ忠海港に戻る。ここもまた、面白い歴史を持っている港である。鉄道の時間待ちの間、ミニ・フィールドワークとしゃれ込む。夜は呉の町で、すき焼きの食べ放題とビールの飲み放題。

 16日、呉港に向かう。ここは、現在でも「軍」の町である。戦艦大和の巨大模型で話題となった「大和ミュージアム」を横目で見て(私は入りたかったのだが、時間がなかった(>_<))、港からまた船に乗って、江田島に上陸。言わずと知れた、旧・海軍兵学校、つまり現在の海上自衛隊第1術科学校の所在地である。学校の見学にもいろいろな制限がかけられており、ちょっとばかり緊張する。学校博物館とでもいうべき「参考館」が工事中で、仮展示場だけしか見ることができなかったのがちょっと残念。ともあれ、わが国の「軍隊」の実状の一端に触れる。

 呉から広島市に戻り、原爆ドームと広島平和記念資料館。資料館は久しぶりである。涙なくしてはみることができない展示である。

 19時44分、帰洛。

2007.02.11

鎌田元一先生のお通夜、の巻

 2007年2月4日(日)
 急に山中章博士が拙宅に襲来。なんかよくわからないが、Adobe Illustrator の操作法を教えてほしい、とのこと。しかし、いったい何に使うのか、何度聞いても口を割らない。おそらく、また良からぬたくらみをしているのに違いない。
 
 19時、山中博士とともに京都駅南側の葬祭場へ向かう。京都大学教授・鎌田元一先生(日本古代史)がお亡くなりになり、そのお通夜がおこなわれるのである。享年60歳。まだまだこれからのお歳なのに、悲嘆の限りである。
 鎌田先生とはここ数年間、京大の上原真人先生がリーダーを務められている京都大学大学院文学研究科21世紀COEプログラム「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」の『王権とモニュメント』の共同研究でご一緒させていただいていた。この研究のメインとなる安祥寺の調査研究では、その基本史料である「安祥寺資財帳」の分析を担当され、私も大変に勉強させていただいた。いかにも日本史学界の重鎮らしい風貌で、御声がずしりと響くような艶のある低音なのが印象的だった。しかし、研究会の末期には欠席されがちで、体調を崩されたとはうかがっていた。しかし、これほど早くお別れせねばならないのは、まったく意外であった。
 お通夜は盛大だった。受付にYS先生が立っておられる。いつも朗らかなこの人が、今日は憔悴しきった表情を見せておられる。こちらの心も重くなる。廻りを見回すと、日本古代史・中世史の大先生が綺羅星のように並ばれている。みなさん、鎮痛な表情。
 山中博士とともにお焼香をすませ、間もなく登場したSM博士とともに、鎌田先生を偲びつつ、しめやかに酒杯を傾ける。

 2007年2月5日(月)
 朝からコンピューターの前にはりついて、必死の思いで原稿と図版をしあげる。ぎりぎりで完成。すぐにタクシーにとびのり、京都駅前の法華クラブに急行する。18時になんとかまにあった。農林水産省の巨椋池調査会の最終会合。不充分ではあるけれども、2年間の研究成果の報告を提出することができる。そのあとは、打ち上げ。

 2007年2月7日(水)
 一年で一番忙しい日々が、またやってきた。これから一週間にわたって、卒論の口頭試問をおこなうのである。次から次へと緊張した面持ちの学生がやってくる。誉めたり、叱ったり、なだめたり、というのをくりかえす。
 夜は、久しぶりの歯科。けっきょく、しばらく通わねばならないことになる。
 8日(木)には、卒論試問と会議。忙しいことである。しかし、会議は良い方向に進んでいる。ありがたや。

2007.01.19

歴博展示会議、の巻

 2007年1月11日(木)
 卒論提出日。いつものようにドタバタ。3講時の授業をやっていても、こちらも気もそぞろである。締め切りの17時が近づいても、未だに現れない学生が何人もいる。提出済学生に探索を命じる。17時ぎりぎり、ほとんど放心状態でマナコが座っていない(明らかに焦点が合っていない)学生が、フラフラと登場して卒論を提出する。まあ、なんとか一段落である。

 2007年1月12日(金)
 朝日カルチャーセンターに出講。「平安京・京都の歴史を歩く(16) 初期の平安京を訪ねて」として、「平安京の設計」の講義。
 夕方、急いで京都新聞出版センターに原稿を送付。それとともに、同出版センターに飛びこむ。とっくの昔に済んでいたと思っていた仕事の修正。

 2007年1月13日(土)
 大阪・岸和田市での研究会に出るつもりだったのだが、寝坊。欠席とあいなる(^_^;)。 

 2007年1月14日(日)
 国立歴史民俗博物館の展示プロジェクト委員会で、京都市考古資料館に出かける。9時30分に少し遅れてとびこんだら、主宰者の山中章博士に「一番近い人が一番遅いんですね」と怒られてしまう。だって〜、歴博にお貸しする資料の準備をしてたんだもん〜〜〜。もうあんまり余裕がないので、いつもよりもさらにさらに実の濃い議論が続く。
 京都駅近くで懇親会。さらに、京都タワーホテルで2次会。さらにさらに、山中博士とSM博士とともに新都ホテルで3次会。そのころにはみんなぐでんぐでんである。ほとんど立っていられなくなったSM博士を引きずるようにしてタクシーに乗せる。私もほとんど朦朧状態で帰宅する。

 2007年1月15日(月)
 今年度初めての教授会。私にとっての最大の懸案事項が片づく。とりあえず、一安心。
 夕方は、からすま京都ホテルに行って、花園大学の芳井敬郎副学長・教授の「江馬賞(日本風俗史学会)」受賞の記念パーティー。和気藹々の楽しい宴となる。

 2007年1月16日(火)
 ゼミ、今年度の最終。やっと、肩の荷をおろす。夕方はKB博物館で会合。

 

2006.12.29

2006年、やったこと、の巻

 12月28日(木)
 2006年もそろそろおしまい。恒例の「やった事」は、以下の通り。

〈監修書〉
■山田邦和監修『とらべる京都 虎の巻—ツアーリーダーうんちくブック—』(〈東京〉、〈JR東海「そうだ京都、行こう」〉、〈2006年6月〉)(同書所収:山田邦和「京都 歴史のおさらい」)
〈論文〉
■山田邦和「平安時代天皇陵研究の展望」(『日本史研究』521号 特集「陵墓研究の新地平」掲載、京都、日本史研究会、2006年1月)
■山田邦和「記号の役割」(『文字と古代日本』5「文字表現の獲得」所収、東京、吉川弘文館、2006年2月)
■山田邦和「後白河天皇陵と法住寺殿」(平安京・京都研究叢書1『院政期の内裏・大内裏と院御所』所収、京都、文理閣、2006年6月)
■山田邦和「中世京都都市史研究の課題と展望—「中世都市研究会2005京都大会」の総括と論点提示—」、仁木宏・山田邦和司会「全体討論『中世のなかの「京都」』」(『中世都市研究』12「中世のなかの『京都』」掲載、東京、新人物往来社、200年9月)
〈その他の著作〉
■山田邦和「原爆を投下されかけた京都」(『花園大学人権教育研究センター報』第9号〈通巻28号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2006年4月)
■山田邦和「平安京の平家邸宅」(『国立能楽堂』第272号掲載、東京、日本芸術文化振興会、2006年4月)
■山田邦和「『平家物語』の時代を主導した女人—建春門院平滋子—」(『国立能楽堂』第273号掲載、東京、日本芸術文化振興会、2006年5月)
■山田邦和「中世墓地研究への想い」(『花園大学考古学研究室だより』第49号掲載、京都、花園大学考古学研究室、2006年6月)
■山田邦和「日本人が描いたピラミッド」(『花園史学』第27号掲載、京都、花園史学会、2006年11月)
■山田邦和「考古学とは何か」(『考古学ジャーナル』No.552掲載、東京、ニューサイエンス社、2006年12月)
■山田邦和「伊江島—龍の火焔」(『花園大学人権教育研究センター報』第10号〈通巻29号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2006年12月〉)
■「平安京創世館クイズ」第1回(『まなびすと』創刊号掲載、〈京都〉、〈京都市生涯学習総合センター〉、〈2006年12月〉)
■山田邦和監修「東山七条の歴史」(「ハイアットリージェンシー京都」ウェブサイト、2006年公開、http://www.hyattregencykyoto.com/astoryofhigashiyamashichijo/history/index.php)

〈学会報告〉
□(司会)「弥生・古墳時代の実年代論」(日本史研究会7月例会、於機関紙会館5階会議室、2006年7月15日)
□「日本古代都城における複都制の系譜—もうひとつの都城史—」(花園大学史学会大会記念講演、於花園大学無聖館、2006年11月18日)

〈講演〉
□「平安京・京都の歴史を歩く(12)足利尊氏と南北朝の動乱」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2006年1月13日・2月24日・3月10日)
□「長岡宮〈翔鸞楼〉発見の意義」(乙訓文化遺産を守る会「歴史文化教室」、於長岡京市中央公民館、2006年1月28日)
□「天皇陵の話(3)」(京都新聞文化センター「考古学講座」、於同センター、2006年2月18日)
□「山田先生の博物館ゼミ」(JR東海京都・奈良・近江文化情報局イヴェント、於花園大学歴史博物館、2006年3月12日)
□「神武天皇陵をめぐる諸問題」(朝日カルチャーセンター川西「天皇陵古墳」、於同センター、2006年3月18日)
□「研究成果に対する講評」(三重県立斎宮歴史博物館「学芸員による研究成果発表会」、於同博物館、2006年3月19日)
□「源平争乱と中世都市」(三重県立斎宮歴史博物館歴史講座「源平合戦とその時代」、於同博物館、2006年3月26日)
□「京都の歴史—歴史に学び 未来をつくる—」(京都市「平成18年度新規採用職員研修」記念講演、於京都会館会議室、2006年4月3日)
□「花園大学の人権教育に対するとりくみ」(花園大学「教務等懇談会」、於花園大学返照館、2006年4月5日)
□「コメント」(文化財・博物館関係労組連絡会「2006年度 文化財・博物館関係団体交流会」、於ルビノ堀川、2006年4月9日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(13)院政の時代と鳥羽離宮」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2006年4月14日      )
□「誕生 平安京」(サールナートホール「京都学講座(第1期)」、於同ホール〈静岡市宝泰寺〉、2006年4月15日)
□「院政期女院群像」(キャンパスプラザ京都シティーカレッジ科目「京(みやこ)を彩る女性たち」、於キャンパスプラザ京都、2006年5月27日)
□「秀吉の京都」(大学コンソーシアム京都プラザ科目「京都学総論」、於キャンパスプラザ京都、2006年5月21日)
□「豊臣秀吉と京都」(Kissポート財団〈港区スポーツふれあい文化健康財団〉・京都館「京都学講座」「知られざる京都の魅力VII〈戦国時代編〉」、於赤坂区民センター〈東京〉、2006年6月24日)
□「古墳よもやま話」(京都五月村クラブ例会、於「京新山」、2006年6月28日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(14)天智天皇と幻の大津宮」(朝日カルチャーセンター京都、於同センター、2006年7月14日・8月11日・9月8日)
□「京都学講座(第1期)京都の原点を探る」(京都新聞文化センター、於同センター、2006年9月22日・10月27日・11月24日)
□「京都の歴史(1)(2)」(京都SKY観光ガイド協会「平成18年度 京都SKY観光ガイド養成講座」、於京都府立総合社会福祉会館ハートピア、2006年9月19日)
□「中世京都の都市景観」(京都SKYセンター「新・京都SKY大学」、於京都新聞社ホール、2006年10月2日)
□「戦国時代と京都」(臨済寺禅道会「臨済寺文化講座」、於臨済寺〈静岡市〉、2006年10月8日)
□「平安京・京都の歴史を歩く(15)王朝の極楽浄土・宇治」(朝日カルチャーセンター、2006年10月13日、11月10日、12月8日)
□「同志社今出川キャンパスから中世上京を考える」(第170回新島会例会、於同志社大学今出川キャンパス、2006年10月14日)
□「歴史探検・京のみやこ」(洛陽高校同窓会、於京都タワーホテル、2006年10月15日)
□「京都御所について」(平成18年度全国古川柳研究者大会、於平安会館、2006年10月28日)
□「山城国宇治郡と藤原氏」(同志社大学公開講座『山城の古代豪族』、於同志社大学京田辺キャンパス、2006年10月31日)
□「考古学からみる平安貴族の邸宅」(紫式部顕彰会「平安の京都を歩く」〈講演と巡見〉、2006年11月12日)
□「女人群像—女院の世紀としての院政期—」(サールナートホール「京都学講座(第2期)」、於同ホール〈静岡市宝泰寺〉、2006年12月16日)
□「京都学講座(第2期)日本古代都城の展開」(京都新聞文化センター、於同センター、2006年12月22日)

〈テレビ出演〉
○「夢よ咲けまぼろしの湖に〜実りの大地 京都・巨椋池〜」(BS朝日)(KBS京都テレビ、2006年7月22日再放送)
○「京都!ちゃちゃちゃ」(「KBS京都テレビ」および「関西テレビ☆京都チャンネル」〈スカイパーフェクTV〉、2006年10月16日)

〈インタビュー記事〉
○「歴史都市・京都と匠インタビュー 4」(講談社MOOK『京都《匠》倶楽部』創刊号掲載、東京、講談社、2006年6月)
○「観光・京都おもしろ宣言—とっておきの京都論— 〜重層する歴史 嵯峨の奥深さ—有機的につながり合う都市—」(『京都新聞』2006年11月9日号掲載、京都、京都新聞社、2006年11月)
○「京都物語」第15話「山田先生の平安京ゼミ」(「そうだ京都、行こう」ウェブサイト掲載、2006年8月・9月・10月公開、http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/story/story_index_15)

〈社会活動〉
▼平安京・京都研究集会世話人
▼日本史研究会研究委員
▼文化史学会監事
▼有限責任中間法人日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会全国委員
▼国立歴史民俗博物館「長岡京の光と陰(仮称)」展示委員
▼京都市環境影響評価委員
▼加悦町史編纂委員会執筆委員
▼農林水産省近畿農政局巨椋池農地防災事業所・(社)農村環境整備センター「巨椋池歴史資源検討委員会」委員

 以上、である。
 今年こそまとまった本を、という誓いは果たせなかった。論文は他にも書いたが、出版は来年回し、というものがいくつかあるので、2006年は4本ということにとどまってしまった。残念! ただ、平安京・京都研究叢書1『院政期の内裏・大内裏と院御所』(高橋昌明編)と、『中世都市研究』12「中世のなかの『京都』」(高橋康夫編)の2冊は、私は編者ではないけれども、最初から最後までけっこう緊密にかかわった書物となった。

2006.12.28

終い天神と忘年会、の巻

 12月25日(月)
 クリスマス。でも、家で籠もっている。あんまり気乗りのしない仕事で、うんうん唸りながら、やっと形をつける。
Simaitennjin 気晴らしに、「終い天神」の北野天満宮に出かける。今年一年の感謝と、来年の多幸を祈り、屋台のみたらし団子をお土産にして帰宅。

 「のだめカンタービレ」、終わる。某古代史研究者のブログ、なかなか。
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 12月26日(火)
 大学で、本年最終の会議。また一歩、懸案事項が進む。もうじき峠越えだ!

 夜、わが考古学研究室の忘年会。本務の御都合によって今年度一杯で非常勤講師を退任されるY町教育委員会のNM氏も参加していただく。新規の学生も一名が参加。四回生は卒論前だが、この時ばかりは大騒ぎに加わる。仮想グッズなんかも用意してあって、なかなか周到である。
 終了後、NM氏と院生のKさんを誘って、いつものバーに行く。けっきょくは酔いつぶれる。
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 12月27日(水)
 図書出版・文理閣で、本年最終の編集会議(先週、私の体調不良によってお流れになった分)。こたちらも、少しづつ形ができてくる。

2006.12.23

2006年の授業、終了、の巻

 12月22日(金)
 体調不良、まだ続く。
 午前。京都新聞文化センターに出講。「京都の原点を探る(第2期)日本古代都城の展開」の始まり。今日はその第1回で「日本古代都城のはじまり」とする。しかし、やっぱり日本古代都城を語るには中国から、と思い始めたら、結局は中国古代都城史だけで終わってしまった・・・ 日本にはいるのはまた、来月。
 夜。同志社大学の「日本史」に出講。戦国時代の京都にまで、なんとかたどりつく。

 ともあれ、今年の授業、これで終了。また、来年正月に再開することになる。ともあれ、受講生のみなさま、よいお年をお迎えくださいませm(_ _)m。

2006.12.22

スロヴェニア料理、の巻

 12月20日(水)
 調子が悪い・・・(T_T)。私が、藤原仲麻呂(恵美押勝)のタタリによって巷で流行りのノロウイルスにやられたという噂を世界中に振りまいている某古代史研究者がいるが、これは明らかに誤伝である。医者からは「ノロウイルスではありません。それならば、もっと嘔吐と下痢をするはずです」という太鼓判をいただいている。じゃあカゼかというと、これもよくわからない。医者に言わせると「どうもよくわかりませんね。もうちょっと症状が悪化したらハッキリするでしょうから、しばらく様子を見ましょう」だと! あの〜、お医者さんは「症状が悪化する前に見せに来なさい」というのがフツーだと思うのですが〜〜(T_T)。とにかく、大学の講義を休講にし、さらにはB出版社の会議もキャンセル、院生を連れて行ってやるといっていたお好み焼きとビールもキャンセルである。う゛〜〜(T_T)。
 気を取り直して。

 12月17日(日)
 わが花園大学を会場として、前近代日本都市論研究会の例会。ただ、他の研究会に拉致されたYM氏とか、ホントにホントのノロウイルスにやられたFK氏とかが続出して、結局は5名のみの参加。ちょっと寂しい。報告は、FA氏の「飛鳥都市論」と私の「日本古代宮都における複都制—もうひとつの都城史—」。私のは、11月18日の花園大学史学会でやったテーマの再演(と、いうか、本当は前近代日本都市論研究会のために温めていたテーマだったのに、急遽、花園大学史学会の記念講演が割り込んできたのである)である。
Slovenia 報告が終わった後は、いよいよ本番(?)の懇親会。西に少し歩いて、天神川通沿いにあるスロヴェニア料理「ピカポロンツァ」にでかける。スロヴァキア、ではない。スロヴェニア、である。大学からそう離れていないのだが、私も始めてである。同僚のMS講師のブログで知り、行く気になった。なんせ、日本で唯一のスロヴェニア料理店だというから、これはなかなか見逃せない。しかし、無知蒙昧の我々としては、その国はいったいぜんたいどこにあるのか?ということから学習しなくてはならない(^_^;)。
 探索(?)の結果(スロヴェニアの皆さん、失礼!)、ようやくわかったのは、もとのユーゴ=スラヴィア連邦を構成していた共和国で、その中では一番西寄りで、イタリアと接した国である。同連邦が崩壊して独立したのだという。ユーゴというと連邦崩壊後の内戦によって大変気の毒なことになってしまったことで知られているが、スロヴェニアだけは幸いなことに内戦に巻き込まれずにすんなりと独立し、経済的にもかなり恵まれた国になったのだという。なるほど、世界政治の勉強にもなるな・・・
 10人余り入れば一杯になる小さな小さな店である。店主はまなざしが優しい髭モジャの巨漢である。来日してもう30年にもなるという。てきぱきとした日本人の奥さんとともに、いろんな料理がでてくる。いろんなものを詰めこんで、柔らかいパイ状にした料理(パクついていたので、名前が上の空)がおいしかった。また、スロヴェニアはワインの名産としても知られた国なのだという。調子に乗って、わからないなりになんやかやと注文する。重厚さはないが、あっさりとして何杯でもおかわりできそうな品の良いワインである。
 おいしかった〜。

 12月18日(月)
 会議続き。夜までかかって、延々と話し合う。ただ、一番気にかけていたことと二番目に気にかけていたことが少し前進。ヤマ場が過ぎたような心持ちである。
 19時、タクシーに駆け込んで、K新聞社が設定してくださったお席に向かう。打ち合わせには間に合わなかったが、とにかく新しい仕事がはいる。初お目もじのTK先生、それに、おなじみのNT氏。お酒はおいしかったのだが、締め切りの厳重な仕事は気が重い。はてさて、間に合うかどうか・・・

2006.12.18

登呂遺跡、の巻

 12月16日(土)
 静岡行き。
 せっかく静岡に行くんだから、ということで、朝早く起きて新幹線にとびのり、登呂遺跡へと向かう。今さらいうまでもない弥生の有名遺跡である。久しぶり、というよりも、実は子供のころに1回行ったきりで、その後はまったくご無沙汰だった。バスを降りて遺跡に向かうと、なにやら色々と工事をしている。あれれ?、と思うと、史跡公園の再整備工事の進行中であった。公園の入り口付近になにやらいくつもの穴が開いている、と思ったら、もともとここに復元高床式倉庫や復元住居が建てられていたのを、新しい方針にもとづいて別の場所に移築したのだという。よく見ると、高床式倉庫は一昨日に移築され、工事中であった(写真)。おもしろいところにでくわしたものである。登呂博物館ももうじき閉館し、新しい博物館が建設されるという。今の博物館を見る最後のチャンスにまにあって、よかった。Toro
 登呂を堪能してから、静岡市内に戻る。臨済禅の名刹・宝泰寺のサールナートホールで「京都学講座(第二期)」。今回は「中世の京都」が総合テーマということで、待賢門院と建春門院を中心として「女人群像—女院の世紀としての院政期—」を話す。
 帰りの新幹線まで少し時間があるというので、時間つぶしにと思って、駿府博物館に入る。まったく基礎知識なしだったのだが、「飛べなくなった人—異才・石田徹也 青春の自画像&マイコレクション展」というのをやっている。石田徹也という人はまったく知らなかったが、会場にはいってみて仰天した。怖ろしいばかりの「異形」の作品が並んでいる。広い意味では夢の世界=シュールレアリスムの絵画なのだろうが、夢は夢でも「悪夢」である。これでもか、といわんばかりに、人間疎外の現代社会への風刺が続く。凄いものを見てしまった。

2006.12.15

異国からの客人たち、の巻

 11月30日(木)
 ウチの研究室の大学院生を引き連れ、桂の駅で山中章博士と待ち合わせ。山中博士が中国社会科学院の洛陽考古隊の陳良偉先生をご案内されてくる。陳先生のご要望で、博物館に展示される模型の製作会社を見学したい、ということなので、博物館業界では知る人ぞ知る老舗・(株)さんけいにご案内する。社長さんと専務さんの直々のお出迎え。ありがたい。じっくりと、嘗めるように見学。陳先生もご満足されていたようだし、ウチの大学院生たちも興味津々だった。
 夜は、陳先生を囲んで洛中で豆腐料理。SK大学の朝鮮古代史のTS教授や、日本古代史のS博士も合流。目の前でできあがっていく湯葉があまりにおいしいのでパクパクやっていたら、山中博士から「湯葉ドロボー」の称号を頂戴してしまった。あまりといえばあまりな言われ方である(T_T)。とにかく、たのしいひとときをすごす。

 12月2日(土)
 文化史学会の大会で、同志社大学にでかける。9時半に駆けつけたのに誰も来ていない、と思ったら、いつもと違って10時半始まりだった。せっかくあわてて来たのに、がっくり。しかたないので、考古学研究室で時間をつぶす。考古学の発表では、ちょっとだけ質問。昼休みには文化史学会の評議員会。私は今回から「監事」を仰せつかっているので、末席を汚すことになる。夜は、平安会館で懇親会。続いて、KJ大学のS教授、SKK美術館のK主任学芸員とともに、京都ブライトンホテルのバーで酒杯を傾ける。

 12月3日(日)
Pizyo
 アメリカ・南カリフォルニア大学のピジョー教授がお越しになるということで、山中章博士、DJ大学の日本古代史のO教授、日本古代史のS博士とともに、歓迎。場所は、私の母校の小学校近くの寿司のお店。ピジョー教授はアメリカを代表する日本古代史の研究者で、日本の研究者にも馴染みが深い。もちろん日本語はペラペラである。今回はブック・デザイナーの御夫君および御友人の女性とともの来日である。本日は、S博士のご案内で嵯峨野の紅葉を堪能されたらしい。結構なことである。大盛りの刺身と寿司を堪能しながら、同教授が計画されている日本研究のプロジェクトをじっくりとうかがい、あわせて打ち合わせをおこなう。

 12月4日(月)
 同志社大学の京田辺キャンパスで授業をおこなった後、京都駅前の新京阪ホテルにとってかえし、巨椋池の調査の最終の委員会。終わってすぐに大学に急行し、花園大学人権週間の「前夜祭」に参加。ルワンダの内戦の時の実話に題材をとった映画「ホテル・ルワンダ」を鑑賞。すばらしい内容に感激するとともに、深く考えさせられる。

 12月8日(金)
 朝日カルチャーセンター京都「平安京・京都の歴史を歩く(15)王朝の極楽浄土・宇治」の3回目、現地見学「宇治の王朝遺跡を歩く」。10時30分に京阪電車宇治駅に集合、宇治橋→橋寺→源氏物語ミュージアム→宇治上神社→塔島→平等院をめぐる。橋寺(放生院)では「宇治橋断碑」を見学するはずだったのだが、今は公開のお休み期間だという。残念。なんといっても圧巻は、平安時代の庭園の復元整備が完了した平等院と、その宝物館である鳳翔館である。感動が心の底から吹き上がってくるのを感じる。
 
 12月9日(土)
 花園大学歴史博物館で、資料の写真撮影。夕方より、花園大学人権教育研究センターで、毎年恒例の「人権週間」打ち上げ会。センターの研究室にコンロを持ち込み、キムチ鍋をやる。所長のY教授とちびちびやりながら待っていると、ぼつぼつ学生も集まってきて、次第に賑やかになる。

 12月10日(日)
 家に閉じこもり。うんうん唸りながら、なんとか、短い原稿を仕上げる。

 12月11日(月)
 「京都市遺跡地図」改訂版のための「埋蔵文化財包蔵地実態調査会議」に参加。新発見の遺跡の情報を教えていただき、ありがたい。夕方は花園大学人権教育研究センターの研究員会議。私は4年にわたってここの副所長をつとめたが、今年度いっぱいでの無事の退任が決まる。後任の副所長はN教授がやっていただけることになり、ホッと一安心。来年度からは、改めて「委嘱研究員」という形で勉強を続けさせていただけることも承認していただく。その代わり、来年秋の研究会での報告をやらねばならないことになってしまった・・・

2006.11.29

短いもの、いくつか、の巻

 短いものが、いくつか出た。
 山田邦和「歴史への窓〜日本人が描いたピラミッド」(『花園史学』第27号掲載、京都、花園大学史学会、2006年11月)。ウチの大学の史学会の機関誌で、「歴史への窓」という気軽な歴史エッセイを載せる項がある。急遽の執筆でどうしようかと思ったのだが、幕末・明治の京都の銅版画家の玄々堂松田緑山が描いたスフィンクスとピラミッドの版画を題材にした。これが、イギリスの画家デヴィッド・ロバーツの作品の模写であることを指摘。
 山田邦和「考古学とは何か」(『考古学ジャーナル』No.552掲載、東京、ニューサイエンス社、2006年12月)。月刊『考古学ジャーナル』の「今月の言葉」として書いたもの。巻頭なので、ちょっと大上段にふりかぶって、「考古学の定義」を考えてみる。枚数制限が厳しいので論を充分には展開できないのはしかたない。私の考古学の定義=「歴史学の方法学たる史料学の一部門として、物質史料をあつかう学問。つまり『物質史料学』」。自分ではそんなに悪くない定義だと思っている。
 山田邦和「伊江島—龍の火焔」(『花園大学人権教育研究センター報』第10号〈通巻29号〉掲載、京都、花園大学人権教育研究センター、2006年12月)。人権教育研究センターの研修旅行で沖縄に行った時の紀行文。沖縄本島の北西に浮かぶ「伊江島」で考えたことを書く。
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 11月28日(火)
 授業で、いつものように学生を引き連れて平安宮跡を歩く。平安京復元模型のある京都アスニーまで行って、びっくり。今日は休館日だった。無念。その後、内裏跡で突然、自分がどこを歩いているのかわからなくなる。ショック!! 大学に帰ろうとしてバスを待っていると、京都バスが来る。市バスに乗ることばかりを考えていたので、乗り損ねかける。ドアが閉まりかけてから、ハッと気が付く。京都バスならば大学のそばまで行ってくれるのである。あわてて乗り込む。脳細胞が崩壊しかけているような気がするな(^_^;)。我ながら、疲れているようだ(T_T)。
 K大学で、巨椋池調査会の会議。18時から21時までびっしり。「向島の『二ノ丸池』」という短い報告をする。そろそろ大詰めで、成果をまとめなければならない段階に来る。その後は、百万遍の飲みやで一杯。

2006.11.28

洛陽を学ぶ、の巻

11月23日(木・祝)
 角田文衞先生のお宅に招かれる。しばらくぶりにお会いしたら、確かに歩行は辛そうだが、大変お元気になられていて安心する。わが学界では、斎藤忠先生、有光教一先生に次ぐ最高齢者になられている。それにもかかわらず、こちらが負けるほどよく喋られるし、私の最近の研究の内容も、よく聞いていただく。かなりの長時間、ふたりだけでお話しさせていただいた。感謝。
 ウチの奥さんは、楽しみにしていた社員旅行のハズだったのだが、急に体調を崩してしまう。ひどい下痢と嘔吐。旅行に行けなくなる。可哀想。
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 11月24日(金)
 伯父が入院したので、病院に行って、いろいろ説明を受ける。その後、京都新聞文化センターに出講。「<京都学講座>第1期・京都の原点を探る」の「京都のあけぼの」の最終・3回目。「嵯峨野の古墳と秦氏」を話す。
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 11月25日(土)
 大阪歴史博物館での「都城制研究会」に出席する。中国から洛陽の研究者がおふたりお越しになっているので、その方々の報告を聞く。洛陽の考古学調査の最新の知識を得ることができてありがたい。ちょうど、○○博物館研究報告に掲載してもらう論文で隋唐洛陽城の復元図を描いたところだもんな。その後は宴会。
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 11月27日(月)
 同志社大学の授業に行かなくちゃ、と思っていて、ハッと気が付いた。電話をしてみると、やはりそうだ。同志社はEVE祭(いわゆる、創立記念の学園祭)の真っ最中で、授業は休講だ。これは好都合。病院に伯父を見舞う。今日、手術を受けることになっている。患部の激痛を訴えており、早くなんとかしてあげて、と叫びたくなる。88歳の高齢なので少し心配。
 その後、市内某所で会議。夜までかかる。心配していた伯父の手術も、無事成功した。ありがたい。病院の先生や看護師の皆さんに、感謝。病院に寄ってから、帰宅。夕食はうどんで鍋。ウチの奥さんも、かなり回復。

2006.11.26

高橋美久二さん、さようなら、の巻

 11月26日(日)
 24日の新聞に、訃報が掲載された。滋賀県立大学名誉教授・高橋美久二氏(考古学・歴史地理学)が逝去されたのである。享年63歳。哀悼・・・ 本来は「高橋先生」と呼ばなければならないのかもしれないが、やはり、言い慣れた「高橋さん」と呼ばせてもらおう。
 およそ、京都の考古学に関係している人間で、高橋さんの世話にならなかった人がいるだろうか? 失礼を顧みず回顧させていただこう。決して能弁な人ではない。むしろ、相手に対面した時には、唇をちょっと震わせながら、少し口ごもるような口ぶりで話をされる。その朴訥な風貌そのままに、学問にも人間関係にも誠実で真摯な態度を貫かれた研究者であった。私が始めて高橋さんに会ったのは・・・ それは、よく思い出せないほどにはるかな昔のことである。多分、京都府教育庁に勤務しておられた頃のはずである。笑うと前歯の欠けたところが良く目立ち、高橋さんが話をされると、なんだかとっても暖かい雰囲気が周りにただよったことを覚えている。私は高橋さんと発掘調査の現場を共にしたことは無いが、そうした機会に恵まれた研究者のほとんどは、高水準でありながらすごく暖かい現場の雰囲気を回顧されている。さもありなん、と思う。
 高橋さんは永く京都府教育庁(含・京都府埋蔵文化財調査研究センター&京都府立山城郷土資料館)に勤務された後、1995年に新設の滋賀県立大学に助教授として移籍された。大学に移ったことを、すごく喜んでおられたらしい。滋賀県立大学では歴史地理学の講座と博物館学芸員課程の創設および育成に心血を注がれた。その後、教授に昇進され、さらには京都大学で博士号を取得されるなど、世間的に見るならば順風満帆であった。しかし、病魔は迫っていた。辛い治療にも、高橋さんらしく、黙々と耐えておられたという。山中章博士が主宰され、私もお世話になった国立歴史民俗博物館の共同研究にも名前を連ねておられた。私はその研究会の席上で高橋さんにお会いするのを楽しみにしていたのであるが、結局は健康上の理由でほとんどそれがかなわなかった。たまにお会いした時にはいつものように明るい声をかけていただいたのであるが、治療の副作用の痕を見るのは、正直言って辛かった。どんな会話をしていいのか、いつもこちらが口ごもってしまった。
 滋賀県立大学の定年を残したまま、今年の3月、高橋さんは大学を辞された。自らの生命の限界を感じ取られた高橋さんは、残された時間を自分の人生の総括に捧げることを決意されたのだと思う。それから間もなく、高橋美久二編『近江の考古と地理』(彦根、滋賀県立大学人間文