2018.06.29

中国(北京)旅行、の巻(2)

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 6月10日(つづき)
(8)孔廟国子監博物館。ここも初めての訪問。牛教授の教え子が研究員をつとめているので、つきっきりで解説いただくのがありがたい。写真は国子監で皇帝が講義をした辟雍の天井の模様。なかなか綺麗に撮れた。

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 6月11日(月)
(9)北行して、居庸関。左から、村元さん、私、牛先生。
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(10)居庸関の万里の長城。風邪の症状がひどく、見上げると絶望的な気分になる。しかし、これを逃すと今度はいつ来れるかわからない。必死の思いで、よじ登る。
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(11)明十三陵。以前に来たのは1979年だから、ほとんど40年ぶりだということになる。これは神宗万暦帝の「定陵」の墓室(地下宮殿)。
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(12)定陵の墳丘。版築の痕がよくわかる。中国の古墳研究では、どういうわけか墳丘の部分には関心が薄いから、じっくりと見たくなってくる。
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(13)明十三陵のうち、成祖永楽帝の「長陵」。これは墓室は未発掘だが、礼制建築群がよく残っている。

 6月12日(火)
午前は自由時間。村元さんは市内の本屋さんめぐりに出かける。私もついて行きたかったのだが、やはり風邪を直すほうに力点を置くべきだということで、ホテルでひたすらに、寝る。
 午後、牛先生の見送りを受けつつ、空港へ。ただ、上空の天候が悪いとかで、三時間以上も機内に閉じ込められる。関空着は22時30分を過ぎる。なんとか、最終よりひとつ手前のバスに乗り込んで、日付が変わる頃に京都着。風邪に祟られたということはあったが、良い経験をさせていただいた旅でした。牛先生、村元さん、ありがとうございました。

中国(北京)旅行、の巻(1)

 6月8日(金)
9時30分京都発の特急「はるか」に乗車。11時30分、関西国際空港で村元健一さん(大阪歴史博物館学芸員)と合流。ただ、飛行機がなかなか離陸せず、かなり遅れて北京に到着。北京空港では、セキュリティ・チェックがものすごく厳格になっており、長蛇の列に驚く。中国人民大学近くのホテル燕山大酒店に入り、招いてくださった牛润珍教授と合流。夕食は同大学内の立派なレストラン。

 6月9日(土)
残念ながら、雨。紫禁城の正陽門を眺めながら、北京の中心軸として整備された前門大街を散策。さらに天安門広場の横を通って紫禁城(故宮博物院)へ向かう。あちこちで、またまたセキュリティ・チェック。太廟、故宮博物院、鼓楼および烟袋斜街、前海・後海(大運河)と火德真君廟、オリンピック森林公園と回る。ただ、風邪をひいてしまったようで、だんだんに調子が悪くなってくる。
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(1)紫禁城の午門。以前に「桓武朝における楼閣附設建築」(『京都都市史の研究』所収)という論文を書いたことがあるので、感慨深い。
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(2)紫禁城の太和殿。ここにくるのも久しぶり。
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(3)もしかすると、今回、一番感激したのはこれかも。故宮博物院の解説装置は、中国語(漢語の普通話)が4種類(スタンダード版、詳細版、子供向け版、男女対話版)、広東語、閩南語(福建語)、チベット語、ウイグル語。さらに外国語は、英語、日本語など35言語(!)が用意されている。驚愕したのは、エスペラント語版までがちゃんと存在していること。帰国してから授業でとりあげてみたが、ウチの学生たちは誰ひとりとしてエスペラント語という言語の存在すら聞いたことがなかったぞ(泣)。日本では「国際化」などといってもしょせんはそれは「英語」オンリーで、良くても中国語(漢語の普通話だけか、またはそれに台湾の繁体字版を加えるくらい)と韓国語を加えるくらいだ。それに比べて中国のこの徹底ぶりはたしかに賞賛に値する!
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(4)昼食は北京名物「老北京炸醤麺」。美味。
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(5)北京の美しい公園「前海」「後海」。知らなかったのだが、隋の煬帝で有名な「大運河」が元の時代にここまで延長されたものだという。
そのあとは、新しい北京の中央軸を眺めることができるオリンピック森林公園に登る。

6月10日(日)
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(6)10年ほど前に新設された「首都博物館」。ここに来るのははじめて。北京の歴史の常設展はなかなかに丁寧。
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(7)首都博物館でやっていた特別展示「チベット歴史文化展」。


2018.06.07

明日から中国

 明日の6月8日(金)から12日(火)まで、5日間だけではありますが、中国(北京)にでかけます。中国人民大学の牛润珍教授が主催される共同研究「中世紀東アジア都城研究国際学術会議」に誘っていただきました。2012年に大病をして以来、海外旅行はずっと自粛してきたのですが、「解禁」ということになります。それでは、行ってきます。

2018.05.07

今城塚古墳ほか、の巻

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 5月5日(土)
 この連休は、めずらしく、予定が詰まっているということにはならなかった。まあ、たまには骨休めの時間があってもよい。
 ただ、行っておかねばならないところはある。ということで、大阪府高槻市行き。

 高槻市駅で降りたが、バスの時刻まではかなり時間があるので、反対側に歩いて、普門寺を訪ねることにする。いうまでもなく、足利義栄が陣所とし、ここで征夷大将軍の宣下を受けて室町幕府の15代(14人目)将軍となったものの、ついに上洛を果たせずに終わったという史跡である。どういうわけか、いままで行ったことがなかった。ただ、拝観は予約制で午後限定ということで、門がしまっていたのは残念。
 そのまま今城塚に向かおうと駅に向かうと、途中に酒蔵の販売店があって、地酒の試飲ができるという。ついフラフラと誘いにのってしまう。濃厚で、なかなかの銘酒。帰りに求めることにする。

 バスに乗って、おめあての今城塚古代歴史館の特別展「古代の日本海文化‐太邇波の古墳時代‐」。5月13日までなので、今、行っておかねば、絶対に見逃すことになる。京都府北部の最新の古墳時代研究の精華を学ばせてもらう。そのあとは、今城塚古墳を散策。

 知らなかったのだが、お隣の茨木市文化財資料館では、企画展として「太田茶臼山古墳と古市古墳群」をやっているという。やはりこの機会を逃さない方がよいだろう。阪急で南茨木駅まで行って、文化財資料館を訪れる。展示は小さいが、これも古市古墳群の新しい情報を得ることができる。さらに、受付で、茨木の「隠れキリシタン」関係の図録などを買い込む。

 高槻に戻って、今度は高槻市立しろあと歴史館。これも5月13日までで、「樫田―丹波の山村と仏像・信仰―」展。樫田は高槻市最北端の山間部の村だが、実はここは摂津国ではなく丹波国。江戸時代には丹波の亀山藩領で、昭和33年までは京都府だった。ただ、京都府亀岡市まではかなり遠く、住民の生活は高槻とのつながりが深かった。ということで、当時としては珍しい府境を超えた合併がおこなわれ、京都府から切り離されて大阪府高槻市に編入されたところである。平安前期の仏像などが大切に守り続けられていたことを知る。

2018.05.02

考古学研究会2018年度大会、の巻

Img_4584(←岡山大学考古学資料展示室)

 4月21日(土)22日(日)
 岡山大学での、考古学研究会の第64回(2018年度)大会に出かける。
 考古学研究会、いうまでもなく、わが国を代表する考古学の学会のひとつであり、学術雑誌『考古学研究』を出し続けている。私がこの学会に入会したのは大学の学部2回生の時だから、会員歴はほとんど40年にわたっているということになる。ところが、会員歴はこれだけ長いのに、どういうわけか、これまで大会に参加したことがなかった。毎年四月という、新年度はじまったばかりのちょっとバタバタしている時期だからということもあり、いままで足を伸ばせなかったのである。
 でも、やはりちょっと反省。会員なのだから、大会に出席する権利は充分に持っている。今年の大会テーマは「権力とは何か-祭祀・儀礼と戦争から考える-」というなかなか魅惑的なものだから、やはり参加して勉強させてもらうことにしよう、ということで、出かけていったのである。
 岡山大学も、考古学研究室の新泉納教授や清家章教授にはこれまでもいろいろ良くしていただいてきたのであるが、大学自体には足を踏み入れるのは初めてである。考古学資料展示室の見学の時間も設けられている。そんなに規模は大きくないけれども、充実した内容の展示は羨ましい限りである。
 大会では、アンデス、ハワイ、縄文、弥生、古墳、そして飛鳥・奈良という広分野にわたっての研究発表が続く。関雄二氏のアンデスは学ぶところ大。ハワイをやられた後藤明先生(南山大学教授)は、元同志社女子大学教授で、私が同女に入る時にお世話になり、仕事をご一緒させていただくのを楽しみにしていたのであるが、私と入れ違いで同志社女子から転出された。久しぶりにお目にかかり、視野を広げさせてもらう。
 懇親会も大いに楽しませてもらい、さらに、例によっての二次会。これも例によって、ちょっと飲み過ぎ。
 知らなかったのだが、閉会にあたって、会場から「コメント」をもらうことが恒例になっているとのことで、どういうわけか私が指名を受ける。ただただ謝意を表するのみ。
 良い会でした。いままで参加しなかったのが悔やまれる。これからは、できるだけ毎年でかけることにしよう。

 追記:
 岡山大学考古学研究室を長く率いてこられた新納泉先生、昨年度で定年を迎えられ、今年度からは特任教授となられたという。もちろん、これからも精力的な活動を続けられるのであろうが、定年という一応の区切りを自祝してエッセイ集「蜻蛉遊記」を自費出版されたとのことで、同書をちょうだいすることができた。すばらしく瑞々しい感性があふれる端正なエッセイの数々、特に、イギリス、アイルランドでの(失敗譚も含めた)軽妙な語り口の体験談に魅了される。

2018.03.28

まもなく新年度、の巻

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(桜景色の平安宮大極殿跡碑)

卒業式が終わり、春がきて桜景色。まもなく新年度がはじまる。

【書いたもの】
■『京都・平泉・首里―都市と宗教・信仰―』高橋康夫・伊ケ崎鷹彦(編)、髙橋康夫・山田邦和・冨島義幸・伊ケ崎鷹彦(著)(「2015年度~2017年度科学研究費補助金 基盤研究(B) 研究課題番号15H04110 研究成果報告書」、京都、ユーラシアのなかの日本中世都市研究会(髙橋康夫〈研究代表者〉)、2018年3月16日)全370頁
~◇山田邦和(著)「世界のなかのアジア古代都市」4~8頁
~◇山田邦和(著)「平安京・京都と天皇陵―葬制の変遷と『天皇陵空間』―」15~96頁

【しゃべったこと】
○「考古学的遺跡・遺物からみた南山城の歴史―恭仁京復元への試み―」山田邦和(報告)
(京都府立京都学・歴彩館「南山城の文化資源共同研究会中間報告会」、京都、同館京都学研究室、2018年1月6日
○「中世都市としての天橋立」山田邦和(講演)
(京都府、宮津市、伊根町、与謝野町、天橋立を世界遺産にする会(主催)「天橋立世界遺産講演会」、京都、京都府立京都学・歴彩館大ホール、2018年2月4日)
○「豊臣秀吉の政権構想と京都」山田邦和(講演)
(京都商工会議所(主催)「京都検定講演会『信長・秀吉と京都(2)』」、京都、京都商工会議所、2018年2月10日)
○「『鎌倉との比較』から見た'中世の嵯峨’」山田邦和(講演)
(NPO法人さらんネット(主催)「第15回文化講演会」、京都、ひと・まち交流館 京都、2018年2月17日)
○「中世京都の都市構造」山田邦和(講演)
(京都市生涯学習総合センター・京都市生涯学習振興財団(主催)「アスニーセミナー(京都市平安京創生館関連講座)」、京都、京都アスニー、2018年3月2日)
◯「大会報告『都市の荘厳―幢幡を立てる儀礼をめぐって―』質疑・討論」舘野和己・山田邦和(座長)、志村佳名子・大澤正吾・海野聡(パネラー)
(条里制・古代都市研究会「第34回条里制・古代都市研究会大会」、奈良、奈良文化財研究所平城宮跡資料館講堂、2018年3月3日)

2018.02.25

四条塚山古墳(治定綏靖天皇陵)、の巻

 Img_0772←山田蔵本『文化山陵図』にみる四条塚山古墳(現在の治定神武天皇陵)

 2月23日(金)
 「陵墓関係16学・協会」による、「陵墓立ち入り調査」。今年度の対象は奈良県橿原市の四条塚山古墳(宮内庁治定の綏靖天皇桃花鳥田丘上陵<つきだのおかのえのみささぎ>)。

 整理しておくと、初代天皇である神武天皇の陵については、洞の丸山、四条塚山、山本ミサンザイの三説が拮抗していた。元禄の修陵で神武天皇陵とされたのは四条塚山であったが、その後には本居宣長らによる洞丸山説が勃興、そちらに決まりかけたかと思ったのであるが、幕末に谷森善臣による山本ミサンザイ説が急迫する。結局、孝明天皇の勅裁を得て山本ミサンザイに決定、宇都宮藩の「文久の修陵」によってそれを整備したのが現在の神武天皇陵なのである。そして、神武天皇陵争いに敗れた(?)四条塚山は第2代の綏靖天皇陵に治定替え、また洞丸山は神武天皇陵の付属地に編入され、さらには洞丸山の麓に広がっていた洞村は紆余曲折のあげくに村ごと移転した、ということになる。つまり、今回の四条塚山古墳は、もとの「神武天皇陵」だということになるのである。

 本体の四条塚山の見学に先立って、10時に近鉄畝傍御陵前駅に集合し、大正時代まで存在していた洞村<ほらむら>の跡の見学。この場所は宮内庁治定の神武天皇陵の陵域(畝傍御陵地)に含まれていて立ち入りには宮内庁の許可が必要なため、私も入ったことがなかった。ただ、宮内庁の方針により、今回は洞丸山のところまでの見学は許可外となったのはいささか残念。

 昼休みを利用して、橿原市の「大久保まちづくり館」を見学。来たい来たいと思っていたのだが、今までその機会を逃していた。大正の姿を残す大規模な住宅建築を保存しており、内部には模型やパネルによって洞村の移転とそれによって成立した(新)大久保村の歴史がわかりやすく展示されている。ちょっと嬉しいのは、この展示の中でパネルに使われている神武天皇陵の絵図の写真のうち、2枚は私の所蔵品であること。お役にたてて何よりである。
 まちづくり館で教えてもらって、昼食はその近くの大衆食堂「ほていや」。小さな店であるがメニューが豊富で、昼のお弁当定食はいずれも550円というリーズナブルさ。

 午後、いよいよ本番の四条塚山古墳の立ち入り。まずは拝所にたっている石灯籠(福尾正彦「綏靖天皇陵前東側所在の石灯籠について」〈高木博志・山田邦和編『歴史のなかの天皇陵』所収、京都、思文閣出版、2010年〉、参照)の観察。そして墳丘のところによっていく。ただ、今回はどういうわけか墳丘の間近まで寄ることが許されなかったので細部の観察ができなかったのは遺憾であるが、古墳であることは間違いない。ただ、従来、測量図から測定していたよりもかなり規模は小さくなると思う。このあたりは、見学終了後に橿原市万葉ホールの講座室をお借りしておこなった検討会でも議論となった。

 最後は、例によっての有志で八木駅前に移動しての呑み会。ここでも濃い議論が続く。

2018.02.22

沖縄旅行、の巻

 2月18日(日)~20日(火)
 沖縄行き。今回は完全に、沖縄の御嶽・拝所めぐりに熱を入れている妻のお供で、友人に会う時間さえとれないという強行軍。
 普天間宮と神宮寺。浜比嘉島で御嶽・拝所めぐり、同島で宿泊。今帰仁まで行って、「源為朝上陸記念碑」と、今帰仁グスクでガイドさんを頼んで「今帰仁上り」の御嶽・拝所めぐり。今帰仁文化センターを駆け足で見学したあと、沖縄料理の「名護曲レストラン」で遅い昼食。宜野湾市の「森の川」になんとか滑り込んだあと、遅くに那覇に戻る。翌日は、那覇市小禄地区で街並み見学。モノレールでホテルに戻り、そこから車で海軍壕公園と豊見グスク跡。

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 浜比嘉島での朝日。こんなに綺麗な夜明けは久しぶり。

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 今帰仁の御嶽のひとつ、「ティラガマ」。伝説ではあるが、源為朝(!)が逃げてきて沖縄の運天に上陸し、この洞窟に隠れ住んでいたという(!)。洞窟の壁の窪みがなんとなく手形に似ているので、為朝の手形と言われている。私の手よりも何倍も大きいぞ。

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 森の川。宜野湾市博物館の近くの公園にある泉。天女が降臨し、地元の人と結婚して、中山王になる察度を産んだという。時代も空間も違うが、飛鳥の酒船石遺跡を思いおこしてしまう。

2018.02.14

「豪商の蔵―貝塚廣海家コレクション」展、の巻

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 2月14日(水)
 京都国立博物館の貝塚廣海家コレクション受贈記念  豪商の蔵―美しい暮らしの遺産―」展に出かける。2月3日から3月18日まで。泉州貝塚(大阪府貝塚市)の廻船問屋の豪商であった廣海家に所蔵されていた膨大な量の美術品を展示する展覧会である。見てみると、確かに凄い。茶道具などの水準の高さにも感じ入るし、豊臣秀吉の書状とか、明月記の写本(確認していないが、おそらくは室町時代の摹本<もほん>)の断簡、古墳時代の単鳳環頭大刀柄頭や金環、平安時代の銅経筒(花入に改造)など、私の観点からしても興味深い物も含まれている。中国南部の銅鼓にいたっては、なんでこんなものまであるんだ!という感じ。

 実は、私の母はこの泉州の貝塚の出身。そして、母から聞いたところでは、母の、母方の曽祖父というのが明治時代にこの廣海家の支配人(大番頭)を務めていたのだという。この展覧会の図録の解説にも、明治20年代に北海道に魚肥の大量買い付けに出かけた人物として支配人の治平という人が出てくるのだが、この治平さんこそ、母の曽祖父すなわち私の先祖にあたる方だということになる。ぜんぜん知らなかったのだが、私自身の源流の一端がこんなところで飛び出したことは、なんだか嬉しい。

2018.02.03

2018年節分、の巻

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 2018年2月3日(土)
 節分、というか、私の誕生日。大台まであと僅かである。それにしても、以前だったら私の誕生日には必ず雪が積もっていた。今年は稀にみる寒冬だったから、今日は雪だろうと予想していたが、大外れ。京都の冬にしてはどちらかというと暖かい部類である。

 やはりどこかにお詣りを、と思うが、人混みにさらされるのは好きじゃない。と、いうことで、「京の伊勢」の異名をもつ、東山の日向大神宮。我が家の菩提寺の安養寺と参道入り口が共用(?)なので、私としては子供の頃から親しんできた神社である。ただ、観光スポットではなく、知る人ぞ知る、という神社だから、落ち着いてお詣りできる。
 上の写真は、外宮。奥に見えているのが内宮。小さいながら、伊勢の神宮そのまま。神明造の社殿がうつくしい。山の上にある伊勢神宮遥拝所までえっちらおっちらと登ると、平安神宮の大鳥居から御所、船岡山、そして左大文字までが一望の絶景。また、内宮の上には「天の岩戸」という洞窟。
 この神社、社伝ではなんと、顯宗天皇の御代(!)に伊勢から勧請されたという。裏付ける史料はないし、社伝は社伝、としか言えないだろうが、京都で顯宗天皇の名を聞くというのはかなり珍しく、これはちょっと面白い。

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