阪神大震災から25年、の巻
あれからもう25年がたつ。平成7年(1995)1月17日5時46分52秒に発生した兵庫県南部地震と、それに伴って勃発した阪神・淡路大震災。この地震では、京都も震度5というかなりの揺れに見舞われたというが、しかし実は私はこの地震を体験していないのである。
その日、私は千葉県船橋市にいた。妻とともにトルコ・イスタンブルに旅することにした。しかし当時はイスタンブル行きの飛行機に乗るためには成田空港からでないとダメだったので、前日に千葉の妹の家に泊めてもらい、その日の朝に成田にむかうことにしたのである。
当日の早朝、妹に起こされた。「関西で大きな地震があったらしい」。すぐにテレビをつけてみたのであるが、その時にはまだ詳しい状況がわからなかった。まだインターネットもスマホもない時代の話である。京都の母に電話しようとしたが、回線混雑のためかぜんぜんつながらない。そうこうしているうちにも、飛行機の出発時刻は迫ってくる。10時にはどうしても成田空港に入っていなくてはならない。不安な心を抑えながら京成電鉄に乗り込み、成田に向かう。
成田でも、空港の大きなテレビでニュースを映し出しており、その前には人だかりができていた。京都は震度5、大阪は震度4、奈良は・・和歌山は・・という形で地震の状況が報じられている。かなりキツい地震だったが、そう被害はないのかな、と思ってしまった。その時には変だなどとは露ほども思わなかったのだが、実はそのニュースでは、神戸のあたりだけは震度が空白になっていたのである! あまりの激震に地震計が壊れたり通信が途絶したりして神戸付近の震度が入ってこなかったのであるが、そんなこと、神ならぬ身 の知るよしもない。
何度も電話を試みるうちに、やっと京都の母の家につながった。母の話では、京都もかなり揺れたが、大きな被害ではないという。それで安心して、私たちは飛行機に乗り込んでイスタンブルに飛んだのである。再度いうが、インターネットもスマホもない時代である。いったん外国に出てしまうと日本の情報からは完全に隔離されてしまう。私は憧れの街・イスタンブルで古代や中世のローマ帝国の遺跡をひたすらに歩きまわることに熱中していた。一度だけ、トルコ人の青年に話しかけられた「お前は日本人か。日本は地震で壊滅したと聞いたが、大丈夫なのか?」。私にはいったい何を言われているのかわからなかった。
私がようやく真実を知ったのは、帰りの飛行機に乗り込んで、そこで日本の新聞が配られた時。神戸の高速道路が横倒しになっている有名な写真をはじめ、言語に絶するような悲惨な被害の状況が紙面に踊っていたのである。驚きのあまり声もでなくなった。そのあと、日本に着くまでの時間があんなに永く感じられたことはなかった。
(写真は、その時のイスタンブル。コンスタンティノポリスのテオドシウス2世の大城壁、ビンビルディルク地下貯水池跡〈有名なイェレバタン・サライ地下宮殿とは別物、その後はマーケットに改造されてしまったとの話も聞くが、どうなってるんだろう〉、コンスタンティノポリス大宮殿跡のモザイク博物館、ヒッポロドーム〈戦車競技場跡〉)